第6章:迷い色の葉
朝の空は夏の終わりを少しだけ手放し始めていた。光はまだ明るいのに、肌に触れる風の底には薄い冷たさが混じっていた。緑景管理の事務所の前では、街路樹の葉がところどころ色を変え始めており、まだ青い枝の中に黄色く色づいた葉が一枚、静かに揺れていた。
樹守雫葉は、作業用手袋をはめる前にその葉を見上げた。季節は急には変わらない。けれど、気づいた時には、もう戻れないところまで進んでいる。木は、そういう変化をいつも人より先に見せる。
「雫葉、今日も木と会議?」
と、朝凪伊吹が荷台の横で落ち葉袋を広げながら言った。夏の暑さは少し引いたはずなのに、彼はまだ首元にタオルを掛けている。
「今日は会議じゃなくて面談」
「葉っぱの進路相談?」
「青のままでいるか、黄色になるか」
「だいぶ深刻だな」
「伊吹も受ける?」
「俺は常緑でいきたい」
雫葉は笑い、落ち葉回収用の袋を持ち上げた。軽いはずの袋が、今日一日の仕事を思うと、少し大きく見えた。秋の仕事はきれいなだけではない。落ち葉は景色にもなるが、苦情の原因にもなる。
今日の現場は住宅街に近い遊歩道と小さな広場だった。街路樹の落葉が始まり、滑りやすい場所や排水溝の詰まりを確認する。夏の影を守った並木道とは違い、今度は落ちるものをどう扱うかを見る日だった。
「落ち葉って、好き?」
伊吹が作業車へ乗り込みながら聞いた。
「好き。でも現場では少し困る」
「好きなのに困るって、面倒だな」
「伊吹みたいだね」
「俺、落ち葉枠?」
「拾われるか掃かれるかは、態度次第」
「厳しい季節が来た」
伊吹は笑った。雫葉も笑った。笑いは自然に返ってくる。しかし、祭りの夜に彼が言った言葉は、まだ雫葉の中で熱を帯びていた。触れたら離したくなくなるような気がした。その一言を思い出すたびに、手首のあたりがかすかに疼いた。
作業車が会社を離れると、東京の朝は少し乾いた音を立てていた。道路脇の木々は、まだ濃い緑を残しながらところどころに秋の色を差していた。歩道には細かな落ち葉が貼りつき、靴に踏まれるたびに薄い音を立てていた。
雫葉は窓の外を見ていた。夏の光が強かった頃とは違い、影は少し長く、建物の角が柔らかく見える。季節が変わると、同じ東京でも、歩く人の肩の高さが違って見える気がした。
「今日、静かだな」
助手席から伊吹が言った。
「秋のせい」
「便利な言葉だな」
「低気圧より使える」
「俺の軽口も秋仕様にするか」
「少し落ち着く?」
「無理だな」
「自覚あるんだ」
車内に小さな笑いが広がる。雫葉はそれを聞きながら胸の奥にある温度を確かめた。好きだという気持ちは、もう見ないふりだけでは収まらないほどに育っていた。それでも口に出せないのは、今の距離を壊したくないからだ。
遊歩道に着くと、地面にはまだらな色が広がっていた。黄色、薄茶色、そしてまだ青さを残した葉。葉は濡れていないが、朝露を含んで少し重くなり、舗装にしっかりと貼りついている。風が吹くたび、乾いた葉だけがカサリと動いた。
雫葉はしゃがんで排水溝の周りを見ると、落ち葉が少し溜まっていた。雨が降れば流れを妨げる量だ。雫葉は手袋の指先で葉を寄せると、土と乾いた葉の匂いが混ざって立ち上がった。
「秋の匂い」
雫葉がそう言うと、伊吹が近づいてきた。
「焼き芋?」
「違う。もっと手前」
「手前?」
「まだ焼かれていない葉っぱの匂い」
「それ、だいぶ雫葉語だな」
「伝わらない?」
「いや、少し伝わる」
伊吹はしゃがんで落ち葉を一枚拾い、手袋の上に乗せて葉脈を見た。彼の指先はいつも道具を丁寧に扱っており、落ちた葉にまでその丁寧さが表れるのが雫葉は好きだった。
