第4章:濡れた枝の声
朝の空は雲を低く重ね、東京の輪郭を少しだけにじませていた。風は湿りを含み、舗装のにおいがゆっくり立ち上がる。雨はまだ降っていないが、街路樹の葉はこれから降る雨を知っているかのように静かに揺れていた。
緑景管理の作業車へ乗り込む前、樹守雫葉は空を見上げた。雲はビルの上で重たく流れ、光は白く薄い。作業手袋をはめる指先に小さな風が触れ、その冷たさが今日の現場を少しだけ予感させていた。
「雫葉、空と会議してる?」
と、朝凪伊吹が荷台の向こうから声をかけた。雨具を腕に掛け、剪定ばさみのケースを片手で支えている。髪は珍しく落ち着いていて、低気圧のせいか目元だけが少し眠そうだった。
「今日の伊吹の寝癖、天気に負けてる」
「俺の髪と空模様を連動させるな」
「でも、今日は自然樹形じゃないね」
「雨の日仕様。どうせ濡れたら全部同じになる」
雫葉は少し笑ってロープの束を荷台に積んだ。その笑い声はすぐに、事務所から漏れる電話の音にかき消された。今朝はいつもより空気が硬い。雨が強まる前に、倒木の危険がある場所を回らなければならない。
「今日は軽口少なめかな」
雫葉がそう言うと、伊吹は雨具を着ながら首を傾げた。
「必要なら出す」
「天然素材の軽口?」
「雨に弱いから、防水加工が必要だな」
「環境に悪そう」
「じゃあ、無加工でいく」
社内の奥から、「現場前で漫才するなよ」と声が飛んだ。雫葉と伊吹は同時に軽く頭を下げる。周囲から見れば、またいつもの掛け合いだろう。しかし、今日はその笑いの端に、湿った緊張感がまとわりついていた。
作業車が事務所を出発すると、東京の朝は少しずつ色を失っていった。高架下の暗がりはいつもより深く、バス停に並ぶ人々は傘を片手に空を気にしていた。車窓の向こうで街路樹の葉が裏返るたびに、薄い銀色がちらちらと浮かび上がった。
「雨、来るね」
雫葉が言った。
「枝の方が先に知ってる感じだな」
「人より早いよね」
「雫葉も早いだろ。空を見る顔が完全に現場の木側」
「人間側に戻して」
伊吹の軽口に笑いながら、雫葉は窓の外へ視線を戻した。昨夜、緑のない街で交わした言葉がまだ胸に残っている。まだ言えない。なかったことにはしない。その約束めいた響きが雨前の空気と重なっていた。
最初の現場は、小学校の塀沿いに立つ古い桜だった。校庭側へ枝が大きく張り出し、前日の風で細い枝が何本か折れていた。登校前の時間帯で人の声はまだ少なく、校門の近くに落ちた葉が湿った舗装に貼りついていた。
雫葉は車を降りてすぐに、枝先を見上げた。サクラの葉は濃く沈んでおり、先端には小さな雨粒を待つような艶があった。幹には古い傷があり、そこから少しだけ黒ずんだ痕が広がっていた。
「こっち、前より傷が深くなってる」
伊吹が幹の反対側から低い声で言った。仕事の時の声だった。
「見せて」
雫葉は伊吹の示す場所まで回り込んでしゃがんだ。肩先が近づき、雨の匂いを含んだ空気の中でその距離だけが妙に温かく感じられた。
「内部まで入ってるかな」
「可能性はある。上の枝も重い」
「雨が乗ったら危ないね」
「先に軽くしよう」
言葉は短く無駄がなかった。こういうときの伊吹は頼もしい。冗談を消し、木と周囲の安全だけを見るその横顔を見るたびに、雫葉は自分の胸が少し静かになるのを感じた。好きだから落ち着くのか、落ち着くから好きなのか、もう順番は分からなかった。
「雫葉、ロープ」
「はい」
雫葉がロープを渡すと、伊吹が手袋越しに受け取った。厚い布越しの何でもない接触だったのに、雨前の空気がそこだけ濃くなった気がした。
「どうした?」
伊吹が顔を上げた。
「何でもない」
「本当に?」
「仕事中」
「便利な言葉だな」
「伊吹に言われたくない」
雫葉は視線を枝に戻した。便利な言葉。仕事中。同期。安全確認。どれも守るための言葉だ。けれど、守るための言葉ばかり増えると、いつか本当に言いたいことを言う場所がなくなってしまう。
