第5章:夏影の約束
朝から光には逃げ場がなかった。東京の舗装は白く乾き、ビルの窓は空を映すよりも先に熱を返していた。緑景管理の作業車のそばで、樹守雫葉は首元の汗を手の甲で押さえた。雨を抱いていた枝の重さは消え、今度は夏の光が葉も人も同じようにじりじりと焼いていた。
事務所前の街路樹は濃い緑をいっぱいに広げており、葉の下にはまだ朝の涼しさが少しだけ残っていた。しかし、そこを一歩外れると、空気がすぐに硬くなった。雫葉は作業手袋をはめながら、今日向かう大きな並木道を思い浮かべた。
「雫葉、顔がもう夏に負けてる」
荷台の向こうから、朝凪伊吹が声をかけた。伊吹はヘルメットを片手に持ち、もう片方の手で冷たいペットボトルを首筋に当てていた。雨の日の湿った気配はすっかり乾いていたが、声の奥にはまだ少しだけあの夜の沈黙が残っているように感じられた。
「伊吹こそ、首に飲み物を当ててる時点で負けてる」
「これは戦略的冷却」
「言い方だけ涼しいね」
「中身はもうぬるくなりかけてる」
「希望が溶けるの、早い」
伊吹はペットボトルを少し掲げ、「夏に敗北宣言」と言った。雫葉は笑いながらロープの束を荷台へ積んだ。その笑いはいつもの形をしていたが、なかったことにできない雨の夜の言葉は日差しに照らされても消えなかった。
今日の現場は、幹線道路沿いの大きな並木道だった。夏場の歩行者の日陰を守りつつ、伸びすぎた枝を整理する作業だ。苦情もある。信号が見えにくい、車道側へ枝が出ている、落ち葉が増える、などだ。しかし、この道の木陰がどれだけ歩行者の速度を助けているかを、雫葉は知っていた。
「今日は切りすぎ注意だね」
雫葉が図面を確認しながら言うと、伊吹はうなずいた。
「日陰を残しながら見通しを確保する感じだな」
「言うのは簡単」
「やるのは汗だく」
「もう汗だく」
「始まる前から実績解除だな」
事務所の奥から「水分取れよ」と声が飛んだ。雫葉は返事をし、ペットボトルを鞄へ入れた。冷たい水の重さが今日の長さを少しだけ予告しているようだった。
作業車が走り出すと、東京の朝はすでに熱を持っていた。歩道を行く人の影は短く、バスの窓には白い光が貼り付いていた。昨日まで雨を受けていた街路樹の葉も今朝は乾ききって、濃い緑の面で空を押し返していた。
雫葉は窓の外に目を向けた。信号待ちの人たちは自然に木陰に寄っている。誰も意識していないのに、体は涼しい場所を知っている。緑は声を出さずに人を呼ぶ。
「みんな木陰に寄るね」
雫葉が言った。
「本能だな」
「木ってすごいよね。暑いって言わないのに、暑さを受け止めてる」
「雫葉も時々そうだな」
「何が?」
「しんどいって言わないで、平気な顔してる」
雫葉は窓から伊吹へ視線を移した。彼は前を向いたままだった。雨の現場で言われたことがまだ彼の中に残っているのだとわかった。平気そうな顔が怖かった。あの言葉は雫葉の胸にも残っていた。
「今日は言うよ。暑い」
「よし」
「もう帰りたい」
「早すぎる」
「伊吹が言えって言った」
「程度ってものがあるだろ」
車内に笑いが広がった。雫葉は、その軽さに少し救われた。深刻になりすぎないこと。けれど、なかったことにはしないこと。その狭い道を伊吹となら、歩ける気がした。
現場の並木道に着くと、光の量が一段と増えた。道路の両側には大きなプラタナスの木が並び、葉の重なりが歩道に濃い影を落としている。街は暑いのに、その道だけ少し呼吸が深まるようだった。
雫葉は車を降り、首元の汗を拭った。葉の下に入ると、空気の温度がすっと下がる。完全に涼しいわけではないが、直射日光から守られているだけで体の力が少し抜けた。
「やっぱり違うな」
伊吹が見上げながら言った。
「うん、ここ残したいね」
「残すために整えるか」
