第3章:息を失う街
朝の光が高層ビルの側面を斜めに滑るころ、緑景管理の作業車は再開発地区へと向かっていた。窓の外では、街路樹の並ぶ通りが徐々に途切れ始め、やがてガラスとコンクリートの壁が続く景色へと変わっていった。
雨の気配はもうなかったが、舗装の表面には乾ききらない都市の匂いが薄く残っていた。樹守雫葉は後部座席で鞄の中の日誌に指を触れた。
昨日挟んだケヤキの葉は、紙の間でさらに薄くなっているはずだった。公園の木陰も、朝凪伊吹が話した未来も、日誌には挟めない。それでも胸の内側には、風が通った場所の感触がまだ残っていた。
「今日の現場、木が少ないんだっけ」
助手席から伊吹が振り返った。雫葉は窓の外を見たまま頷いた。
「少ないというより、ほとんどないみたい。再開発後の植栽計画の下見」
「樹木管理課が行くのに木がないって、なかなか皮肉だな」
「木がない場所だから行くんでしょ」
「正論で枝を折られた」
「折れるほど太くないよ、伊吹の正論」
「俺の正論、低木扱い?」
雫葉は少し笑った。伊吹の声には朝の眠さを隠すような軽さがあったが、昨日よりも彼の軽口の裏にあるものを見ようとしてしまう自分がいた。
公園の木陰で伊吹が話した未来、そして、管理計画を作れる側になりたいと言ったときの横顔。その言葉がまだ耳の奥で静かに響いている。
作業車が大きな交差点を曲がると、空が急に広くなったが、広いのに開放感はなかった。背の高い建物がまだ工事中の区画を囲み、地上には仮囲いと新しい舗装ばかりが延びていた。
「便利そうではあるね」
雫葉が言うと、伊吹は窓の外へ目を向けた。
「うん、便利そうすぎて少し落ち着かない」
「わかる」
「どこで立ち止まればいいのか、街が教えてくれない感じ」
その言葉に雫葉は小さく息を止めた。伊吹はいつも何気なく景色の芯を言い当てる。自分がまだ感覚としてしか持っていないものにふと輪郭を与えてしまう。
現場に着くと、空気は思ったより乾いていた。新しい舗装は足音を硬く返し、建物の壁に反射した車の音が少し遅れて耳に届く。植え込み予定地として確保された細い帯状の土地はあるが、そこにはまだ何も根を張っていなかった。
雫葉は車を降りて作業用手袋をはめた。手袋の布が指の間に馴染む感覚だけがいつもの現場と同じで、目の前の街には葉擦れの音も土の匂いもなかった。風はあるのに、触れる相手を見つけられずに建物の角で細く削られているようだった。
「静かだね」
雫葉が言った。
「人はいるのにな」
伊吹の言う通り、通勤の人々が歩き、配送車が止まり、遠くでは工事の音が規則的に響いていたが、街は静かだった。人の声や機械の音があるのに、街全体がどこか乾いた箱の中に入っているように感じられた。
「木がないだけで、音ってこんなに違うんだ」
「吸ってくれるものがないんだろうな」
「音も?」
「音も、熱も、たぶん人の気持ちも」
雫葉は伊吹を見た。彼は冗談の顔をしていなかった。街の向こうを見ながら少し眩しそうに目を細めており、その横顔を見ていると、言葉をなくした場所に風だけが通っていく気がした。
担当区画の確認が始まった。緑景管理で求められるのは、今後植える街路樹や低木の配置、歩行者動線、日陰の生まれ方、そして維持管理のしやすさを、現場目線で確認することだった。図面の上では整っていても、実際にその場所に立つと、異なる印象を受けることがある。
雫葉は図面を広げ、道路の幅と植栽帯の位置を確認した。日差しはまだ強くないのに、白い舗装が光を跳ね返し、目の奥が少し疲れる。風が通っても、葉がないから音にならない。
「ここに植えるなら、根元の空間が狭いね」
雫葉がしゃがみ込むと、伊吹も隣に屈んだ。肩先の距離が近づく。現場では何度もある近さなのに、今日は舗装の白さのせいかその距離感だけが妙にはっきりしていた。