「これ、苦情になるんだよな」
伊吹が言った。
「なるね。滑るし、詰まるし、掃除が大変だし」
「でも、きれいだ」
「うん」
「同じものなのにな」
雫葉はうなずいた。同じ葉が、誰かには秋の景色で、誰かには迷惑になる。価値は一つではない。見る場所、歩く速度、抱えている事情によって、同じものがまったく違う意味を持つ。
「恋もそうなのかな」
言葉は思ったより小さく出て、雫葉は自分で驚いてすぐに落ち葉へ視線を戻した。
伊吹はしばらく黙っていた。遊歩道の向こうで自転車のブレーキが短く鳴り、木々の間を風が通り抜けた。
「今の、聞いていいやつ?」
「聞かなかったことにして」
「なかったことにはしない約束だろ」
雫葉の胸が跳ねた。伊吹の声はからかっておらず、静かで少し慎重だった。
「ずるい」
「たまには使う」
「便利な約束みたいにしないで」
「便利じゃない。結構、重い」
伊吹は拾った葉を落ち葉袋へ入れた。その動作がゆっくりで、雫葉は伊吹の横顔を見てしまった。重いと言った声には冗談の逃げ道がなかった。
「恋の話じゃなくて」
雫葉は少し遅れて言った。
「同じものでも、人によって違うって話」
「うん」
「ただ、それだけ」
「それだけにしては、顔が秋色だった」
「何、その表現?」
「雫葉語に対抗した」
雫葉は笑った。笑えてよかったと思ったが、胸の奥ではまださっきの言葉が揺れていた。恋もそうなのかな。自分で口にしたくせに、答えを聞くのが怖かった。
作業は遊歩道の奥へ進んだ。両側に並ぶ木々はまだ多くの葉を残しているが、枝先から少しずつ色抜けが始まっている。落ち葉を集め、滑りやすい箇所を確認し、根元の土の状態を見る。地味な作業だが、雫葉には大切な仕事に思われた。
落ちたものをすべて邪魔だと決めつけることはできないが、放っておけば誰かが転ぶかもしれない。美しいものにも手入れが必要だ。残すものと取り除くもの、その境目を間違えないように見極めなければならない。
「雫葉、ここ」
伊吹が少し先で呼んだ。
「何?」
「根元の土が流れている」
雫葉が近づいて膝をつくと、木の根元の土が削られて細い根が少し見えており、落ち葉がその上に溜まって湿気を抱えたままになっているのが分かった。
「雨のあとに流れたね」
「落ち葉、少し残した方がいいかな?」
「全部取ると乾きすぎるかもしれないけど、溜まりすぎると蒸れるし」
「ちょうどいい量が難しいな」
「何でもそうだね」
雫葉はそう言ってから少し黙った。距離も言葉も触れ方も、少なすぎれば届かず多すぎれば苦しくなる。ちょうどいい量を探しているうちに季節だけが先へ進んでいく。
伊吹は何も言わなかった。聞こえていないわけではない。聞こえていて、あえて仕事上の沈黙にしてくれているのだと思った。
「雫葉、残す分はこっちへ寄せる?」
「うん、根元を覆うくらいで」
「了解」
短い会話を交わして作業に戻る。雫葉はその切り替えに救われた。感情だけで立っていると危うい。けれど仕事があると、手を動かす場所がある。木はいつも雫葉に、逃げ道ではなく足場を与えてくれる。
昼が近づくにつれ、遊歩道には人が増えてきた。犬を連れた人、買い物帰りの人、ベビーカーを押す人など、さまざまな人が行き交う。落ち葉を避けて歩く人もいれば、あえて葉の上を踏んで音を鳴らす子どももいる。
小さな男の子が赤くなりかけた葉を拾って母親に見せていた。母親は急いでいるのか「はいはい」と言いながらも少しだけ歩く速度を落とした。その短い足止めはやけに雫葉に優しく見えた。