「切るのに残すためって、不思議だね」
「剪定ってだいたいそうだろ。落とすことで続ける」
雫葉はその言葉を聞きながら枝先を見上げた。春に出た葉はすっかり厚みを増し、夏の陽を受けて深く色づいている。「落とすことで続ける」木の話だ。けれど胸のどこかが、それだけではないと感じてしまう。
作業範囲には車道側へ張り出した枝がいくつかあり、信号機の視認性を妨げているものもあった。雫葉は図面と実際の枝ぶりを見比べ、残す影と落とす枝の境目を目で追った。
「ここ、上を軽くして、下の影は残したい」
「同感。歩道側はあまり触らない方が良い」
「車道側だけ強めに?」
「強めってほどじゃない。風が抜けるくらい」
伊吹の声は仕事のものだった。雫葉はうなずき、記録を取った。言葉が少なくても、向かうべき方向性は同じだった。その呼吸は、長く同じ班で積み重ねてきたものだった。
最初の枝にロープをかけるころには、額から汗が噴き出し、ヘルメットの内側に熱がこもって手袋の中の指先が湿ってきた。雫葉はペットボトルの水を少し飲み、喉の奥に冷たさが通るのを感じた。
「雫葉、休みながらやれよ」
伊吹が隣で言った。
「伊吹もね」
「俺は戦略的に休む」
「さっきから、戦略と言えば何でも通ると思ってる?」
「戦略的軽口」
「それは普通にうるさい」
伊吹は笑った。肩が小さく揺れる。雫葉はその笑い方を見て、胸の奥が少し緩むのを感じた。雨の日の切実な声も、今日のこういう軽さも、同じ人の中にある。そのことがたまらなく近く思えた。
作業が始まると、夏の音が濃くなった。車の走る音、遠くの工事音、葉の間で鳴く虫の声、信号の電子音。 枝を切るたびに生木の匂いが熱い空気の中に広がった。雨の日の青さとは違い、今日は少し乾いた濃い匂いだった。
雫葉は枝を支えながら、葉の影が腕に揺れるのを見た。影は風で細かく動き、汗ばんだ肌の上を通り過ぎる。夏の木陰は、やさしいだけではない。熱を受け止めた葉の気配が頭上に、ずっしりとある。
「雫葉、そっち重い?」
「大丈夫」
「本当の大丈夫?」
雫葉は一瞬だけ伊吹を見た。彼は真面目な顔をしていた。
「重い。でも持てる」
「よし、きつくなったら言えよ」
「言う」
「ならいい」
短いやりとりだったが、雫葉にはそれが雨の日の続きのように思えた。平気なふりをしないこと、伊吹もそれを見逃さないこと、まだ言えないものを抱えたままでも少しずつ変われることがある、と。
午前の作業が進むにつれ、並木道の影は形を変えていった。 切りすぎないように枝を抜き、信号にかかる葉を軽く落とし、車道側へ張り出した部分を整える。 歩道に残る木陰が薄くなりすぎないように、何度も確認した。
通りかかった年配の女性が作業の様子を少し離れた場所から見ており、買い物袋を片手に額に汗をにじませていた。雫葉が会釈すると、女性はほっとしたように笑った。
「この木陰、なくならないわよね」
雫葉は手袋を外して少し近づいた。
「全部切るわけではありません。見通しを良くしながら、歩道の日陰は残す予定です」
「よかった。ここを通ると少し息がつけるの」
女性はそう言って木陰を見上げ、葉の間からこぼれる光が白髪に細かく揺れているのを見た。雫葉は胸の奥が静かに熱くなるのを感じた。こういう言葉のために仕事をしている気がする。
「できるだけ、残します」
雫葉がそう言うと、女性は「ありがとう」と小さく頭を下げて歩いていった。伊吹は少し後ろからその様子を見ていた。
「雫葉、いい顔してた」
「また見てた」
「見えてしまうものです」
「便利に使いすぎ」
「今日は便利じゃないって、前に言っただろ」
「前に?」
「雨の日に」
雫葉は少し黙った。伊吹も自分で言ってから、視線を枝に戻した。雨の日という言葉だけで、濡れた遊歩道と「怖い」と言った声が蘇ってくる。それは章でも過去でもなく、体に残った記憶として。