「この幅だと、あとで根が苦しくなりそうだな」
「人が歩きやすい街にしたいのはわかるけど、木が生きる余白が少ない」
「歩きやすさだけで作ると、立ち止まりにくい街になるのかもな」
雫葉はその言葉を図面の余白に書き留めたいと思ったが、報告書にそのまま書くと情緒が強すぎると言われるかもしれないので、代わりに「植栽帯幅の再検討」と記録した。
伊吹は彼女の手元を見て少し笑った。
「今、もっと詩的なことを書きたかっただろう?」
「仕事中です」
「顔に出てたよ」
「観察力を乱用しないで」
「今日は木が少ないから、雫葉を見る余裕がある」
雫葉はペンを止めた。伊吹も言ってから気づいたように目を逸らした。街の乾いた風が図面の端を少し持ち上げた。
「それ、仕事としてどうなの?」
雫葉はどうにか冗談にした。声の底が揺れないように気を付けた。
「現場全体の安全確認です」
「便利な言葉で逃げた」
「今日も便利に生きてる」
笑いは戻ったが、戻る前に生まれた短い沈黙が雫葉の胸に残った。木が少ないこの街では隠れる場所も少なく、言葉も視線もいつもより遠くまで届いてしまう。
再開発地区の中心へ進むと歩道はさらに広くなり、新しいベンチが等間隔に置かれていた。案内板はまだ保護シートを被っており、すべてが真新しいのに人が長くいた気配は薄かった。
「きれいだね」
雫葉は言った。
「うん、きれいすぎる」
「昨日の公園とは逆だね」
「あそこは人が使った跡があった」
「ここはまだ使われる前の街って感じ」
「使われる前なのに、もう疲れて見えるのは何でだろうな」
伊吹の声は少し低かった。雫葉も同じように感じていた。街は新しい。舗装も壁も手すりも汚れていない。それなのに、光の逃げ場がないせいか空気が硬く張り詰めている。
植栽予定地には小さな土の区画がいくつか点在していたが、周囲の建物が高いため光の当たり方に偏りがある。雫葉は影の落ちる向きを見ながら枝が将来伸びる方向を想像した。
まだ何も植えられていない場所に未来の樹形を思い描く。そこには少し不思議な緊張感があった。失われたケヤキは過去を持ち、昨日の公園の木々は今を抱えていた。ここにはまだ何もない、未来だけが置かれている。
「何植えるんだろうな」
伊吹が言った。
「候補は何種類か出てる。暑さに強くて、管理しやすくて、根が暴れにくい木」
「条件だけ聞くと、だいぶ優等生を求められてるな」
「街路樹も大変だよ。きれいで、丈夫で、迷惑をかけず、ちゃんと季節感を出してほしいって言われる」
「人間でもきつい条件だな」
「伊吹なら無理そう」
「雫葉、今日冷たくない?」
「管理しにくそうだから」
「剪定される側か、俺」
雫葉は笑った。会話はいつもの調子だったけれど、その笑い声は建物の壁に当たって薄く返ってきた。木のある場所なら葉に吸われるはずの音は、ここでは少し遅れて自分たちに戻ってきた。
自分の笑い声を聞くのは少し恥ずかしい、と雫葉は思った。笑っているほど苦しい恋。もし誰かがその言葉を言ったなら、今の自分はきっと否定できない。笑えば笑うほど、隠しているものの輪郭が濃くなる時がある。
「雫葉、こっち」
少し先の区画で伊吹が呼んだ。雫葉は小さく息を吸ってから歩き出した。呼ばれる前に息を吸う癖は、自分では止められなくなっていた。
伊吹は低い段差の前に立っていた。新しく作られた歩行者空間と車道の境目には細い植栽帯が予定されていたが、車の風が強く当たりそうで土も乾きやすい場所だった。
「ここ、厳しくない?」
「うん。夏は特にきつそう」
「木陰を作りたい場所ほど、木にとっては過酷なんだよな」
「人に必要な場所と木が楽に生きられる場所っていつも一致するわけじゃないから」