空が低く鳴った。遠雷というほどはっきりとしないが、雲の奥で大きな布が擦れるような音だった。校舎の窓がわずかに暗くなり、グラウンドの砂が先に湿り気を吸い始めた。
「降る前に、上の枝だけ済ませよう」
伊吹が言った。
「うん」
作業は静かに進んだ。枝にロープをかけ、切る位置を確認し、落下範囲を確保する。まだ子どもたちは来ていないが、校門の向こうには通学路がある。雫葉は何度も周囲を確認した。
サクラの枝を落とすと、切り口から青さと古い木の匂いが混ざって立ち上った。昨日の乾いた街にはなかった匂いだ。生きているものが雨を迎える前に少し身を開いたような、湿った甘さがあった。
「いい匂い」
雫葉が小さく言うと、伊吹は枝を支えながら笑った。
「こんな時でも嗅ぐんだな」
「現場の情報です」
「便利な言葉を覚えたな」
「伊吹のせい」
「俺の影響、順調に根付いているな」
雫葉は笑い、すぐに切り落とした枝をまとめた。「影響」。伊吹の言葉がふいに胸に深く刺さる。自分の中に彼の言い回しや癖が根付いていることを否定できなかった。
作業を終えるころ、最初の雨粒がヘルメットに当たった。軽い音だった。次に頬に冷たい点がひとつ落ちた。雫葉が空を見上げると、雲の底がさらに濃くなっていた。
「来たな」
伊吹は雨具の襟元を直した。
「次、急ごう」
「無理はするなよ」
「伊吹もね」
「俺は天然素材だから、水に強い」
「さっき弱いって言ってたよ」
「設定が流れた」
「雨で?」
「雨で」
軽口はあったが、声は少し早かった。次の現場は、公園の外周にある大きなエノキだった。傾いた枝が道路側へ張り出しているという連絡が入っていた。雨が強くなれば、枝の重さは一気に増す。
作業車の窓を雨が叩き始めた。細かな粒が斜めに流れ、ビルの輪郭を曇らせる。東京の街は雨に濡れると、急に匂いを取り戻す。普段は分かれている、舗装や排気や鉄や土や葉の匂いが、ひとつの湿りの中で混ざり合っていく。
雫葉は窓の水滴を見ていた。流れる線が外の景色を何度も崩していく。隣の席ではないのに伊吹の気配が前方から伝わってくる。彼が無言で地図を確認する音、缶コーヒーではなく水筒を開ける小さな音。見えないのに拾ってしまう。
「雫葉」
助手席から伊吹が振り返った。
「何?」
「さっきから静かだけど、雨に負けてる?」
「負けてない。考えてただけ」
「枝のこと?」
「半分」
「残り半分は?」
雫葉は答えなかった。車内には雨音が満ちていた。答えなかったことが答えのように聞こえそうで、怖かった。
「仕事のこと」
少し遅れてそう言った。
「そっか」
伊吹はそれ以上聞かなかった。聞かないでくれることに救われる。けれど、救われるたびに少し寂しくなる。雨の日は、そういう矛盾まで濡らして輪郭を濃くする。
公園に着くころには雨は本降りになり、歩道の低いところに水がたまって、車のタイヤが通るたびに白く跳ねていた。エノキは公園の外周、道路に面した場所で枝を広げており、葉は重く濡れて枝先が普段より低く垂れていた。
「これは早くやらないとまずいな」
伊吹の声に、雫葉も頷いた。道路側へ出た枝は水を含んでさらに重さを増し、風が強まれば折れる危険があった。周囲の歩行者を誘導しながら、必要な枝だけを慎重に落とす必要があった。
雨具の内側に湿気がこもり、額に触れた雨粒がこめかみを伝って首筋に入った。雫葉は一瞬だけ肩をすくめたが、それでも枝を見上げた。雨の日の木は晴れの日とは別の表情を持ち、葉は重く、幹は黒く、匂いも異なる。
「雫葉、足元滑るから気をつけろ」
伊吹が言った。
「伊吹も」
「俺はもう一回滑った」
「え?」
「心の中で」
「紛らわしい」
「場を和ませようとして」
「雨で流れてる」
と言い合いながらも動きを止めず、標識を置いて通行の流れを変え、枝の状態を確認する。雨音が強く、声を少し張らないと届かないが、伊吹の声だけが雫葉の耳に不思議とまっすぐ届いた。
「こっち支える」
「お願い」