「覚えてるんだ」
「忘れないって言ったから」
「そうだったね」
雫葉は枝先を見上げた。夏の光が葉の隙間を抜け、目に痛いほど白かった。伊吹は「忘れない」と軽く言う時もあるが、雫葉は、伊吹が本当に忘れない人なのだと知っている。自分が何気なく言ったことも、仕事への思いも、困ったと言った声も。
昼に近づくころには、暑さがさらに増した。道路から立ち上る熱気が足元を包み、作業着の背中に汗が張り付く。雫葉は木陰で水を飲んだ。冷たさはすぐに体内で薄れ、喉だけが少し潤う。
「昼、どこで取る?」
伊吹が聞いた。
「ここから少し先に小さい広場があるはず。木陰あり」
「木陰重要」
「今日の最重要項目」
「報告書に書くか」
「昼休憩の生存環境として」
「それは情緒じゃなくて切実だな」
広場は並木道の途中にあった。小さな石のベンチ、低い植え込み、そして夏の影を落とす大きな木。昼休みの会社員が数人、木陰に集まっている。誰も長居しているようには見えないが、短い休息をそこに預けているのがわかった。
雫葉はベンチの端に腰を下ろし、持ってきたおにぎりの海苔を開けた。少し湿っていた。伊吹は隣ではなく、ほんの少し斜めの位置に腰掛けた。近すぎず、遠すぎず、その距離が今の関係に似ている気がした。
「夏祭り、今日だったかな」
伊吹が通りの向こうを見て言った。
「近くの商店街?」
「たぶん。朝、提灯出てた」
「だから浴衣の人を見かけたんだ」
「現場終わりに人波に巻き込まれるかもな」
「汗だくの作業着で?」
「夏祭りへの最大の違和感」
雫葉は笑った。商店街の祭り、浴衣、屋台の匂い、夏の夜の人波。そういうものは自分とは少し遠い場所にあると思っていたが、今日は仕事終わりにその近くを通るかもしれない。
伊吹と夏祭りの人波を歩く、そう考えた瞬間、おにぎりの味が少し薄くなった。恋人でもないのにそんなことを意識する自分が情けないけれど、胸は勝手に先回りする。
「雫葉?」
伊吹が覗き込むように言った。
「何?」
「今、米と真剣に向き合っていた」
「塩加減を考えてた」
「現場スタッフらしいうそだな」
「うそって決めつけないで」
「じゃあ、何考えてた?」
雫葉は少し迷った。ここで祭りのことを言えば変に思われるだろうか。しかし、黙っているとまた見透かされるような気がした。
「夏祭りって仕事終わりに通ると、ちょっと寂しくない?」
伊吹は意外そうに目を瞬かせた。
「寂しい?」
「うん。楽しそうな人たちの横を作業着で通り過ぎる感じ」
「ああ、わかる。こっちは一日働いた後で、向こうはこれから夜が始まる感じ」
「そう」
「でも、雫葉。屋台の焼きそばを買ったら、すぐ馴染みそう」
「焼きそばへの信頼が強い」
「夏の中和剤」
雫葉は笑った。伊吹の言葉はいつも少し変わっているが、妙に的を射ている。寂しさを焼きそばで中和するなんて普通は言わないが、その軽さにまた救われる。
昼休憩の後、作業は並木道の反対側へ移った。こちら側は午後の日差しが強く、葉の影が濃く地面とのコントラストがはっきりしている。雫葉は、枝の重なりを確認しながらどこを剪定すれば風が通るかを考えた。
「ここ、内側が混んでる」
伊吹が言った。
「うん。でも、歩道側の影は残したい」
「なら、上を抜くか」
「信号側はもう少し」
「了解」
会話は短いが、枝を見ている角度が似ているのがわかる。同じものを見て、同じ迷い方をして、同じ答えに近づいている。この感覚が好きだった。好きという言葉がまた胸の中で浮かんだ。
葉を切る音が続く。乾いた枝の軽い音、太い枝に刃が入る鈍い音、落ちた葉が舗装を擦る音。夏の午後は、音まで熱を帯びている。遠くで鳴った救急車の音が、一度だけ伸びてからすぐに、ビルの隙間へ消えていった。