雫葉は、言ってから自分の言葉が少し胸に返ってくるのを感じた。必要と楽は、必ずしも同じではない。誰かのそばにいたいことと、その距離にいることが苦しくないことは、きっと同じではない。
伊吹は何かを感じ取ったのか、少しだけこちらを見た。
「今の、仕事の話だよな」
「仕事の話だよ」
「ならいいけど」
「何だと思ったの?」
「わからないから聞いた」
その正直さが雫葉を困らせた。伊吹は時々、冗談よりもずっと危ないところへ一直線にやってくる。自分の本音には鈍感なふりをしているくせに、雫葉が隠しているものには妙に敏感だ。
「伊吹はわからないままでいて」
「それは難しいな」
「どうして?」
「気になるから」
風が建物の角を抜け、図面の紙を鳴らした。乾いた音だった。葉擦れとは違う、薄い紙だけが持つ頼りない音だ。雫葉は図面を押さえながら視線を落とした。
「仕事、進めよう」
「うん」
伊吹はそれ以上何も言わなかった。何も言わないでいてくれることにほっとしたのに、少しだけ寂しくもあった。自分がどちらを望んでいるのか、自分でも分からなかった。
昼の気配が地面に濃く落ち始めたころ、再開発地区は白くまぶしくなってきた。建物のガラスが光を反射し、舗装の熱が靴底からじわりと伝わってくる。まだ本格的な暑さではないはずなのに、木陰のない道には逃げ場がなかった。
「日陰がないだけで、歩くの疲れるね」
雫葉が言うと、伊吹は水筒のふたを開けた。
「休む場所がないってことだもんな」
「ベンチはあるのに」
「影がないベンチって座っていいのか迷う」
「確かに」
近くの新しいベンチには誰も座っていなかった。形はきれいで背もたれも滑らかで座りやすそうだが、直射日光をまともに受けていて、街の中で少し取り残されたような印象だった。
「昨日のベンチの人、ここなら本を読まないだろうね」
雫葉が言うと、伊吹は少し笑った。
「明るすぎると急かされるって言ってたもんな」
「覚えてたんだ」
「覚えてるよ。雫葉が大事そうに聞いてたから」
雫葉は水筒を持つ手に力を入れた。伊吹はまた、そういうことを自然に言う。雫葉が何を大事にしたかを覚えている。そのことがうれしくて苦しい。
「私のこと、見すぎじゃない?」
冗談のつもりだったけれど、声が少しだけ柔らかくなった。
「見えてるだけ」
「同じでしょ」
「違う。見ようとしてるわけじゃない」
伊吹はそこで少し黙った。雫葉も返事を待ってしまう。街の音が硬い壁を伝わって、遠くから戻ってくる。
「でも、見えてしまうものはある」
伊吹がそう言うと、雫葉は胸の奥がゆっくり熱くなるのを感じた。見えてしまうもの。自分にもある。伊吹が笑う前に少し首を傾けること、照れると鼻の横をかくこと、疲れた日は缶コーヒーを指先で回すこと。
好きだから見ているのか、見ているうちに好きになったのか、もう順番は分からなかった。
「それ、仕事では便利だね」
雫葉はようやくそう言った。
「仕事ではな」
「仕事以外では?」
と、聞いてしまった。あの時は沈黙に預けた言葉だったのに、今日は指先から滑り落ちるように口をついて出てしまった。
伊吹は水筒のふたを閉めた。金属の小さな音が乾いた街に、不自然なほどはっきりと響いた。
「困ることもある」
「そっか」
「うん」
それだけだった。それ以上を求めたら、この白い街の真ん中で逃げ場がなくなる。雫葉はうなずき、視線を植栽予定地に戻した。
昼食は現場近くの公開空地の端で取ることになった。屋根のある場所もあったが、木陰ではなかった。人工的な日除けの下は直射日光を避けられるものの、風の通りが悪く、熱が足元にこもっていた。
雫葉はおにぎりをひとつ取り出し、包装を開けた。すると、海苔の香りが乾いた空気に混ざって漂った。隣の伊吹はパンを取り出し、「少し潰れてる」と呟いた。
「鞄に雑に入れるから」
「パンにも現場の厳しさを教えている」
