第7章:春を待つ枝
朝の空は薄い金属のように冷えており、東京のビルの輪郭はくっきりと浮かび上がっていた。歩道の植え込みには夜の冷たさがまだ残っており、緑景管理の事務所前で樹守雫葉は手袋をはめる前に白く乾いた息を小さく吐いた。
街路樹は葉を落とし、枝の線だけで空を支えているように見えた。秋に拾った葉は日誌の中で色を深めていたが、目の前の木々はすでに、残すものより落とすものを選ぶ季節に入っていた。
「雫葉、今朝は木より顔が寒そう」
荷台の横で防寒用の上着を引っ張りながら、朝凪伊吹が言った。鼻の先が少し赤く、いつもより声が低く、寒さに少し削られている。
「伊吹も、軽口が凍ってる」
「今のは解凍済み」
「まだ中心が冷たい」
「じゃあ、現場で温める」
「作業で?」
「雫葉の反応で」
雫葉は少し笑って、剪定道具の確認に移った。冬の朝の笑いは夏よりも短く、白い。吐く息と一緒にほどけ、すぐに冷たい空気に吸い込まれていく。
今日の現場は公共施設に隣接する通りでの樹木剪定だった。葉を落とした木々の枝ぶりを確認し、混み合った枝や弱った枝を落として春に芽吹くための形を整える。見た目には寂しくなる作業だが、雫葉はこの季節の剪定が嫌いではなかった。
「冬の剪定って、切る量が見えるから緊張するよね」
雫葉が道具箱を持ち上げると、伊吹が反対側を支えた。
「葉がない分、ごまかせないからな」
「木も人も?」
「急に広げるな」
「伊吹が言いそうだったから、先に言った」
「俺の語彙、先回りされている」
軽口はいつも通りだった。しかし、その奥にあるものは以前とは違っていた。秋のある夜、私たちは少しずつ言葉を交わした。何かが劇的に変わったわけではない。それでも、隣に立つ気配の温度は確かに変わっていた。
作業車が事務所を離れると、東京の朝は硬い音を立てて動き始めていた。自転車のブレーキ音、革靴の乾いた足音、店先のシャッターが上がる鈍い響き。街路樹の枝にはほとんど葉がなく、光が遮られずに歩道に落ちていた。
雫葉は窓の外を見た。冬の木は寂しいと言われやすいが、葉を落とした枝の線にはその木がどう伸びてきたかがそのまま表れている。隠すものがない分、かえって正直に見える。
「冬の木って裸みたいだな」
伊吹が言った。
「言い方」
「いや、変な意味じゃなくて」
「わかってるけど、もう少し樹木管理課らしく言ってよ」
「構造が見える季節」
「急にまじめ」
「解凍された」
雫葉は笑った。車内に小さな温もりが生まれる。寒い朝ほど、こういう何でもないやりとりがありがたい。けれど、ありがたいと思うたび、胸の中に別の痛みも生まれる。
現場に着くと、通りには冬の光が斜めに差し込んでいた。公共施設の前に並ぶケヤキは葉をほとんど落としており、枝だけで空に細かな網をかけているようだった。根元には乾いた落ち葉が少し残っており、踏むと軽い音がした。
雫葉は車を降りて枝先を見上げると、風は弱いものの空気は冷たく、木肌に触れると指先に硬い冷えが返ってきた。夏の湿った樹皮や雨の日の重さとは違う、冬の沈黙がそこにはあった。
「ここ、上の枝が混んでるね」
伊吹が図面を確認しながら言った。
「うん。内側へ伸びている枝を少し落としたい」
「外側は残す?」
「残したい。春に形がきれいに整いそう」
「じゃあ、今日は引き算の現場だな」
雫葉はうなずいた。引き算。冬の剪定にはその言葉がよく似合う。余分なものを落とすことで木の形を整えるが、何を余分と呼ぶのかはいつも簡単に決められるものではない。
「人にも剪定が必要なのかな」
雫葉はそう小さく言ったが、言ってから少し後悔した。
伊吹は枝を見上げたまま、すぐには返事をしなかった。
「必要かもな」
「例えば?」
「言わない方がいいって思い込んでるものとか」
胸の奥が静かに揺れた。伊吹の声は、仕事の話のようでそうではなかった。雫葉は、手袋の指先をこすり合わせた。それは、寒さのせいだけではなかった。
「それ、落とすものなの?」
「落とすというより、見えるようにするために少し整理するもの」
「伊吹、今日はまじめだね」
「寒いと軽口も少なくなる」
「それは少し助かる」
「少し?」