雫葉は額の汗を拭い、少しだけ木陰の外に出た。日差しが肩に当たった瞬間、体が驚くほど重くなった。木陰から出ると、世界の質が変わる。人がこの影を必要とする理由が肌でわかった。
「雫葉、出すぎ」
伊吹が声をかけた。
「平気。確認しただけ」
「平気判定、甘くない?」
「今日は言うって言ったでしょ。暑い、きつい、水飲みたい」
「よし、飲め」
伊吹は、自分のペットボトルではなく雫葉のカバンから水を取り出して渡した。雫葉は、それを受け取りながら少し笑った。
「場所、覚えてたの?」
「朝に入れてたから」
「見すぎ」
「必要な確認です」
「便利な言葉禁止」
「じゃあ、覚えてた」
その素直さに、雫葉は一瞬だけ言葉を失った。覚えていた。ただそれだけなのに、夏の光よりも強く胸に響いた。伊吹はなんでもないように視線を枝に戻した。
「ありがとう」
雫葉は水を飲んだ。ぬるくなり始めていたが、それでも喉にはありがたい。ペットボトルの表面の水滴はほとんど消え、指先にプラスチックの熱が伝わった。
作業の途中、通りの向こうから祭りの準備の音が聞こえ始めた。金属の支柱を組む音、誰かの呼び声、遠くで試しに鳴らした太鼓のような響き。並木道の夏とは別の夏が、少しずつ街の中で立ち上がっていく。
「始まるね」
雫葉が言った。
「屋台の気配がする」
「まだ匂いはしないよ」
「心が先に嗅いでる」
「伊吹、暑さでおかしくなってるよ」
「正常だよ。焼きそばは心で嗅ぐものだろ」
「違うと思う」
笑いながら雫葉は少し先の商店街を見た。提灯が並んでいるが、まだ灯りは入っていない。白い昼の中に吊るされた赤い丸が夜を待っているようだった。
夏祭りは昼にはまだ準備段階だが、夕方になれば一気に熱気を帯びる。雫葉は、その変化を想像して胸の奥が落ち着かなくなるのを感じた。なぜ、仕事終わりに伊吹とそこを通ることをこんなにも気にするのだろう。
「雫葉、枝先」
伊吹の声で我に返った。
「ごめん」
「集中切れた?」
「少し」
「暑さ?」
「半分」
「残り半分は?」
また同じ問いかけだった。雫葉は枝先を見上げ、少しだけ息を吸った。
「祭りの音」
「そっか」
伊吹は深くは聞かなかった。たぶん何かを察しているのだろう。けれど、今日の彼は踏み込まない。雨の日とは違う。夏の光の中では何もかもが見えすぎてしまうから、あえて影に置いてくれているようだった。
午後の作業が終わるころ、並木道は朝よりも少し明るくなっていた。枝を整えたことで風が通り抜け、信号の光もよく見えるようになっていたが、歩道にはまだ木陰が残っていた。雫葉はそれを見て胸の中で小さくうなずいた。
「いい感じ」
伊吹が隣で言った。
「うん。切ったけど、夏は残った」
「今日の報告書、タイトル決まったな」
「また心の中のタイトル?」
「夏を残す影」
雫葉は少し驚いて伊吹を見た。彼は、何気ない顔で落ちた枝をまとめている。「夏を残す影」。その言葉があまりにも今日に合っていて、雫葉はしばらく返事ができなかった。
「伊吹、たまに悔しいくらい良いこと言うね」
「毎回でもいいけど」
「それはない」
「即答」
雫葉は笑ったが、胸の奥ではさっきの言葉が静かに響いていた。夏を残す影。失わないために少しだけ切る。守るために形を変える。今の関係にもそんなことができるのだろうか。
会社に戻る途中、作業着の中に熱がこもって体が重かった。車内の冷房が肌に当たると、汗が一気に冷えた。雫葉は窓の外の並木を見ながら、整えた枝の形を思い返していた。
「今日、ちゃんと言えたな」
伊吹が助手席から言った。
「何を?」
「暑い。きつい。水飲みたい」
雫葉は笑った。
「そこ?」
「大事だろ」
「大事だけど」
「平気なふり、少し減った」