「教育方針が荒い」
「強く育ってほしい」
「もう潰れてるよ」
伊吹は潰れたパンを見て笑った。雫葉も笑った。屋根の下の影は硬く、昨日の木陰のように包み込む感じはなかった。しかし、隣に伊吹がいるだけで場所の居心地が少し変わるのが不思議だった。
「伊吹の管理計画の話」
雫葉はおにぎりを持ったまま言った。
「うん」
「こういう街も、いつか対象になるんだろうね」
「なるだろうな。むしろ、こういう場所ほど必要なのかもしれない」
「何を植えるかだけじゃなくて、どこで人が休めるかとか」
「うん。歩きやすいだけじゃ、暮らしやすいとは限らないし」
雫葉は、その言葉をゆっくり受け止めた。伊吹の中で、昨日の公園と今日の街がつながっている。昨日聞いた夢は、ただの憧れではなく、彼の視点そのものなのだと雫葉は思った。
「伊吹なら、やっぱり向いているよ」
雫葉がそう言うと、伊吹はパンを持ったまま少し固まった。
「昨日も言われた」
「今日も思ったから」
「雫葉に何回も言われると、逃げられなくなるな」
「逃げるつもりだったの?」
「少し。夢って口に出すと、責任が生まれるだろ」
「うん」
「でも、雫葉が覚えてるなら、もう逃げづらい」
その声は穏やかだった。雫葉は、おにぎりの海苔を見つめた。自分が伊吹の未来にほんの少しでも関わっているように聞こえた。それは嬉しいことのはずなのに、胸の奥が締め付けられた。
「じゃあ、覚えてる」
「圧が強いな」
「忘れないから」
伊吹は笑ったが、その笑いには照れが混じっていた。鼻の横をかくしぐさを見て、雫葉も目を伏せた。知っているしぐさが増えるほど、知らないふりが難しくなる。
午後の調査は地区の外周に移った。そこには旧道が一部残っていて、古い商店の看板や低い建物が取り壊されずにまだ並んでいた。再開発区画の新しさと比べると、そこだけ街の時間が少し遅れているようだった。
古い歩道には細い街路樹が数本残っていて、幹は太くないものの葉はよく茂り、低い建物の影と混ざり合って道に柔らかな暗さを落としていた。雫葉はその下に入った瞬間、体が少し楽になるのを感じた。
「全然違う」
思わず声が出た。
「うん、息がしやすいな」
伊吹も同じように立ち止まり、肩先に葉の影が落ちた。小さな影は風に揺れ、作業着の布の上を静かに渡っていった。
「さっきまでの街も、悪い場所じゃないんだけど」
雫葉は言葉を探す。
「でも、ここに来ると足が止まる」
「木って、止まってもいい理由になるのかもな」
伊吹の声が葉の下から少し柔らかく聞こえたので、雫葉は空を見上げた。枝は高くないし、葉の隙間から見える空も狭いけれど、広すぎる空よりも落ち着く。
「広ければいいわけじゃないんだね」
「距離もそうかもな」
雫葉の胸が小さく鳴った。伊吹は街路樹を見上げたまま続けた。
「離れている方が安全なときもあるけど、離れすぎると何も届かない」
「木の話?」
「木の話」
返事は早かった、早すぎるほどだった。雫葉は笑ったが、喉の奥に小さな痛みが残った。
「伊吹、今日は危ないことを言う日だね」
「そうか?」
「そうだよ」
「じゃあ、剪定して」
「切りすぎたら困るでしょ」
「雫葉なら大丈夫だろ」
それは仕事の信頼として聞けばいい、そう思うのに、言葉はもっと近い場所へ届いた。「雫葉なら大丈夫」。伊吹がそう言うとき、彼は雫葉の何を信じているのだろう。仕事の腕か、判断力か、それとも自分でも見ないふりをしている何かか。
外周の街路樹の根元には、少し窮屈そうな跡があった。舗装の隙間から根が押し上げられ、雨水の流れた跡が黒く残っている。雫葉はしゃがんで指先で土の硬さを確かめた。
「ここ、残せるといいね」
「再開発の範囲次第だな」
「残してほしい」
「雫葉の希望として報告書に書く?」
「書けるなら書きたい」