雫葉は笑って作業に戻った。会話はそこでいったん途絶えたが、閉じた後も言葉の輪郭が残っていた。「見えるようにするために整理するもの」。自分の中にある言葉も、そうできるだろうか。
作業は、高い枝の確認から始まった。葉がない分、枝の重なりがよく見える。絡み合う枝、内側に向かう枝、弱って枯れ始めた細い枝。雫葉は、一本一本を目で追いながら、落とす位置を決めていった。
少し離れた場所で同じ木を見上げている伊吹と、視線が何度か同じ枝で重なった。言葉を交わさなくても次に何を言うか分かるこの感覚を、雫葉は大切だと思うほど少し怖くなる。
「雫葉、こっちから見ると右側が重い」
「うん。向こうから見ると少し傾いて見える」
「一本落とすか?」
「落とすなら、あの内側の枝」
「同じところ見てた」
「見てたね」
その一言だけで胸が少し温かくなった。同じところを見ていた。それは仕事の判断なのに、今はそれ以上の意味を持ってしまう。雫葉はすぐに枝に視線を戻した。
剪定ばさみが枝に入る音は、冬の空気の中で乾いて響いた。葉がないため、切られた枝は軽く見えるが、手に持つとしっかりと重さがある。雫葉はその枝を受け取り、切り口を見た。
「きれい」
思わず言うと、伊吹が振り返った。
「切り口?」
「うん、中はちゃんと生きてる」
「外からは枯れて見えても?」
「枝先だけだったんだね」
雫葉は、切り口に現れた淡い色を見つめた。木の内側にはまだ春に向かう力がある。外から見える寂しさだけで判断してはいけない。人もたぶんそうだ。
「雫葉、今また木側にいる」
伊吹が言った。
「今日は六割くらい木側」
「人間側、寒さに負けてるな」
「伊吹も似たようなものだよ」
「俺は今日は枝側」
「枝?」
「落とされるか残されるか、雫葉の判断待ち」
「責任重いからやめて」
伊吹は笑った。雫葉も笑った。軽口は戻ってきたが、その中に本当のようなものが混じるたびに胸が静かに反応してしまう。
昼に近づくころ、通りには人が増えてきた。公共施設へ向かう人、ベビーカーを押す人、散歩中の人。葉のない木は日陰を作らず、冬の光はそのまま歩道に落ちている。夏にはありがたかった影は、今はないけれど困らない。
季節によって求められるものは変わり、雫葉はいつも木からそれを教えられる。同じ枝でも夏には影を作り、冬には光を通す。役目は一つではない。
「ここ、少し明るくなったね」
施設から出てきた女性が足を止めて言った。
「枝を整えたので、冬の光が入りやすくなったと思います」
雫葉がそう答えると、女性は空を見上げた。
「夏は涼しくて助かるんです。でも、冬は少し日が入る方が良いですね」
「はい。季節に合わせて、木も形を変えられるようにしています」
女性は「そうんですね」と微笑んで歩いていった。雫葉はその背中を見送り、少しだけ息を吐いた。木に求められることは矛盾している。夏は影を、冬は光を。同じ木が、そのどちらも受け止めている。
「雫葉、今の説明、よかったよ」
伊吹が枝をまとめながら言った。
「仕事だから」
「仕事以外でも、雫葉はああいうところを見るよな」
「どういうところ?」
「矛盾していても、簡単に片方を切らないところ」
雫葉は黙った。伊吹は気軽に言ったのかもしれないが、その言葉は雫葉の深いところへ届いた。簡単に片方を切らない。雫葉は、伊吹への気持ちと同期としての日常を、どちらも残したいのかもしれない。
「それ、いいこと?」
雫葉が聞くと、伊吹は少し考えた。
「いいことだと思う。でも、しんどいことでもある」
「うん」
「雫葉はそういうのを抱えがちだから」
「また見えてる」
「見えてしまうから」
「今日は便利じゃない?」
「今日は、少しだけ便利」
伊吹は笑った。雫葉は枝をまとめながら胸の奥でその言葉を受け取った。それはしんどいことでもあったが、彼はそれを責めずに言ってくれた。だから余計に隠しているものがほどけそうになった。
昼休憩は施設裏の小さな広場で取った。冬の光がベンチの半分だけを照らしている。雫葉は日向側に腰を下ろし、手袋を外した。指先は冷えて少し赤くなっていた。
伊吹は缶コーヒーを買ってきて片方を雫葉に差し出した。温かい缶で、受け取った瞬間手のひらに熱が広がった。
「甘い方?」
と雫葉が聞くと、伊吹は頷いた。