その言葉に雫葉の笑いが少し柔らかくなった。伊吹は前を向いたままだった。だから雫葉も少しだけ素直になることができた。
「伊吹がうるさいから」
「うるさくしてよかった」
「褒めてない」
「でも、悪くなかっただろ」
雫葉は窓へ目を戻した。木陰が車窓を流れ、光と影が膝の上を交互に通り過ぎていく。
「悪くなかった」
と小さく言うと、伊吹はそれ以上何も言わなかった。ただ、肩が少しだけ揺れたので、笑ったのだとわかった。
会社に戻ると、夏の午後の疲れが事務所に溜まっていた。冷房は効いているのに、作業着に染みた熱がなかなか抜けない。雫葉はロッカーで首元をタオルで拭き、ペットボトルの残りを飲み干した。
伊吹は剪定ばさみを手入れしていた。刃についた樹液を丁寧に拭き取り、光にかざして汚れを確認する。雨の日も夏の日もその手つきは変わらず、雫葉はそんな伊吹の一定さが好きだった。
「何」
伊吹が視線に気づいた。
「道具、大事にするなと思って」
「しないと拗ねるからな」
「剪定ばさみが?」
「切れ味で態度に出る」
「伊吹より正直」
「俺も正直だろ」
雫葉は答えなかった。伊吹も言ってから、少しだけ黙った。正直、雨の日に彼は「怖い」と言った。「まだ言えない」と言った。「なかったことにしない」と言った。それは確かに正直だった。
「最近は、少し」
と雫葉が言うと、伊吹は手を止めた。
「最近は?」
「前より」
「それは成長判定?」
「経過観察」
「樹木管理課らしいな」
伊吹は笑った。雫葉も笑った。言葉が危ない場所へ行きかけても、まだ笑いへと戻れる。戻れるけれど、戻った先は以前と同じではない。足元の土が、少しずつ変わっている。
報告書を書きながら雫葉は、今日の並木道を次のように記録した。信号視認性の確保、車道側枝の整理、歩道側木陰の保持、夏季歩行環境への配慮。事務的な言葉の奥に、あの女性の「息がつける」という声が響いている。
「雫葉、ここいい?」
伊吹が画面をのぞき込む。
「どこ?」
「歩道側木陰の保持ってところ。日射緩和の観点から残存枝量を調整、でどうだ?」
「いいと思う」
「情緒を抑えた俺」
「えらい」
「もっと褒めてもいい」
「調子に乗るからだめ」
伊吹は不満そうな顔をした。雫葉は笑いながら画面に視線を戻した。隣から彼の体温が少しだけ伝わってくる気がした。冷房の効いた事務所なのに、夏の現場の熱気がまだ残っている。
夕方になるにつれて、窓の外の光は橙色を帯び始め、商店街の方から祭りの準備をする音が聞こえてきた。太鼓の音、マイクの確認、子どもの声。事務所の中にいても、夏の夜が近づいているのがわかった。
「帰り、商店街通る?」
伊吹が書類を閉じながら言った。
雫葉は一瞬手を止めた。
「通らないと駅に出にくいでしょ」
「まあ、そうなんだけど」
「焼きそば?」
「半分」
「残り半分は?」
伊吹は少しだけ笑った。聞かれる側になると、彼も言葉を選ぶ。
「夏祭りの中を作業着で通る違和感を確かめたい」
「研究熱心」
「現場調査だから」
「便利な言葉」
「今日は仕事終わりだから、便利に使っていい」
雫葉は笑ったが、胸は少し落ち着かなかった。祭りの中を伊吹と歩いている。正確には、駅までの帰り道を通っているだけだ。しかし、浴衣の人々や屋台の明かりの中で並んで歩く姿は、普段の作業帰りと違って見える気がした。
会社を出ると、夕暮れの熱がまだ歩道に残っていた。ビルの影は長く伸びているが、歩道は昼の光を内側に抱えている。街路樹の葉は少し疲れたように垂れ下がり、それでも風が通るたびに小さく鳴っていた。
雫葉と伊吹は駅の方へ歩き出した。作業着のまま鞄を肩に掛け、ヘルメットを持つ手に今日の疲れが残っている。歩幅は自然とそろい、傘のない分肩先の距離は雨の日よりも近かった。
「夏って、夕方になっても終わらないね」
雫葉が言った。