「書き方はあるだろ。既存樹木の保存による地域記憶の継承とか」
雫葉は伊吹を見た。
「伊吹も情緒あるじゃん」
「雫葉の報告書に影響されたんだ」
「責任取れない」
「もう取ってるだろ」
「何の?」
伊吹は少し黙った。葉が揺れる。さっきまで硬かった街の音が、この下では丸く聞こえる。
「俺の語彙」
「それなら軽い」
「結構重いぞ」
雫葉は笑った。笑いながら、さっきの沈黙に触れないようにした。伊吹も同じように軽口を叩いて、そこを覆った。こうして今日もまた、近づきかけたものに薄い布を掛けた。
でも、その布の形は見えている。雫葉には、それがただの同期の気安さだけではないことがもうわかっていた。わかっているのに、伊吹の方がどうなのかはわからない。見えそうになるほど、彼は冗談でその布をずらしてしまう。
調査を続けるうちに、再開発地区の新しい街と外周に残る古い道の違いが明確になってきた。新しい街は明るく、平らで、見通しがいい。古い道は狭く、少し歩きにくく、葉や看板、そして生活音が入り混じっている。
どちらが正しいのか簡単には言えなかった。雫葉は、その曖昧さを報告書にどう残せばいいか考えた。便利さと寂しさは同じ場所にある。安全と味気なさも時々同じ設計図の上に並ぶ。
「雫葉、難しい顔」
伊吹が言った。
「難しい街だから」
「いい返しだな」
「褒めなくていい」
「じゃあ、難しい顔も悪くない」
「それも褒めてる?」
「半分」
「残り半分は?」
「見てた」
雫葉は言葉を失った。伊吹はしまったという顔をした。その顔を見て、雫葉の胸は少しだけ温かくなった。彼もすべてをさらっと言っているわけではない。時々自分の言葉に追いつけなくなることがあるのだ。
「伊吹も今日は難しい顔してるよ」
雫葉がそう言うと、彼は少し笑った。
「難しい街だからな」
「真似した」
「拾った」
「落ち葉じゃないよ」
「でも、雫葉は拾うだろ」
このやり取りが続く限り、まだ大丈夫だと思ってしまう。冗談があれば距離は壊れないけれど、同時に冗談がある限り距離は変わらないのかもしれない。
夕方が近づくにつれて、ビルの影が地面を長く切り始め、新しい舗装の白さは少し落ち着き、ガラスの壁には低い光が鈍く残っていた。街には人が増えてきたが、どこか足早だった。
雫葉と伊吹は、最後の確認のために再び中心区画に戻った。昼間にはまぶしかったベンチの周辺にようやく建物の影が落ちていたが、それは木陰とは違って冷たく角のある影だった。
「影にも種類があるんだね」
雫葉が言った。
「建物の影は止まっていい感じがしないな」
「線が強いからかな」
「木陰は境目が曖昧だから、落ち着くのかも」
曖昧な境目。雫葉はその言葉を胸の内側で繰り返した。自分と伊吹の間にあるものも、きっと境目が曖昧だから保てている。同期で、仕事仲間で、軽口を言い合う相手で、でもそれだけではない。
はっきりさせたら楽になるのだろうか、それとも苦しくなるのだろうか。雫葉にはまだ分からない。
「ここに木が育ったら、少し変わるかな」
伊吹が言った。
「変わると思う」
「どれくらい?」
「人が歩く速さが少し遅くなるくらい」
「いいな、それ」
「うん、いいよね」
雫葉は、まだ何も植えられていない土を見て、未来の木陰を想像した。葉が茂り、誰かが立ち止まり、ベンチに座る人が増え、夏の熱が少しだけ和らぐ。そんな小さな変化が街の記憶を作っていく。
「伊吹が計画を作るなら、そういう街にしそう」
「歩く速さが少し遅くなる街?」
「うん」
「雫葉は?」
「私は……亡くなったときに、ちゃんと寂しいと思ってもらえる木を残したい」
伊吹は雫葉を見た。今度は目を逸らさなかったし、雫葉もなぜか目を逸らせなかった。建物の影が足元に伸びており、空気は昼よりも少し冷たかった。