「冬だから」
「理由になってる?」
「寒い日の糖分は正義」
「伊吹の正義、よく増えるね」
「季節ごとにある」
雫葉は缶を両手で包んだ。金属越しの熱が冷えた指先を、ゆっくりと温めていく。伊吹は少し斜め前に座って自分の缶を指先で回していた。それは、疲れた日や考え込むときのしぐさだった。
「考え事?」
雫葉が聞くと、伊吹は缶の側面を見たまま笑った。
「ばれた」
「見えてしまうものです」
「使い返された」
「便利だから」
伊吹は少し黙って、それから広場の木に視線を向けた。葉を落とした枝が冬空に細く伸びており、その向こうではビルのガラスが光を反射していた。
「春にちゃんと芽吹くためだから」
「何が?」
「冬の剪定」
伊吹は缶を回す手を止めた。
「余計な枝を落とすのって寂しく見えるけど、春に力を回すためでもあるだろ」
雫葉は、缶を包む手に少し力を入れた。その言葉は、あまりにも的を射ていた。春にちゃんと芽吹くため。今落とすものは終わりではなく、次へ向かうための準備でもある。
「伊吹は、落としたいものある?」
雫葉が尋ねた。その声は、思ったよりも静かだった。
伊吹はすぐには答えなかった。広場の遠くで自動販売機のモーター音が低く響いている。冬の空気は音を遠くまで通す。
「怖がりすぎるところ」
やがて伊吹が言った。
「伊吹が?」
「うん」
「怖がりには見えない」
「見えないようにしてるから」
雫葉は伊吹を見た。彼は缶コーヒーの飲み口を見つめていた。冗談ではない声だった。
「雫葉のことになると、特に」
その言葉で胸の奥がぎゅっと締め付けられた。名前を呼ばれただけではない。自分のことになると、と彼が言った。その響きが冬の光の中で少しだけ、はっきりと形を成した。
「私のこと?」
伊吹は少し笑った。逃げるためではなく、照れを隠すための笑いだった。
「仕事仲間として」
「便利な言葉」
「今のは便利に使った」
「自覚あるんだ」
「ある」
雫葉は缶コーヒーを見つめた。温かさは少しずつ弱くなり、手のひらに移った熱だけが残る。伊吹の言葉もそうやって、体の内側へと移っていく。
「私は」
雫葉は言いかけて止まった。
伊吹がこちらを見た。
「何?」
「落としたいもの、考えた?」
「うん」
「平気なふり」
伊吹の目が少し揺れた。雫葉は缶を両手で包んだまま視線を落とした。
「全部は無理だけど」
「全部じゃなくていいだろ」
「剪定みたいに?」
「うん。急に丸裸にしなくていい」
「言い方」
「構造が見える季節だから」
雫葉は笑った。笑いながら少しだけ泣きそうにもなった。伊吹はいつも近すぎる言葉を、冗談の端で柔らかくする。それがありがたくて苦しい。
午後の作業は、通りの奥にある大きなケヤキから始まった。幹は太く、枝は高いところで複雑に分かれている。葉がないからこそ、枝の癖がよく見える。どの枝が残り、どの枝が内側をふさいでいるのか、雫葉はゆっくり目で追う。
この木は初めに失われたケヤキとは違うけれど、同じ名前の木を前にするとどうしてもあの朝を思い出す。幹に手を添えたときの冷たさ、伊吹の冗談、そしてなくなった交差点の広すぎる空。
雫葉は手袋の指先で幹に触れた。冬の樹皮は硬く乾いており、失われた木とは違う温度だった。それでも木に触れると、胸の奥に沈めていたものが少し揺れた。
「大丈夫か?」
伊吹が聞いた。
「うん、あの木とは違うから」
「言う前にわかるの、嫌か?」
雫葉は少しだけ笑った。
「嫌じゃない。でも、たまに悔しい」
「悔しい?」
「隠す前に見つかる感じがする」
伊吹は幹の向こう側で黙った。風が枝を鳴らす。葉がないので音は軽く、乾いている。
「俺もある」
「伊吹も?」
「雫葉に見つかる前に隠したいことがたまにある」
「隠せてる?」
「たぶん、あんまり」
「そうだね」
伊吹は小さく笑った。雫葉も笑った。幹を挟んだその笑い声は、いつもより少し静かだった。見つかることが怖い。でも、見つけてもらえることに救われる。矛盾しているのに、どちらも本当だった。
作業は慎重に進んだ。高い枝にロープをかけ、内側を向いた枝を落とし、枝どうしがこすれていた部分を整える。切るたびに、冬の空が少しずつ見えるようになった。