「しぶといからな」
「伊吹の軽口みたい」
「俺のは年中無休」
「困る」
「でも、ないと寂しいだろ」
雫葉は返事に詰まった。伊吹は冗談のつもりで言ったのかもしれないが、彼の発する言葉がない現場や笑い声のない帰り道を想像すると、寂しく感じられた。
「少しは」
と雫葉が言うと、伊吹は横を見た。
「少し?」
「調子に乗るから、少し」
「じゃあ、少しでいい」
その声が妙に優しくて、雫葉は視線を足元へ落とした。 舗装に落ちた葉の影が夕暮れの中で細く伸び、隣り合って風で形を崩しながらまた重なっていた。
商店街が近づくにつれて空気の匂いが変わり、焼きそばや甘いソース、焦げた醤油、冷たい氷菓のシロップの香りが漂ってきた。提灯に灯りが入り、人の声が増え、昼間は準備をしていた場所が一気に夜に向かって動き出していた。
「本当に祭りだ」
雫葉が小さく言った。
「本当に焼きそばの匂いだ」
「そこなんだ」
「重要だろ」
浴衣の人たちが通り過ぎていく。子どもは手を引かれ、紙袋を揺らし、誰かが金魚すくいの場所を探している。作業着の雫葉と伊吹は、その中では少し浮いていたが、完全に場違いというわけでもなかった。東京の祭りには、仕事帰りの人や買い物途中の人が混ざり、ただ通り抜ける人もいる。
「寂しい?」
伊吹が聞いた。
昼に雫葉が言ったことを覚えていたのだ。
「少し」
「焼きそばで中和する?」
「伊吹、それ食べたいだけでしょ」
「半分」
「残り半分は?」
「雫葉が寂しいって言ったから」
雫葉は足を止めそうになった。周囲を人波が流れていく。提灯の赤い光が伊吹の横顔に薄く映り、作業着の襟元に夕方の影が落ちていた。
「そういうこと言うと、困る」
「困らせるつもりは少しあった」
伊吹はそう言ってから鼻の横を軽くかんだ。それは、照れたときのしぐさだった。雫葉は胸の奥が熱くなるのを感じた。夏のせいだけではない。
「少し?」
「調子に乗るから、少し」
雫葉は笑ってしまった。さっきの言葉を返されたのだと気づいた。軽口をたたいているのに、そこに残る温度がいつもより近かった。
「じゃあ、買う?」
「何を?」
「焼きそば。中和剤」
伊吹は少し驚いた顔をした後、嬉しそうに笑った。
「買う」
屋台の列に並ぶと、作業着のままの自分が急に意識された。前には浴衣姿の女性がいて、後ろでは学生らしい声がはしゃいでいる。雫葉は、汗で少し湿った袖を見下ろした。
「やっぱり浮いているかな」
「浮いているけど、現場帰りって感じでいいだろ」
「どんな感じ?」
「夏を守ってきました、みたいな」
「大げさ」
「でも、今日木陰を残してきただろ」
伊吹の声は軽かったが、雫葉はそれを笑い飛ばせなかった。「夏を守ってきた」そんな立派な言葉ではないと思う。けれど、今日の作業で誰かの帰り道が少し涼しくなるのなら、まったく違うとも言い切れない。
「伊吹も守ったでしょ」
「俺は主に焼きそばの未来を守ってる」
「台無し」
「緊張をほぐした」
「便利な言葉」
屋台で焼きそばを受け取ると、ソースの香りが一気に近づいた。容器は熱く、手のひらにじんわりと伝わってくる。雫葉は割り箸を受け取り、商店街の端にある低い花壇のそばへ移動した。
そこには小さな街路樹があり、まだ若い枝が提灯の光を受けていた。昼間の大きな並木ほどの影は作れないものの、夜の光を少し和らげていた。雫葉は街路樹のそばに立ち、焼きそばのふたを開けた。
「夏っぽい」
伊吹が言った。
「作業着だけどね」
「作業着込みで夏だろ」
「伊吹、今日は肯定力が高い」
「暑さで判断が甘くなってる」
「それは危ない」
「雫葉が見てるから大丈夫」
また何でもないように言うので、雫葉は箸を割る手を止めそうになった。「見てるから大丈夫」それは仕事の話にも聞こえるが、祭りの灯りの下では少し違う響きを持ってしまう。