「それ、雫葉らしいな」
「またそれ」
「でも、本当にそう思う」
「伊吹にそう言われると、困る」
「困るの、多いな」
「伊吹が困らせるから」
雫葉は言ってしまったことにすぐに後悔した。けれど、言葉はもう街の乾いた空気の中に出てしまっていた。
伊吹は少し目を伏せた。笑って逃げるかと思ったが、すぐには笑わなかった。
「俺も、困ってるよ」
声は静かだった。雫葉は呼吸を忘れかけた。遠くで工事の音がした。規則的で無関係な音だが、だからこそ現実の音だった。
「何に?」
聞いてはいけない、そう思ったのに、もう聞いていた。
伊吹は答えずに、植栽予定地へ視線を落とした。そこには、何も植えられていない土があるだけだった。
「何でもない」
「今のは、何でもなくないでしょ」
「そうだな」
「じゃあ」
「でも、まだ言えない」
その言葉は雫葉の胸に静かに落ちた。まだ言えない。言えないものがあるのは伊吹も同じだった。雫葉だけではなかったのだ。その事実は嬉しいはずなのに、同時に苦しかった。
「そっか」
雫葉はそれだけ言った。
「ごめん」
「謝らなくていいよ」
「雫葉も、言えないことあるだろ」
雫葉は答えられなかった。ある。ありすぎるほどある。同期のままでいいなんて、一度も思ったことがない。毎日隣を歩けるだけで、足りるふりをしている。伊吹が別の人と歩く未来を想像するだけで、胸の奥が冷える。
けれど、言えなかった。言えば、今ある日常が変わる。昨日なくなったケヤキのように、立っていたものが一日で過去になるかもしれない。
「あるよ」
やっと言えたのは、それだけだった。
伊吹は静かにうなずき、それ以上は聞かなかった。聞かないまま、少しだけ隣に立っていた。葉のない街の真ん中で、その沈黙だけが木陰のように柔らかかった。
調査を終えて会社に戻る車内では、誰もあまり話さなかった。疲れのせいもあるが、雫葉にはさっきの会話がまだ膝の上に置かれているように感じられた。伊吹の「まだ言えない」という声が何度も頭の中に響く。
窓の外では再開発地区の白い舗装が遠ざかり、やがて少しずつ街路樹が増え、見慣れた東京の緑が車内に流れ込んできた。葉の影が車内に入り、雫葉の手元を一時的に暗くした。
「木があると、やっぱり違うな」
運転席の方から誰かが言った。雫葉は返事をしなかったが、心の中で深くうなずいた。
会社に戻ると、事務所の空気は夕方の疲れを含んでいた。蛍光灯の白さ、紙のにおい、冷めた飲み物の気配。雫葉は席につき、再開発地区の調査メモを広げた。
報告書には、街の寂しさとは書けない。風が居場所を失っているとも書けない。けれど、歩行者滞留のための日陰不足、植栽帯幅の再検討、既存樹木の保存可能性、暑熱環境への配慮なら書ける。
伊吹は隣の机で別の欄に入力していた。キーボードを打つ音は一定ではなく、時々止まっては少し考え、また打つ。その間合いだけで彼が何を考えているのか気になってしまう。
「雫葉」
「何」
「既存樹木の保存、提案に入れていいよな」
「うん、入れたい」
「じゃあ、入れる」
「ありがとう」
「雫葉が言いそうだったから」
雫葉は画面から目を離した。伊吹は、まだ画面を見ていた。伊吹の横顔だけが窓ガラスに薄く映っていた。
「私が言いそうなこと、そんなにわかる?」
「全部はわからない」
「全部わかったら怖いよ」
「でも、少しはわかる」
「それで困る?」
伊吹の手が止まった。雫葉は自分がまた危ない場所に言葉を置いてしまったことに気づいたが、もう取り消すには遅かった。
「困る」
伊吹は短く答えた。
「そっか」
「困るけど、わからなくなる方がもっと嫌だ」
雫葉は何も言えなかった。事務所の音が遠くなっていく。誰かがコピー機を動かし、ロッカーの扉が閉まり、電話の呼び出し音が一度だけ鳴る。それらはすべて、別の部屋の出来事のように聞こえた。