「拾う人もいるんだよね」
雫葉が言った。
「雫葉だけじゃなくて?」
「私を落ち葉収集家みたいに言わないで」
「違うのか」
「否定しきれないけど」
伊吹は笑った。雫葉は落ち葉袋の口を整えた。袋の中にはもうかなりの量の葉が入っていて、持ち上げると軽いのにかさがある。落ちた葉はひとつひとつは薄いのに、集まるとちゃんと重さを持つ。
言えなかった言葉も同じかもしれない。昨日、今日、一週間前。飲み込んだ小さな言葉が積もって胸の中でかさ増ししている。まだ持てると思っていたものがいつの間にか抱えづらくなる。
「雫葉、袋重い?」
伊吹が聞いた。
「嵩があるだけ」
「持つ」
「持てる」
「本当に持てる?」
雫葉は彼を見た。雨の日からその確認の仕方が変わり、からかいではなく本当に見ているような声だった。
「少し重い。半分、お願い」
「よし」
伊吹は何でもない顔で袋を受け取り、雫葉は手を離した。すると、ほんの少しだけ軽くなった。その軽さは体だけではなく、胸にも届いた。
「言えたじゃん」
伊吹が笑った。
「落ち葉袋の話だから」
「最初は何でもそこから」
「先生みたい」
「樹守雫葉、平気なふり改善計画」
「勝手に計画しないで」
「管理計画、得意になりたいから」
雫葉は笑った。伊吹の夢を思い出す。公園の管理計画を作れる側になりたいと言った日。彼が見ている未来に自分の言葉が少し関わってしまったこと。あれからずっと伊吹の未来を勝手に気にしている自分がいる。
広場の木陰で休憩を取っているころ、空の光は少し白くなっていた。夏ほどの熱はないものの、動くと汗ばむ陽気だ。ベンチの上には乾いた葉が数枚落ちており、雫葉は座る前にそっとそれらを横に寄せた。
「そこまで丁寧に避ける?」
伊吹は隣ではなく、斜め向かいの低い縁石に腰を下ろした。
「潰すのが何となく嫌で」
「でもあとで掃く」
「それは仕事」
「難しいな」
「うん、難しい」
雫葉は水筒を開け、口に含んだ。冷たさは朝より弱くなっていたが、それでも喉には十分だった。近くの植え込みから乾いた土の匂いがして、秋の入口は夏より少し粉っぽかった。
「さっきの話」
伊吹が言った。
「さっき?」
「恋もそうなのかなってやつ」
雫葉は、水筒のふたを閉める手を止めた。ここで戻ってくるとは思わなかった。伊吹は、足元の落ち葉を見ている。
「聞かなかったことにしてって言った」
「なかったことにはしない約束だから」
「またそれ」
「重いけど、便利だな」
「伊吹」
「ごめん。でも、少し考えた」
雫葉は黙った。聞きたい、聞きたくない、その間で息が浅くなる。広場の向こうでは昼休みの人たちが通り過ぎていくが、誰もこちらを見ていないのにひどく見られているような気がした。
「同じ気持ちでも、誰が持つかで意味が変わるのかなって」
伊吹は言った。
「意味?」
「相手を困らせるものになることもあるし、支えになることもあるだろ」
雫葉は足元の葉を見つめた。黄色い葉の端が少し欠けていて、きれいでもあり壊れかけてもいるようだった。
「それは、受け取る人が決めるのかな」
「たぶん」
「持っている人じゃなくて?」
「持っている人だけでは決められない気がする」
伊吹の声は静かだった。雫葉は雨の日に自分が言った言葉を思い出した。「困るかどうか、伊吹が決めるの?」あの時雨に押されるようにして口にした言葉が今日になって別の形で返ってきている。
「伊吹は、怖い?」
雫葉は聞いた。
伊吹は少し笑った。困ったときの笑いではなく、自分の中を探るような静かな笑いだった。
「怖いよ」
「何が?」
「間違えること」