「私が見ていないときは?」
雫葉は、自分でも意外なことを聞いていた。
伊吹は少し黙った。屋台の呼び声が通りを流れ、どこかで子どもが笑っている。夏の夜は、沈黙さえもにぎやかに包み込む。
「たぶん、少し雑になる」
「道具の扱いは丁寧なのに?」
「自分のことは別」
「それはよくない」
「だから、見てて」
伊吹の声は冗談と本音の境目にあるようだった。雫葉は箸を持ったまま彼を見た。提灯の赤が伊吹の頬を照らしている。照れているのか暑いのかわからない顔だった。
「それも困る」
「今日、何回困らせた?」
「数えたくない」
「じゃあ、記録なしで」
「報告書に書けないからね」
雫葉は焼きそばを口に運んだ。ソースの味が濃く、少し甘い。仕事で疲れた体には、その雑な濃さがちょうどよかった。寂しさが中和される、という伊吹の言葉は少しだけ本当だった。
祭りの灯りが強くなるにつれて、通りの人波は増えていった。雫葉と伊吹は花壇のそばで焼きそばを食べながら、とりとめのない話をした。今日切った枝のこと、屋台の値段のこと、伊吹のペットボトルが朝からどれだけ早くぬるくなったかということ。
何でもない話は、何もかもを隠すのに向いている、と雫葉は思った。けれど今夜の軽口は、ただ隠すためだけではなかった。言えないことの周りに、少しずつ道を作っているようにも感じられた。
「雫葉」
伊吹が少し低い声で呼んだ。
「何」
「今日、楽しそうに見える」
「焼きそば効果」
「それだけ?」
雫葉は、答えるまで少し間を置いた。正直に言えば、伊吹といるからだった。作業着で浮いていても、祭りのなかを通り過ぎるだけでも、伊吹が隣にいると、寂しさが別のものへと変わる。
「それだけじゃない」
と、小さく言った。伊吹は箸を止めた。
「そっか」
「うん」
「じゃあ、俺もそれだけじゃない」
「何が」と聞けなかった。聞いたら答えが近すぎる気がした。提灯の灯りが揺れ、焼きそばの湯気が薄くほどける。夏の夜の匂いが胸の奥まで入り込んでくる。
商店街の奥から太鼓の音が鳴り始め、低く腹に響く音に人々のざわめきが少し膨らみ、夏祭りは夜の顔になっていった。
「行く?」
伊吹が聞いた。
「駅?」
「うん、混む前に」
「そうだね」
名残惜しいと思ったが、ここに長くいるのも怖かった。祭りの灯りは、言えないものまで照らしてしまう。雫葉は空になった容器を袋に入れ、近くのごみ箱に捨てた。
駅に向かう道は人波で少し歩きにくく、浴衣の袖や子どもの風船、屋台の袋、誰かの笑い声が目や耳に入ってきた。雫葉と伊吹は自然に歩調を落とし、流れに合わせて進んだ。
「はぐれるなよ」
伊吹が言った。
「子どもじゃない」
「作業着で迷子になっても目立つぞ」
「伊吹のほうが先に屋台に吸い込まれそう」
「焼きとうもろこしの誘惑が」
「ほら」
笑っていると、前から来た人の波に押されて雫葉は少し横に流された。伊吹の手が一瞬だけ伸びて、雫葉の手首ではなく鞄の肩紐の近くを軽く押さえた。触れるか触れないかの距離だった。
「こっち」
伊吹の声が近い。雫葉は人波を避け、彼の隣に戻った。心臓が少し速く鳴る。強く握られたわけではない。むしろ、触れないように気を付けた手だった。その慎重さがかえって胸に残る。
「ありがとう」
「うん」
「今、触らないようにした?」
雫葉は、聞いてしまってから息を止めた。
伊吹は少し目を伏せた。祭りの灯りが、伊吹の横顔を赤く染めていた。
「した」
正直な答えだった。
「どうして?」
「触れたら、離したくなくなる気がした」
音が遠くなった。太鼓も、人の声も、屋台の呼び込みも、すべてが一枚向こうに下がった。雫葉は立ち止まりそうになったが、人波がそれを許さなかった。足は前へ進み、心だけがその場に残った。
「伊吹」