「伊吹」
名前を呼ぶ前に、今度は雫葉の方が息を吸った。伊吹がこちらを見て、目が合った。いつもの冗談を挟むには少し遅かった。
「私も、わからなくなるのは嫌だよ」
それだけ言った。たったそれだけなのに胸の奥が大きく揺れた。好きとは言っていない。何も決定的なことは言っていない。それでもその言葉は、今の関係の表面に小さな傷をつけた気がした。
伊吹はゆっくりとうなずいた。
「うん」
「うん、だけ?」
「それ以上言うと、仕事にならなくなる」
雫葉は笑ってしまった。緊張の糸が少しだけ緩んだ。伊吹も笑った。その笑い方はぎこちなかったが、それでも救いだった。
「じゃあ、仕事しよう」
「そうしよう」
言葉は戻ったが、何もなかったことにはならない。雫葉は画面に向き直りながら、窓ガラスに寄り添う影をそっと見つめた。隣にいることが当たり前のように見える。その当たり前の状況が、昨日からずっと恐ろしいのだ。
報告書を終えるころには、夜が窓の外に深く降りてきていた。再開発地区で浴びた乾いた光の感触がまだ肌に残っている。雫葉はロッカーで作業着の袖を整え、鞄の中の日誌を確認した。
ケヤキの葉は今日もそこにあった。昨日より乾いて少し反り、緑だった色は落ち着き始めていた。変わらないようにしまっておいても、葉は少しずつ変わる。
「帰る?」
伊吹は、剪定ばさみのケースをしまいながら言った。
「帰る」
「今日は木のある道にする?」
雫葉は少しだけ笑った。
「うん、できれば」
「俺もそう思ってた」
会社を出ると、夜の東京には湿った風が戻っていた。大通りの街路樹が街灯の下で黒く揺れ、葉の音がするだけで歩道の硬さが少し和らいで感じられた。
雫葉と伊吹は並んで歩き、肩先の距離はいつもと同じ、近すぎず離れすぎずだった。しかし、今日はその距離の中に昼間の言葉が残っていた。
「緑のない街って疲れるね」
雫葉が言った。
「うん。きれいだったけどな」
「きれいなのに、寂しかった」
「人がまだ住んでないからかもな」
「でも、人がいても寂しい場所ってあるよ」
伊吹は少し黙った。
「あるな」
街灯の下を通ると、足元に葉の影が揺れた。それは、再開発地区にはなかった影だった。雫葉は、その揺れを見ながら影があることに安心している自分に気づいた。
「伊吹はさ」
「うん」
「木がない街、嫌だった?」
「嫌というか、足りなかった」
「何が?」
「待つ場所」
雫葉は隣を見たが、伊吹は前を向いたまま歩いていた。
「人って待つときに木の下に行く気がする。誰かを待つときも、雨を避けるときも、気持ちを落ち着けるときも」
「うん」
「今日の街には、待っていい場所がなかった」
その言葉は雫葉の胸に深く刺さった。待つ場所。自分たちにもそれが必要なのかもしれない。今すぐ言えない言葉をいつか言えるようになるまで置いておく場所。
「じゃあ、私たちにも必要だね」
そう言ってから、雫葉は足を止めそうになった。「私たち」という言葉が近すぎたのだ。その一言だけで、これまで曖昧なまま保ってきた距離に少しだけ輪郭が生まれた気がした。
伊吹は少しだけ歩調を緩めた。
「何が?」
「待つ場所」
「……そうだな」
沈黙が降りたが、嫌な沈黙ではなかった。街路樹の葉が揺れ、遠くで車の音が伸びる。再開発地区の硬い静けさとは違い、少し湿った夜の空気だった。
駅に向かう道の途中、雫葉は小さな植え込みのそばで足を止めた。低い木の枝先に新しい葉がいくつか出ており、街灯に照らされて淡い緑が夜の中で柔らかく見えた。
「見て」
雫葉が言うと、伊吹も覗き込んだ。
「新芽だな」
「こんなところでも、ちゃんと出るんだね」
「木は強いからな」
「強いだけじゃないと思う」
「じゃあ?」
「出るしかないんじゃないかな、季節が来たら」