雫葉は枝を押さえ、伊吹が切る位置を確認する。濡れた葉が頬に当たり、冷たい水が顎に落ちた。雨具の袖から入った水が手首を伝い、手袋はすでに重くなっていた。
「いくぞ」
「うん」
枝が落ちる瞬間、雨音の中に生木の割れる低い響きが混ざった。支えられた枝は道路に落ちることなく、ゆっくりと地面に下ろされた。雫葉は息を吐いた。胸の奥に詰まっていた緊張が雨と一緒に少し解きほぐされた。
「大丈夫?」
伊吹が近くで聞いた。
「大丈夫。そっちは?」
「まだ芽吹いている」
「何が?」
「軽口」
「こんな雨でも?」
「根性あるから」
雫葉は笑った。雨粒が唇に触れ、笑いが少し冷たくなった。こんな状況でも笑えることがありがたい。けれど、その笑いがあるからこそ、余計に言えない言葉は奥へ沈んでいく。
作業は続く。一本、また一本と枝を整理し、道路側への張り出しを少なくする。雨はさらに強くなり、葉から落ちる水が肩を打つ。通行人の傘が遠巻きに動き、車の水しぶきが白く広がる。
雫葉は一度足元を滑らせかけた。小さな段差に雨水が溜まり、靴底が滑ったのだ。
「雫葉」
伊吹の手が雫葉の腕をつかんだ。強く、けれど乱暴ではない力だった。雫葉はすぐに体勢を戻し、雨具越しの伊吹の指の感触が腕に残った。
「平気?」
伊吹の顔が近づいていた。雨粒が彼のまつげに乗っている。額から水が流れ、顎へ落ちていた。いつもの軽さが消えた目だった。
「平気。ありがとう」
「今のは本当に危なかった」
「うん、ごめん」
「謝るより、次から足元を見ろ」
少し強い声だった。雫葉は驚いてすぐにうなずいた。
「見る」
伊吹は雫葉の腕を離した。その瞬間、雨脚が強くなった。濡れた空気が冷たいはずなのに、掴まれた場所だけが熱い。
「怒った?」
雫葉が小さく尋ねると、伊吹は眉を寄せた。
「怒るだろ」
「そこまで?」
「雫葉が転ぶのは嫌だ」
雨音が強くなり、言葉はそこで途絶えた。仕事の心配だろう。そう受け取ればいい。危険な現場で仲間を心配するのは当然だ。それなのに、雫葉の胸は別の意味を探してしまう。
「気をつける」
やっと言うと、伊吹は少しだけ息を吐いた。
「頼む」
その声があまりに切実で、雫葉は何も返せなかった。
公園の作業を終えるころには、昼の明るさは雨雲に押し込められていた。時計を見なくても、街の空気が少し重くなっているのがわかる。雨に濡れた植え込みから、濃い土の匂いが立ち上っていた。
作業車に戻ると、雨具から水が滴り、車内の足元に黒い跡を作った。雫葉はタオルを取り出し、伊吹に投げた。
「はい」
「助かる。樹守予報士、準備がいい」
「無加工の軽口、まだ残ってるね」
「しぶといからな」
伊吹はタオルで髪を拭いた。濡れた前髪が額に張り付き、いつもより少し幼く見えた。雫葉はそれを見ないふりをして自分の手袋を外した。指先は冷えており、皮膚が少しふやけていた。
「腕、本当に痛めてない?」
伊吹が聞いた。
「大丈夫。つかまれただけだから」
「強かったかも」
「平気だよ」
「跡、残っていない?」
「雨具の上からだよ」
「でも」
伊吹は言いかけて口を閉じた。雫葉は、その続きを待ったが、彼は何も言わずにタオルを握り直した。
「心配しすぎ」
雫葉は笑おうとした。
「そうかもな」
伊吹は否定しなかった。その否定しない態度が雫葉の胸に静かに響いた。彼が心配してくれることを嬉しいと思ってしまう自分がいる。現場では危ない感情だ。仕事の判断を鈍らせるほどではないと思いたいが、それでも心は勝手に濡れた腕の熱を覚えている。
次の現場へ向かう道中、雨は一旦弱まった。フロントガラスを流れる水の線が細くなり、街の色が少し戻ってきた。歩道の人々は、傘を閉じるべきか迷うように空を見上げていた。
雫葉は車内で濡れた手袋を膝の上に置き、そこから土と木の匂いがした。雨の日の現場の匂いで、きつい匂いではないが、体の奥に入り込んで疲れをゆっくり思い出させていた。
「雨の日ってさ」
伊吹が前を向いたまま言った。
「うん」
「木の重さが見えるよな」
「葉が水を抱くから?」