「ごめん、今のは」
「謝らないで」
雫葉の声は小さかったが、ちゃんと届いた。伊吹がこちらを見て、言葉にならないものが祭りの熱の中で揺れている。
「困るけど、嫌じゃない」
やっとそれだけ言った。
伊吹は息を吸って、何かを言いかけたがやめた。けれど、逃げたわけではなさそうだった。言葉を選んでいる。壊さないために、急がないために。
「なら、覚えておく」
「うん」
「なかったことにはしない」
またその言葉だった。雨の日から続く、小さな約束。雫葉はうなずいた。祭りの灯りの下で、それは少しだけ別の色を帯びた。
駅の近くまで来ると、人の流れは少しずつほどけ、商店街の音は後ろへ遠ざかった。代わりに、電車の走る音と改札のざわめきが近づいてくる。夏の夜の熱は、まだ肌に感じられた。
「今日、焼きそばで中和できた?」
伊吹が聞いた。
「少し」
「少しか」
「でも、寂しさだけじゃなかった」
「何が?」
雫葉は少し考えた。祭りを通り抜ける寂しさ、作業着で浮く感じ。けれどその中に、伊吹の声や焼きそばの湯気、そして触れないようにした手の気配が混ざっていた。寂しさは消えないが、ただ別の味がした。
「夏っぽかった」
答えになっていない気がしたが、伊吹は笑った。
「それならいいな」
「伊吹は?」
「俺も、夏っぽかった」
「雑」
「雫葉のまね」
「私も雑だった?」
「いや、ちょうどよかった」
その言い方が優しくて、雫葉は何も返せなかった。
改札に向かう分かれ道で足が自然に止まった。いつもの場所なのに、今日は祭りの音がまだ背中に残っている。遠くで、提灯の赤い光が小さく揺れていた。
「また明日」
雫葉が言った。
「また明日」
伊吹が返した。
それだけで別れるはずだったけれど、伊吹は少しだけ言葉を続けた。
「雫葉」
「何?」
「今日、楽しそうでよかった」
雫葉は、胸の奥がゆっくり満ちていくのを感じた。彼は、本当に自分が笑っているかどうかを見ている。笑っているほど苦しいこともあるのに、それでも笑えてよかったと思ってくれる。
「伊吹も楽しそうだったよ」
「焼きそば効果」
「それだけ?」
伊吹は少し笑ったが、答えはすぐには返ってこなかった。
「それだけじゃない」
同じ言葉が返ってきた。雫葉は目を伏せた。足元には提灯の赤が薄くにじみ、夏の夜が胸の中に残っていく。
「じゃあ、また明日」
今度は伊吹が言った。
「うん、また明日」
伊吹は改札へと向かい、雫葉は少しだけその背中を見送った。作業着の肩には、昼間の木陰も祭りの光も見えないまま、残っているようだった。
雫葉は地下へ降りる前に駅前の街路樹を見上げた。昼ほどの濃い影はもうなかったが、街灯の下で葉は夜の光を受け止め、足元に薄い影を落としていた。
夏を残す影。伊吹が言った言葉がふいに蘇る。切った枝、残した木陰、消えなかった熱、触れずに引き戻された距離、それらすべてが今日という日の影となって雫葉の中に残っていた。
好きだとは言わなかった。言えなかった。けれど、触れたら離したくなくなると言われて、その言葉を嫌じゃないと返してしまった。もう何も知らないふりはできない。
それでも、明日も同じ会社へ行き、同じ班で働き、きっとまた冗談を言い合う。変わらないように見える毎日が少しずつ形を変えていく。雫葉はその変化が怖かった。怖いのにどこかで待ってもいた。
地下へ続く階段から冷たい空気が上がってくる。雫葉は、一歩下りる前に鞄の中の日誌に指を触れた。ケヤキの葉は、あの日からかなり乾いているだろう。時間は止まらずに進んでいる。
商店街の方から太鼓の音が最後にひとつ届いた。低く、遠く、胸の奥に残る音だった。 雫葉は目を閉じた。夏の光に焼かれた並木道、祭りの赤い灯り、そして伊吹の声が重なり合って、まだ名前のない感情を静かに揺さぶっていた。