伊吹は黙ってその葉を見つめた。雫葉もまた、同じ葉を見つめていた。言葉にすれば、まるで自分のことのように思われた。出るしかない。季節が来れば。隠していたものも、いつかは芽吹いてしまうのかもしれない。
「雫葉」
伊吹が呼んだ。
「何?」
「今日のこともたぶん忘れない」
雫葉は少し笑った。木を失った夜にも似たようなことを言われた気がするし、風が通った公園の日や緑のない街を歩いた今日のように、忘れられない時間ばかりが少しずつ増えていく。
「私も」
「また増えたな」
「何が?」
「忘れない現場」
「そうだね」
忘れない現場、忘れない言葉、忘れない沈黙。雫葉は、それらを日誌に挟めたらいいのにと思った。葉のように薄くしてページの間にしまえば、少しは扱いやすくなるのに。
駅の明かりが見えてきた。人の流れが増え、夜の街はそれぞれの帰り道へとほどけていく。雫葉と伊吹は、いつもの分かれ道の少し手前で歩みを緩めた。
「明日は雨らしいな」
伊吹が言った。
「雨の現場?」
「倒木予防の確認が入るかもしれない」
「忙しくなりそう」
「雫葉、雨の日はちょっと顔が真面目になるよな」
「仕事だからね」
「違う。雨の音を聞いている顔だよ」
「何それ?」
「見えてしまうものです」
雫葉は笑った。伊吹も笑った。夜の街路樹が頭上で静かに葉を鳴らしている。笑いはその音に混ざってすぐに、遠くの人波に溶けていった。
改札へ向かう分かれ道で雫葉は立ち止まった。伊吹も止まった。いつものように「おつかれ、また明日」で終わればいいのに、今日は昼間の「まだ言えない」が胸に残っていた。
「伊吹」
雫葉が呼ぶと、彼はすぐにこちらを見た。
「何」
「まだ言えないこと、無理に言わなくていいよ」
伊吹の表情が少し変わった。驚いたような、安心したような、そのどちらにも見える顔だった。
「でも、なかったことにはしないで」
雫葉は続けた。声は小さかったが、逃げなかった。伊吹はしばらく何も言わなかった。
「わかった」
やがて、そう答えた。
「雫葉の言えないことも?」
「うん」
「なかったことにしない」
その言葉だけで夜の空気が少し変わった気がした。これは告白ではない。何も始まっていない。けれど、何かを見ないふりをすることだけは少しだけやめた。
「じゃあ、また明日」
雫葉が言った。
「また明日」
伊吹が返した。
今夜は、どちらもすぐに歩き出さなかったが、長く留まることもなかった。少しだけ同じ沈黙を置いてから、それぞれの改札へ向かった。
雫葉は地下へ降りる階段の前で一度だけ振り返った。伊吹はすでに背を向けて歩いていたが、その肩先の向こうに街路樹の影が揺れていた。
緑のない街を歩いた後だったからか、その影がひどく大切に見えた。失われた木も、残った木も、まだ植えられていない木も、すべてが今日の中でつながっている。雫葉の言えない言葉も、伊吹のまだ言えない何かも、どこかの見えない土の中で根を伸ばそうとしている。
電車の音が地下から近づいてくる。雫葉は鞄の中の日誌にそっと触れた。ケヤキの葉は少しずつ色を変えている。変わることを止められないなら、せめてちゃんと見ていたい。
地上の街路樹が夜風に揺れる音を雫葉は背中で聞いた。緑のない街の乾いた静けさとは違い、その音は湿りを含んだ葉擦れだった。その音の奥に伊吹の声がまだ残っている。
まだ言えない。
その言葉は拒絶ではなく、たぶん小さな保留だった。待つ場所が必要だと伊吹は言った。ならば今は、この距離をすぐに壊さず、でもなかったことにもせず、葉が出る前の枝先みたいに抱えていけばいい。
雫葉は階段を降り始めた。夜の空気が少しずつ地下の温度に変わっていく。胸の奥では、緑のない街で見つけた寂しさと隣り合う気配の中に残った熱がまだ名前を持たないまま、静かに息をしていた。