「それもあるけど、何か、普段隠しているものまで下がってくる感じ」
雫葉は窓の外を見た。濡れた街路樹の枝は確かにいつもより低く見え、雨を受け止めるほどに重さを外に示していた。晴れた日には見えなかった負担がはっきりと形になったのだ。
「人もそうかもね」
と言ってから、雫葉は自分の声に少し驚いた。
伊吹は振り返らなかったが、少しだけ首を傾げた。
「雨の日に?」
「うん。普段は笑って流せることも、流せなくなる」
「雫葉も?」
雫葉は答えに詰まった。雨音がまた少し強くなり、窓の外の景色が水の膜でにじんでいく。
「今日は、少し」
伊吹は黙った。雫葉もそれ以上は言わなかった。言えば近づきすぎるし、言わなければ届かない。その境界は雨の日には特に滑りやすい。
次に向かったのは公共施設の前に立つ大きなシラカシだった。根元の土が雨で緩んで幹がわずかに傾いている、という連絡が入っていた。施設の入口にはすでに管理担当者が立っていて、雫葉たちを見ると安堵した顔をした。
雨は再び強くなり、シラカシの厚い葉は雨粒を受けるたびに重い音を立てていた。雫葉は幹の傾きを確認して根元の土を見ると、水が溜まって排水が追いついていないことが分かった。
「根が浅くなってる」
伊吹がしゃがんで言った。
「風が出たら危ないね」
「応急で支えを入れる。排水も確認しよう」
「うん」
施設の入口には、傘を差した人が数人立ち止まっていた。雨のせいで足元が悪く、施設の中へ入る人の流れも少し乱れていた。木を守るだけではなく、人の動線も守らなければならない、と雫葉は思いながら案内の位置を調整した。
作業は思ったよりも時間がかかった。雨で土が重く、支柱を立てる位置を慎重に選ばなければならないためだ。雫葉は、膝のあたりまで跳ね上がる泥を気にする余裕もなく、土の硬さを確認しながら伊吹と声を掛け合った。
「雫葉、こっち押さえて」
「はい」
「もう少し下」
「ここ?」
「そう、そこ」
手元だけに集中する時間が続いた。雨音、土を踏む音、支柱が地面に入る鈍い音。伊吹の声は短く、雫葉の返事も短かったが、それでも呼吸の間合いは乱れなかった。長く同じ現場を歩いてきた同期ならではの感覚が言葉の隙間を埋めていた。
支柱が立ち、幹の揺れが少し抑えられると、雫葉はようやく息を吐いた。雨具の中は蒸れていて、体は冷えているのに背中だけ汗ばんでいた。首筋に落ちた雨がその汗と混ざって流れていった。
「終わったら温かいものを飲みたい」
雫葉がそう言うと、伊吹は泥のついた手袋を見下ろしてうなずいた。
「俺も。缶コーヒーじゃ追いつかない」
「今日は甘いやつ?」
「疲れた日は甘いやつ」
「子どもみたい」
「現場で冷えた大人は、甘さを求めるんだよ」
「名言っぽく言わないで」
伊吹は少し笑った。雨に濡れた顔で笑うと、いつもの表情よりも余計なものが削ぎ落とされたように見える。雫葉は、その笑顔を長く見ないように支柱の結び目に視線を移した。
施設の管理担当者への説明を終えるころには、雨は弱まるどころか横に流れ始め、風も出てきた。傘は傾き、人々は足早に歩き始めた。今日の現場はまだ終わらない。最後に、遊歩道沿いの倒れかけた枝を確認する必要がある。
「行ける?」
伊吹が雫葉に聞いた。
「行ける」
「本当に?」
「行ける。足元も見る」
伊吹は少しだけ苦笑した。
「根に持ってる?」
「腕をつかまれたこと?」
「怒ったこと?」
「根に持ってないよ。根は大事にするけど」
「うまいこと言った顔してる」
「雨の日仕様」
伊吹は笑った。その笑みで、先ほどの強い声の記憶が少し和らいだ。雫葉は、そのことにほっとした。怒られたのが嫌だったわけではない。むしろ、あの必死さが胸に残ってしまったことが困った。
遊歩道に向かう道は雨で人影が少なく、木々は両側から枝を伸ばして葉に溜まった水を時々まとめて落としていた。舗装の上には小さな流れができて排水溝に向かって光を揺らしていた。