風が吹き、ベンチの端の葉が一枚落ちた。雫葉の靴のそばで止まったが、彼女はそれを拾うことなく、ただそこにあるのを見ていた。
「間違けたら、戻れない?」
「戻れないこともある」
「うん」
「でも、何も選ばなくても、勝手に変わることもある」
伊吹はそう言った。雫葉は顔を上げたが、彼はまだ足元を見ていた。言葉の選び方が慎重だった。雫葉を困らせないようにしながらも、逃げないようにしているようだった。
「季節みたいに?」
雫葉がそう尋ねると、伊吹は小さくうなずいた。
「たぶん」
雫葉の胸の奥が少し痛んだ。選ばなくても季節は変わり、同期のままでいようとしても胸の中の葉は少しずつ色を変えていく。青いままではいられない。
「じゃあ、見てないふりはできないね」
雫葉がそう言うと、伊吹がこちらを見た。
「うん」
それだけだった。けれど、その一言で十分だった。何かを決めたわけでもないし、告げたわけでもない。ただ、同じ変化を見ていることを少しだけ認めたのだ。
休憩の後、作業は住宅街側へ移った。住宅街の落ち葉は遊歩道よりも苦情が出やすい。玄関先に吹き込んだり、排水溝に溜まったり、濡れると滑ったりするからだ。雫葉は住民の声を想像しながら葉を集める場所を選んだ。
角の家の前で年配の男性がほうきを持って立っていた。雫葉が挨拶すると、男性は少し苦笑した。
「毎年この時期は大変でね。きれいだけど、朝にはもう積もってる」
「ご迷惑をおかけしています」
「いや、木が悪いとは思っていないんですよ。夏は助かるしね。ただ、腰がね」
男性はそう言って笑った。雫葉はその笑いの中に文句だけではない愛着があると感じた。同じ葉が助けにも負担にもなる。やはり一つには決められない。
「落ち葉がたまりやすい場所は、こちらで重点的に確認します」
雫葉がそう言うと、男性はほっとしたようにうなずいた。
「助かります。切られすぎるのも寂しいので、そこはうまくお願いします」
「はい、残すところは残します」
その言葉を言いながら、雫葉は自分の胸にも同じことを言っているような気がした。落とすものは落とし、残すものは残す。しかし、何を残すべきかは簡単にはわからない。
少し離れた場所から排水溝の詰まりを確認していた伊吹は、男性が家へ戻ると落ち葉袋を抱えて戻ってくる。
「残すところは残します。いい言葉だな」
「聞いてたの?」
「聞こえた」
「また見えてしまうもの?」
「今日は聞こえてしまうもの」
「便利すぎる」
伊吹は笑い、集めた葉を袋に入れた。乾いた葉が重なり合って、かさりと音を立てた。雫葉はその音が好きだった。小さくて、もろくて、でも、季節そのものの音がする。
午後の光は少しずつ斜めになり、まだ日は高いのに影の端が柔らかく伸び始めた。遊歩道の落ち葉は朝より乾き、風に吹かれるたびに集めたそばから少しだけ散った。
「きりがないね」
雫葉が言うと、伊吹はほうきを持ったままうなずいた。
「秋は終わらないからな」
「まだ始まったばかりだよ」
「じゃあ、始まったばかりなのに手強いな」
「伊吹みたい」
「俺、今日いろんなものに例えられるな」
「落ち葉、常緑、秋」
「だんだん植物から季節になってる」
雫葉は笑いながら箒を動かした。軽口はいつも通りの形をしているのに、もうただの軽口には聞こえない。どの言葉の奥にも少しだけ本音の気配が混じっている気がした。
作業の終盤、雫葉は一枚の落ち葉を拾った。鮮やかな黄色ではなく、端は茶色く、中央だけがまだ淡く明るい、きれいというよりも途中の色だった。彼女はそれをしばらく見つめた。
「持って帰るの?」