雫葉はその変化を見上げた。切られた場所は寂しいけれど、そこから光が入るし、風も通るし、残った枝の輪郭がさっきよりはっきりする。
「切ったのに、きれいになるのって不思議」
雫葉が言うと、伊吹がうなずいた。
「痛そうに見えるけどな」
「うん」
「でも、必要な傷もあるんだろうな」
必要な傷。雫葉はその言葉を胸の中で繰り返した。恋を伝えることも、もしかしたらそうなのかもしれない。今の関係に小さな傷をつけるかもしれないが、その先に光が入る可能性もある。
「雫葉、今の顔」
「何?」
「枝じゃないものを見ていた」
「伊吹もでしょ」
「ばれたか」
「見えてしまうものです」
言葉を返すと、伊吹は少し笑った。軽く言えたことに雫葉は自分で少し驚いた。以前なら見透かされることを怖がってすぐに逃げていたが、今も怖いものの、逃げ方が少し変わっていた。
夕方に向かう前、最後の枝を落とした。空がすっと抜け、冬の光が通りの奥まで差し込んだ。施設の窓に淡い反射が生まれ、歩道の冷たさが少し和らいだように見えた。
「いい形になった」
伊吹が枝を見上げて言った。
「うん、春に芽吹いたらきれいだと思う」
「見に来るか?」
「仕事で?」
「仕事でもいいし」
伊吹はそこで少し言葉を切った。雫葉は続きを待った。冷たい空気が短い沈黙をくっきりと残した。
「仕事じゃなくても」
伊吹の声は小さかったが、確かに聞こえた。
雫葉は枝先を見上げたまま、すぐには答えられなかった。「仕事じゃなくても」。たったそれだけの言葉なのに、今まで守ってきた境界線に静かに触れてくる。
「春に?」
「うん」
「覚えていたら」
雫葉は言った後、少し後悔した。逃げたように聞こえただろうか。しかし、伊吹は笑った。
「じゃあ、覚えてる」
「伊吹は忘れなさそう」
「忘れないようにする」
「それ、少しずるい」
「たまには」
雫葉は笑った。胸の奥が温かく、少し痛かった。春の約束のようなものが冬の剪定現場に置かれた。まだ芽吹いていない枝先に未来が少しだけ結ばれた気がした。
作業を終えるころには、空の色が薄く暮れ始めていた。冬の夕方は早い。ビルの影が通りに落ち、さっきまで届いていた光がゆっくりと消えていく。切り落とした枝をまとめる手に、冷えが戻ってきた。
雫葉は枝を束ねながら今日落としたものを見た。弱った枝、混み合った枝、内側へ伸びすぎた枝。どれも邪魔だったわけではないが、これからのために落とされたのだ。
「落とした枝って少し寂しいね」
雫葉が言うと、伊吹は枝の束を持ち上げた。
「でも、無駄ではないだろ」
「うん」
「木が次へ行くためのものだから」
「人も?」
伊吹は少しだけ雫葉を見た。
「たぶん」
その短い答えに、雫葉はうなずいた。自分は何を落とせるだろう。平気なふり、同期という言葉に隠れすぎること、怖いから何も言わないままでいること。全部を一度には落とせない。でも、少しずつなら。
会社に戻る途中、車窓の外はすぐに夜に傾いていった。冬の街は、明かりが早く目立つ。建物の窓、信号、店先の小さな明かり。葉の少ない街路樹は、その光を遮らず、枝の線だけを黒く浮かび上がらせていた。
雫葉は膝の上で日誌を押さえた。中にはケヤキの葉と秋に拾った途中の色の葉が入っている。今日は何も拾っていないけれど、春に見に来るかもしれない枝の記憶が胸の中に残っている。
「雫葉、手冷えてない?」
伊吹が助手席から聞いた。
「冷えてる」
「言えた」
「それくらい言えるよ」
「前より早い」
「経過観察しないで」
「改善傾向あり」
「報告書に書かないで」
伊吹が笑う。雫葉も笑う。冬の車内に暖房の乾いた風が流れている。窓ガラスの端が少し曇って外の灯りをぼかしていた。
会社に戻ると、事務所は外よりも暖かかったが、作業着に染みた冷えはすぐには抜けない。雫葉は手を洗って、温かい水が指先に触れる感覚をしばらく味わっていた。
報告書には剪定箇所と目的、枝の状態、春以降の経過観察を記録した。言葉は事務的に整えられていくが、その裏側には今日の寒さや切り口の淡い色、そして伊吹の「仕事じゃなくても」という言葉が残っている。
「ここ、春に再確認でいい?」
伊吹が隣の机から声を掛けた。
「うん。芽吹きの状態を見る」
「仕事で」