雫葉は雨の匂いを吸い込んだ。土、葉、濡れた木肌、遠くの車の排気。東京の雨はきれいなだけではない。さまざまなものを拾い、混ぜ合わせ、重みを増していく。その不完全な匂いが雫葉は嫌いではなかった。
「雨の日、好き?」
伊吹が横で聞いた。
「嫌いじゃない」
「現場は大変なのに?」
「大変。でも、木の本音が見える気がする」
「また木側の発言」
「人間側にもいるよ」
「半分くらい?」
「今日は4割くらい」
「負けてるな」
雫葉は笑った。雨具のフードから水が落ち、笑うと頬に雨が入るが、それでも笑ってしまう。伊吹といると、こういうどうでもいい会話がすぐに生まれる。その軽さがあるからこそ、重い気持ちを抱えていられるのだ。
遊歩道沿いの枝は思ったよりも危険な状態だった。幹から伸びた太い枝の一部が裂けており、雨の重みでさらに開いていた。下は歩行者用の道で今は人通りが少ないものの、放置すれば夜に落ちてしまう可能性があった。
「これは落とすしかないな」
伊吹の声が変わった。
「うん。範囲、広めに取ろう」
雫葉は周囲を確認して標識を設置した。雨音が強くて声が吸われる。息を吸うたびに、濡れた葉の匂いが胸いっぱいに広がった。
枝は高く、足場は悪かった。慎重に進める必要があった。伊吹が上の状態を見ながら位置を決め、雫葉が下でロープの張りと落下範囲を確認した。雨水が目に入って視界が何度もにじんだ。
「雫葉、張りすぎないで」
「わかった」
「もう少し緩めて」
「これくらい?」
「いい」
雨の中、伊吹の声が響く。雫葉はロープを握る手に力を込めた。濡れた繊維が手袋に食い込み、腕に重さがかかる。切り落とされる枝の重さを想像すると、胸の奥まで力が入った。
「いく」
伊吹の声がした。
枝に刃が入り、雨音の奥で鈍い裂け目の音が響いた。雫葉はロープを調整して枝の動きを受け止めた。水を含んだ枝は想像以上に重く、腕に大きな負荷がかかった。
「雫葉、無理するな」
「大丈夫」
「少し戻せ」
「戻せる」
「雫葉」
名前を呼ぶ声が強かった。雫葉はその声に反応し、ほんの少し力の入れ方を変えた。すると、次の瞬間、枝が大きく沈み、ロープが手の中で滑った。
伊吹が駆け寄って同じロープを握った。肩が触れ、雨具の濡れた布の冷たさが伝わってくる。並んだ手元に力が集まり、枝の重さが徐々に制御されていく。
「せえの」
伊吹が言った。
「うん」
声を合わせて枝をゆっくり下ろすと、地面に着いた瞬間、重い水音が跳ねた。雫葉は息を吐いてロープから手を離し、指先が少し震えていることに気づいた。
「だから無理するなって」
伊吹の声は、さっきよりもはっきりと怒っていた。
「ごめん」
「ケガしたらどうするんだよ」
「大丈夫だった」
「結果の話じゃない」
雨が強く打ちつける中、雫葉は言葉を失った。伊吹の顔は雨で濡れていて表情が読みづらかったが、目だけがまっすぐだった。その目は、怒りというよりも怖かったのだとわかる目だった。
「雫葉が平気そうな顔するの、余計に怖い」
その言葉は雨音の中でもはっきりと届き、雫葉は息を飲んだ。自分が何かを隠していることをまた見透かされた気がした。
「平気じゃない時もあるよ」
口からこぼれた声は小さかった。
伊吹の表情が少し変わった。
「なら、言えよ」
「言えないこともある」
「またそれか」
「伊吹だってあるでしょ」
と言ってから、雫葉はしまったと思った。雨の日の言葉は滑りやすい。足元だけではなく、心の中まで。
伊吹は黙った。雨粒がロープを打ち、足元の小さな水たまりに細かな波紋が広がる。遊歩道には誰もおらず、木々の下だけが世界から切り離されたようだった。
「あるよ」
伊吹は低く言った。
雫葉は彼を見た。雨粒が頬を伝い、顎から落ちた。彼の声は震えていなかったが、慎重に選ばれた言葉だった。
「あるけど、今ここで言ったら雫葉を困らせる」
胸がぎゅっと縮んだ。困らせる。伊吹はいつもそうだ。自分の想いで雫葉を曇らせることを恐れている。雫葉はそれを知らないはずなのに、どこかで分かってしまう。
「困るかどうか、伊吹が決めるの?」