伊吹が聞いた。
「迷ってる」
「珍しい。いつも拾ったら持って帰るのに」
「これは、どっちかなと思って」
「どっち?」
「残す葉か、掃く葉か」
伊吹は少し黙って、それから雫葉の手元を見た。
「雫葉が迷ったのなら、残してもいいんじゃないか」
「基準が私?」
「少なくとも、その葉は雫葉に見つかった」
その言葉が雫葉の胸に静かに響いた。見つかったものはもうなかったことにはできない。言葉も、気持ちも、落ち葉も。
雫葉は、その葉をケヤキの葉とは別のページに作業日誌の間へ挟んだ。今日の色を、今日のまま持ち帰るために。
会社に戻るころには、空は淡い金色に変わっていた。夏の夕方よりも薄く、雨上がりの夜よりも乾いている。車窓を流れる街路樹の影は少し長く、歩道を歩く人たちの足元に静かに伸びていた。
雫葉は膝の上に置いた日誌を指先で押さえた。中には失われた木の葉と今日拾った秋の葉が入っている。時間の異なるものが同じ鞄の中にあることが不思議だった。
「雫葉、今日の葉は何色?」
助手席から伊吹が聞いた。
「途中の色」
「いいな、それ」
「きれいな言葉に聞こえるけど、ただの迷い色だよ」
「迷い色でも、色は色だろ」
雫葉は窓の外を見た。伊吹の言葉は時々、簡単すぎるほどまっすぐで困る。迷っている状態に名前を与えてくれ、まだどこにも着いていないことをそれでも一つの色として見てくれる。
会社に戻ると、事務所には夕方の乾いた空気が流れていた。落ち葉袋の数を記録し、排水溝周りの状況をまとめる。キーボードを打つ指にはまだ箒の感触が残っていた。
伊吹は隣の机で写真データを整理していた。落ち葉のたまった箇所、根元の状態、住民の要望。画面に映る葉の色は実際より少し鮮やかに見える。
「この写真、報告書に使う?」
伊吹が聞いた。
「うん、排水溝の前のやつ」
「雫葉が拾った葉は?」
「使わないよ」
「記録対象じゃないの?」
「個人的すぎる」
「じゃあ、雫葉の中で経過観察」
「また勝手に計画してる」
「得意になりたいから」
雫葉は笑った。伊吹も笑った。けれど、笑いの後に生まれた沈黙は以前より少し柔らかかった。怖さがなくなったわけではないが、沈黙をすぐに埋めなくても息ができるようになっていた。
「伊吹」
「何?」
「間違えるのが怖いって言ったでしょう」
「言った」
「私も、怖い」
伊吹は手を止めた。事務所の奥から、紙をめくる音がする。冷房の風がどこか乾いた音を立てている。
「うん」
「でも、見ていないふりを続けるのも少し怖くなってきた」
雫葉はそう言った。画面を見たまま伊吹の方を向けず、声は大きくないものの、確かに聞こえた。
伊吹はすぐには返事をしなかった。その沈黙に雫葉の胸はゆっくりと締め付けられた。言い過ぎたかもしれない。でも、言わずに戻すにはもう遅かった。
「俺も」
やがて伊吹が言った。
「見ないふり、うまくなりすぎた気がする」
雫葉はようやく彼を見た。伊吹は画面を見ているふりをしていたが、指は止まっている。耳のあたりが少し赤い。照れているのか夕方の光のせいかは、わからない。
「じゃあ、どうする?」
雫葉が聞いた。自分で聞いて胸が震えた。
伊吹は少し笑った。逃げるような笑いではなく、困っているけれどちゃんとそこにいるような笑いだった。
「急に大きな枝は切らない」
「仕事の話?」
「仕事の話にしておく」
「ずるい」
「でも、少しずつなら手を入れられるだろ」
雫葉はその言葉を受け取った。少しずつ、急がず、なかったことにはしない。雨の日から続いてきた言葉が秋の色に変わっていく。
「じゃあ、少しずつ」