雫葉は画面を見たまま少し笑った。
「仕事で」
「仕事じゃなくても」
と続けられた声に、伊吹の指が止まった。伊吹は画面を見ていて、こちらを見ていないが、逃げてはいない。
「覚えていたら」
雫葉は同じ言葉を返した。
「覚えてるって言った」
「じゃあ、春に」
「うん、春に」
春に、というその言葉は、冬の事務所の中で静かに温かかった。それは、約束と呼ぶにはまだ曖昧で、仕事の予定と呼ぶには少しだけ柔らかいものだった。雫葉は、その曖昧さを今は壊したくなかった。
夜が深まるころ、雫葉はロッカーの前で防寒具をたたんだ。外はさらに冷えているらしく、窓の向こうの街灯が少し硬い光を放っていた。伊吹は剪定ばさみをケースにしまい、いつものように丁寧に留め具を閉めた。
「帰る?」
伊吹が言った。
「帰る」
「今日は駅までまっすぐ?」
雫葉は少し考えた。いつもは何度も歩いた道だが、今日は別の道を行きたかった。会社の裏手には、冬空に街路樹の枝がはっきりと見える細い通りがある。
「裏の通りを通りたい」
「寒いぞ」
「枝が見えるから」
「雫葉、木の方が強い」
「今日は七割」
「勝てないな」
会社を出ると、夜の空気が頬を一気に冷やした。裏通りは人通りが少なく、店の灯りも控えめだった。冬の街路樹は葉を落とし、枝の影を細く舗道に伸ばしていた。
雫葉と伊吹は並んで歩いた。肩先の距離は前より少しだけ意識しなくなったが、近づきすぎないようにする緊張感はまだある。しかし、隣にいることを怖がりすぎない静けさも育っていた。
「この道、初めて通るかも」
伊吹が言った。
「私も久しぶり」
「枝を見るため?」
「うん、冬はよく見えるから」
「雫葉は見える季節が好きなんだね」
「隠れている季節も好きだけど」
「両方ともか」
「簡単に片方を切らないようにしているから」
伊吹は笑った。昼間の言葉を覚えていることがわかった。雫葉も笑った。冷たい空気の中で、笑いは白くほどけた。
通りの途中で古い街路樹の下に立ち止まった。葉のない枝が街灯の光を細かく分けており、夏なら影を落としていた場所に今は枝の線だけが伸びていた。寂しいのに、きれいだった。
「春に芽吹くためか」
雫葉が言うと、伊吹が隣でうなずいた。
「うん」
「今は寂しくても?」
「今は寂しくても」
その言葉が胸の奥へゆっくり沈んでいく。今は寂しくても、今は怖くても、まだ言えなくても、春に芽吹くための冬があるのなら、この曖昧な時間にも意味があるのかもしれない。
「伊吹」
「何?」
「怖がりすぎるところ、落とせるといいね」
伊吹は少し驚いたようにこちらを見て、それから息だけで笑った。
「雫葉も平気なふり」
「少しずつ」
「少しずつ」
言葉が重なった。声の大きさは違っていたが、同じ場所へ落ちた。雫葉は足元を見た。街灯の下で、並んだ靴先の影が枝の影に混ざっていた。
「春に見に来ようね」
雫葉は言った。今度は「覚えていたら」とは言わなかった。
伊吹は黙った。ほんの少しの沈黙だったが、冬の夜にはその短ささえも輪郭を持つ。
「うん」
彼は答えた。
「見に来よう」
その返事だけで雫葉の胸は静かに満たされた。まだ恋人ではない。まだ好きだとは言っていなかった。けれど、春の約束ができた。仕事の外側にほんの少しだけ足を踏み入れた。
駅へ続く大通りの明かりが見えてきた。人の流れも増え、裏通りの静けさは少しずつ薄れていく。それでも雫葉は、今日の枝の影を忘れないだろうと思った。
「また明日」
伊吹が言った。
「また明日」
雫葉は返した。
いつもの言葉なのに、今夜は春まで伸びる細い枝のように感じられた。明日だけではなく、その先へ、まだ見えない花芽の方へ。
伊吹は駅の方へ歩いていった。雫葉は少しだけ見送ってから、反対側の通路へ進んだ。振り返らなかった。振り返らなくても、約束は背中に残っている。
冬空の下で落とされた枝は、もう木には戻らない。けれど、残った枝は春に向かう。雫葉はそのことを思いながら冷えた夜気を吸い込んだ。
胸の中でも何かが少しだけ整えられた気がした。なくなったわけではない。むしろ、見えやすくなったのだ。言えない想いは枝のように残り、冷たい空に向かって静かに次の季節を待っていた。