言葉が雨に押されるように出た。
伊吹は目を見開いた。雫葉も自分でも驚いていた。こんな言い方をするつもりはなかったが、もう引き返せない。
「それは……」
「ごめん。今の、強かった」
雫葉はすぐに目を伏せた。濡れた足元には切り落とした枝の葉が散り、水を抱いた葉は重そうに沈んでいた。
伊吹はしばらく黙った後、ゆっくり息を吐いた。
「いや、雫葉の言う通りかもしれない」
「伊吹」
「でも、怖いんだよ」
その一言で雫葉の胸の奥が静かに揺れた。伊吹が「怖い」と言った。いつも笑って冗談でかわし、面倒見が良く、現場では頼もしい彼が。
「何が」
と聞く声は、雨の音よりも小さかった。
伊吹はすぐには答えなかった。濡れた枝を見下ろし、一度拳を握った。
「雫葉の笑い方が変わること」
雨音が遠くなった気がした。
「俺が何か言って、雫葉がいつもみたいに笑わなくなったら、それが一番嫌だ」
雫葉は何も言えなかった。喉の奥に雨が入り込んだみたいに声が出ない。伊吹の言葉は告白ではなかったが、告白に限りなく近い場所の土を濡らしていた。
「だから、言えない」
伊吹は続けた。
「言わない方が、今のままいられる気がして」
雫葉は手袋の指先を見た。濡れて重く、土がついていた。今のまま、ずっと守ってきた言葉だった。同期だから、仲がいいだけ、今まで通り。その言葉の下で、自分でも同じように震えているのがわかった。
「私も」
雫葉はようやく言った。
伊吹がこちらを見た。
「私も、怖いよ」
「何が?」
「仕事帰りに隣を歩けなくなること」
言ってしまった。好きとは言っていない。けれど、隠してきたものの輪郭が雨の中で浮かび上がってしまった。雫葉は伊吹の顔を見ることができなかった。
沈黙が訪れた。雨はまだ強く降っている。葉から落ちる水が肩を叩き、遠くで車の走る音がする。それなのに、そこだけ時間が遅くなったようだった。
「それ、俺も怖い」
伊吹の声がした。
雫葉は顔を上げた。伊吹は笑っていなかったし、冗談も言っていなかった。濡れたまま、ただまっすぐこちらを見ていた。
「でも、今は現場終わらせよう」
少しして伊吹がそう言った。声は仕事モードに戻っていたが、完全には戻りきっていなかった。
雫葉はうなずいた。
「うん」
そこからの作業はほとんど無言だった。濡れた枝をまとめ、ロープを回収し、危険範囲を再確認する。言葉がないのに動きは乱れず、さっき交わした言葉が余計な力を削いでくれたようだった。
雨は夕方の気配を連れて少しずつ弱まり、空はまだ暗いものの、雲の底にわずかな明るさがにじみ始めていた。遊歩道の水たまりには枝葉と空の灰色が揺れていた。
作業車に戻ると、雫葉は息を吐いて座席に沈んだ。体中が濡れ、腕は重く、膝には泥がついていたが、胸の内側は雨に洗われたような、逆に深く濡れてしまったような不思議な感覚だった。
伊吹は無言でタオルを差し出した。それは、雫葉が朝に積んだものだった。
「ありがとう」
「こっちこそ」
「何が?」
「さっき、ちゃんと言ってくれて」
雫葉はタオルで髪の先を押さえた。水が布に吸われる。言ってよかったのかはまだわからないが、なかったことにはできない。
「ちゃんとではないよ」
「でも、聞こえた」
伊吹はそう言った。雫葉は窓の外を見た。雨粒がガラスを伝い、街の灯りを縦に伸ばしている。その言葉が聞こえた瞬間、胸の奥に残っていた震えが少し収まった。
会社に戻るころには夜が近づき、雨は弱くなって街は濡れた光を抱え始めていた。信号の色が路面ににじみ、歩道の人々は傘をたたんだり開いたりしながら急いでいる。
事務所に戻ると、濡れた雨具のにおいが一気に広がった。誰かがタオルを配り、誰かが泥のついた靴を見てため息をついた。雫葉はロッカーの前で雨具を脱ぎ、濡れた髪を軽く拭いた。
少し離れたところで伊吹は、剪定ばさみのケースを開けていた。こんな日でも道具の手入れは怠らない。刃の水分を丁寧に拭き取り、泥を落とし、油をなじませる。その横顔には疲れが見えたが、手元は静かだった。