雫葉がそう言うと、伊吹はうなずいた。
「うん。少しずつ」
その短いやりとりだけで十分だった。恋人になったわけでもないし、告白をしたわけでもない。けれど、今まで隠していた場所へ少しだけ光が入った。まぶしすぎない、秋の光だった。
夜が降り始めるころ、雫葉はロッカーの前で日誌を開いた。今日拾った葉はページの間でまだ少し厚みを持っており、ケヤキの葉より新しく、夏の影より軽く、雨の日の枝より乾いていた。
伊吹が隣のロッカーを閉める音がした。
「帰る?」
「帰る」
「今日はどの道にする?」
雫葉は少し考えた。駅前へ向かういつもの道ではなく、遊歩道の外れを少しだけ通る道がある。遠回りではないが、人通りが少なく、木の影が夜に溶け込むような道だった。
「落ち葉が見える道」
伊吹は笑った。
「今日、まだ見る?」
「仕事じゃない落ち葉を見たい」
「いいな、それ」
会社を出ると、夜の空気は昼よりずっと軽かった。夏祭りのような熱気はなく、雨の日の湿り気もない。ビルの足元を乾いた風が流れ、街路樹の葉が「かさり」と鳴った。
雫葉と伊吹はいつもより少し静かな道を歩き、舗装された地面に点々と落ち葉が散らばり、街灯の光を受けて淡く浮かび上がっているのを見た。落ち葉を踏むたびに小さな音がしたが、雫葉はなるべく踏まないように歩いた。
「避けてる」
伊吹が言った。
「何となく」
「全部は避けられないぞ」
「わかってる」
「でも、避けたい?」
「うん。今日は」
伊吹はそれ以上からかうことはなかった。肩先に流れる歩調は、落ち葉の音を避けるようにゆっくりと静まり、乾いた夜気に溶けていった。街の喧騒は少し遠ざかり、遠くの車の音だけが低く響いていた。
「雫葉」
伊吹が呼んだ。
「何?」
「少しずつって言っただろ」
「うん」
「今日、少し進んだ気がする」
雫葉は足元を見たままうなずいた。落ち葉の端が街灯の光で薄く透けていた。
「私も」
「怖い?」
「怖い」
「俺も」
その会話は秋の夜に驚くほど静かに馴染んだ。怖いと言い合っても何かが壊れるわけではなく、むしろ足元の見えない場所に小さな灯りが置かれたようだった。
遊歩道の途中で風が吹いて、落ち葉が数枚足元を横切った。雫葉の靴先に一枚が触れたが、すぐに離れていった。拾わなかったが、見ていた。
「今日は拾わないんだ」
伊吹が言った。
「うん、もう一枚あるから」
「持てる量、決めた?」
「少しずつだから」
伊吹は笑った。雫葉も笑った。その笑い声は軽かったが、軽いだけではない。積もったものを少し払った後のように、呼吸がしやすい。
駅の明かりが近づいてきても、すぐに別れたくない気持ちはあったが、それを無理に引き延ばさなくてもいい気がした。今日の言葉は、もうちゃんと残っている。
「また明日」
雫葉が言った。
「また明日」
伊吹が返す。
いつもの挨拶だったけれど、今夜は少しだけ違っていた。また明日がただの予定ではなく、続きを持つ言葉に聞こえた。
雫葉は改札へ向かう前に鞄の中の日誌にそっと触れた。ページの間には途中の色をした葉がある。青でも黄色でもなく、終わりでも始まりでもない、その曖昧な色が今の自分には一番近かった。
地下へ降りる階段の手前で雫葉は振り返らなかった。振り返らなくても伊吹が同じ夜のどこかを歩いていることがわかるし、並んだ影が見えなくても今日交わした言葉は消えない。
秋の風が地上の葉をかすかに鳴らし、雫葉はそれを背中で聞きながら階段を降りた。胸の奥ではまだ言えない言葉が色を変え始めていた。それは、落ちるのではなく、終わるのではなく、次の季節へ向かうためだった。