雫葉はその様子を見ながら、自分の腕に残った感触を思い出した。滑りかけたときに掴まれた力、ロープを同じ場所で支えた重さ、怒った声、そして「怖い」と言った声。
「雫葉、腕」
伊吹が近づいてきた。
「大丈夫だって」
「見せて」
「本当に平気?」
「確認だけ」
声が真剣だったので、雫葉は雨具の袖を少し上げた。すると、薄く赤くなっている場所があった。痛みはほとんどなかったが、伊吹はそれを見て眉を寄せた。
「やっぱり跡がついた」
「伊吹のせいじゃないよ」
「俺がつかんだから」
「つかんでくれなかったら、転んでたよ」
「でも」
「ありがとうでいいでしょ」
雫葉がそう言うと、伊吹は少しだけ目を伏せた。
「……うん」
その沈黙に雫葉の胸が小さく痛んだ。伊吹には自分を責める癖がある。人には優しいのに、自分に向ける目だけが厳しい。雫葉はそれを前から知っていた。
「伊吹」
「何」
「私、ちゃんと気をつけるから。だから伊吹も、何でも一人で抱え込まないで」
そう言ってから、雫葉はまた、自分の言葉が強すぎたかもしれないと思った。けれど、今日はもう言葉を全部引っ込める気にはなれなかった。
伊吹は少し驚いてから、小さく笑った。
「今日の雫葉は雨に濡れて強くなってる」
「低気圧のせい」
「便利な言葉だな」
「でしょ」
ようやくいつもの笑いが戻ったが、その笑いは朝のものとは違っていた。雨に濡れた後、乾ききらない布のようにどこか重さを残している。
報告書を書いている間、窓の外では雨が細く降り続いていた。雫葉は今日の現場を記録する。サクラの枝整理、エノキの道路側枝処理、シラカシの応急支柱、遊歩道の裂け枝撤去。文字にすればただの業務だ。
しかし、今日の雨の重さや伊吹の声、胸の奥でほどけかけた言葉はそこには書けなかった。雫葉はキーボードを打ちながら、何度も手を止めた。
「雫葉」
隣の机から伊吹が呼んだ。
「何」
「遊歩道の枝、追加で経過観察にしとく?」
「うん。裂け目の近くの残った枝も、負担がかかっている」
「了解」
仕事の会話はいつも通りだったけれど、声の下に別のものが流れているのが雫葉にはわかった。伊吹もたぶんわかっている。
「今日の報告書、情緒ある?」
伊吹が少しだけ笑って言った。
「今日は情緒を入れる余裕がない」
「雨に流された?」
「現場に置いてきた」
「じゃあ、拾いに行くか」
雫葉は、画面を見たまま笑った。
「また雨の中?」
「雫葉、落ち葉には甘いから」
「情緒は落ち葉じゃない」
「でも、拾うだろ」
雫葉は返事をしなかった。拾うと思った。今日の雨も、伊吹が怖いと言う声も、仕事帰りに隣を歩けなくなるのが怖いと言ってしまった自分も、きっと心のどこかで拾ってしまう。
夜が深まり、事務所の人々が少しずつ帰っていく。濡れた雨具は乾燥用の場所に掛けられ、床に残った水の跡も薄くなっていく。雫葉は報告書を保存して日誌を閉じた。
鞄の中にはケヤキの葉が入っている。今日の雨で拾ったものはないが、腕の薄い赤みと胸の奥の湿った熱が残っている。それだけで十分すぎる気がした。
「帰る?」
伊吹が声をかけた。
「帰る」
「雨、弱くなってる」
「でも、傘は必要だね」
「入れてやろうか」
雫葉は固まった。伊吹はすぐに冗談のように笑った。
「傘、忘れたわけじゃないだろ」
「持ってるよ」
「だよな」
「今の、何?」
「低気圧のせい」
雫葉は笑ったが、笑いきれなかった。「傘に入れてやろうか」その言葉だけで隣を歩く距離が一気に縮まった。伊吹もそれに気づいたから、すぐに冗談に戻したのだろう。
会社を出ると、雨は弱まっていた。傘を開くと、布に落ちる雨音が柔らかく響く。朝とは異なる雨だった。街を打つ雨ではなく、濡れたものを静かに包み込むような雨だった。
雫葉と伊吹は、それぞれの傘を差して駅に向かって歩いた。傘がある分、肩先の距離は少し離れていたが、声は近かった。雨音が周囲を覆っているせいで、言葉が他の人に届かない気がした。
「今日、疲れたね」
雫葉が言った。
「疲れた」
「伊吹が素直」
「現場が素直に疲れる内容だった」
「軽口の在庫は?」
「水没した」
「明日までに乾く?」
「雫葉が笑えば早い」
雫葉は傘の下で少し俯いた。雨粒が傘の縁から落ちて足元に小さな水たまりを作る。伊吹はまた、そういうことを言う。冗談のように聞こえる言葉だが、胸の奥底に響く。
「今日、笑えてた?」
雫葉は聞いた。
伊吹はすぐに答えなかった。濡れた歩道を踏む音がしばらく続いた。
「笑ってたけど、少し無理してた」
「やっぱり見えてるんだ」
「見えてしまうから」
「便利な言葉」
「今日は便利じゃない」
雫葉は傘の柄を握り直した。雨で手が少し冷えている。言葉の続きが欲しくもあり、怖くもあり、歩幅だけがゆっくりになった。
「無理して笑ってたら、嫌?」
「嫌というより」
伊吹は少し考えた。
「俺の前では、無理しなくていいのにって思う」
雫葉は立ち止まりそうになったが、止まらなかった。止まれば雨の中で何かがあふれそうだった。
「それ、困る」
「また困らせた」
「うん」
「でも、撤回しない」
伊吹の声は静かだった。雫葉は横を見た。傘の縁で彼の表情は少し隠れていたが、それでも口元が冗談の形をしていないことはわかった。
「じゃあ、覚えておく」
「うん」
「伊吹も無理して軽口をたたかなくていいよ」
「それは難しいな」
「どうして?」
「雫葉が黙ると、何か言いたくなる」
雨音が傘の上で響き、雫葉は返答に困った。伊吹もそれ以上は言わなかった。街灯の光が雨粒に砕け、濡れた舗装に染み渡っていた。
駅に近づくにつれ、人の流れが多くなった。傘の群れが交差し、靴音と雨音が重なる。湿った空気には、地下道の入口から上がる温かい風とどこかの店の揚げ物の香りが混ざっていた。
いつもの分かれ道で雫葉は傘を少し傾け、伊吹も立ち止まった。雨はもはや霧のように細く、傘を閉じても歩けそうだったが、まだ誰も傘を閉じていなかった。
「雫葉」
伊吹が呼んだ。
「何」
「今日のこと、なかったことにしないから」
胸の奥が静かに震えた。
「うん」
「でも、急がない」
「うん」
「それでいい?」
雫葉は伊吹を見た。雨に濡れた駅前の光が傘の内側に淡く反射していた。急がない、その言葉が今の距離を少しだけ保ってくれている気がした。逃げるためではなく、壊さないために。
「いい」
と、雫葉は答えた。
「私も、なかったことにしない」
伊吹は少し笑った。それは、濡れた夜に沈むような静かな笑みだった。
「じゃあ、また明日」
「また明日」
いつもの言葉だったけれど、今夜の挨拶には雨の重さが含まれていた。傘の縁から落ちる水、腕に残る熱、言いかけてやめた言葉、怖いと認めた声。それらがすべて、「また明日」という短い挨拶の中に含まれていた。
伊吹が改札へ向かう。雫葉は少しだけその背中を見て、振り返らなかった。けれど、振り返らなくてもいいと思えた。今日交わした言葉は、もう雨に流れていない。
雫葉は傘を閉じた。細かな雨が髪に触れる。駅前の街路樹は水を含んだ枝をゆっくり揺らし、葉から落ちる水滴が街灯の下で一瞬だけ光っていた。
雨を抱いた枝は重そうだったが、それでも折れずに夜の中に立っていた。雫葉は、その姿を見上げながら自分の胸の中にも同じような枝があると思った。言えない言葉を抱え、その重みにしなりながらも折れずにいる枝。
地下へ降りる階段の手前で雫葉は一度だけ空を見上げた。雲は低いままだったが、雨は確かに弱くなっていた。今日の現場で濡れたものはすぐには乾かないだろう。作業着も手袋も、そして心の奥も。
それでも乾かないままで明日へ行くことはできる、と雫葉は思った。伊吹の声がまだ耳に残っている。「俺の前では無理しなくていいのに」と。撤回しない。なかったことにしない。
雫葉は小さく息を吐き、階段を降りた。 背中の向こうで街路樹の葉が雨粒を落とす音がした。 濡れた夜の底でその音だけがまだ言葉にならない想いを静かに受け止めていた。




