第10章:春を結ぶ枝
朝の光は若葉の裏側を透かすほど柔らかかった。東京の空は薄く晴れ、ビルの縁にかかる白い明るさも冬のものとは違っていた。緑景管理の事務所前で樹守雫葉は、作業用手袋をはめる前に荷台に積まれた若い街路樹を見た。
幹は細く、支柱に添えられ、根鉢は布で包まれていた。まだ街の土を知らないまま、静かに横たわっている。葉は小さく、緑は頼りないが、それでも枝先には、これからの季節が確かにあった。
「雫葉、朝から見守りすぎ」
朝凪伊吹がスコップを荷台に積みながら言った。声はいつもの軽さだったが、目は若木の根元を丁寧に確かめていた。春の光の中で、その横顔は少しだけまぶしく見えた。
「今日の主役だから」
「俺たちは脇役か」
「裏方」
「いいな。裏方の方が落ち着く」
「伊吹、目立つと軽口が増えるからね」
「今日くらいは控えめにしておくよ」
「今のところ信用はない」
伊吹は笑った。雫葉も笑った。笑いは自然に出たが、その奥にはもう隠しきれないものがあることも知っていた。木漏れ日の下で、このままでいいという嘘を認めた日から、笑いは少しだけ違う色を帯びていた。
今日の現場は、道路拡張工事の後に整えられた交差点だった。かつて大きなケヤキが立っていた場所の近くに新しい街路樹を植える。失われた木の代わりではないが、空白のままにしておくにはあの場所はあまりにも多くの記憶を抱えていた。
「同じ木じゃないんだね」
雫葉が確認するように言うと、伊吹はうなずいた。
「場所に合う樹種にしたんだろ。根の張り方も、枝の広がりも、前とは違う」
「代わりじゃない」
「うん、新しい木だ」
その言葉に雫葉は小さく息を吐いた。代わりではない。失われたものをなかったことにはできない。けれど新しいものを植えることはできる。胸の中でその考えが静かに根を下ろしていく。
作業車が走り出すと、東京の朝はゆっくりと目を覚ました。歩道には出勤前の人が増え、店先のシャッターが少しずつ開いていく。街路樹の若葉は、風を受けるたびにまだ薄い影を歩道に落としていた。
雫葉は窓の外を見た。季節はもう春の中だ。失われたケヤキの葉を日誌に挟んだ朝から、ずいぶんと遠くまで来た気がする。しかし、遠くへ来たというよりも、同じ場所を何度も異なる光で見てきたのかもしれない。
「雫葉」
助手席から伊吹が振り返った。
「何?」
「緊張してる?」
「してる」
「言えた」
「今日は言える」
「よし」
伊吹は満足そうにうなずいた。雫葉は少し笑った。平気なふりをやめること。怖がりすぎるところを少しずつ直すこと。あれから急に何かが変わったわけではないが、言葉の出し方はほんの少し変わった。
「伊吹は?」
「緊張してる」
「素直」
「今日は植える日だからな」
「木の話?」
「半分」
雫葉はそれ以上聞かなかった。半分。残りの半分は、もう無理に問い詰めなくてもそこにある。聞かなくても消えないものがあると、今は少しだけ信じられた。
現場に着くと、交差点の空は以前より広かった。あの日ケヤキがなくなった後に見上げた空と同じはずなのに、今日は少し違って見えた。舗装は新しく整えられ、植え込みの区画には柔らかい土が入れられていた。
雫葉は車を降り、土の匂いを吸い込んだ。湿りすぎず、乾きすぎず、春の朝にちょうどいい匂いだった。周囲にはまだ人は少ないものの、通りかかる人の何人かは荷台の若木に視線を向けていた。
「覚えてる?」
伊吹が隣で言った。
「何を?」
「ここで夜に、空が広すぎるって言ったこと」
雫葉は交差点を見た。あの夜木がなくなった場所を目の前にして、「本当にないね」と声を落とした。広い空が寂しかった。何かを失うと、こんなにも空が明るく開けてしまうのだと知った。
「覚えてる」
「俺も」
伊吹の声は静かだった。忘れないと言う人だったし、本当に忘れずにいる人だった。雫葉はそのことが今は、怖いだけではなかった。
作業が始まった。植え穴の深さを確認し、根鉢の大きさと土の状態を見る。若木はまだ軽そうに見えたが、実際にはずっしりと重かった。そこにはこれから何年もこの場所に立つための始まりが詰まっていた。
「少し左」
と伊吹が言った。
「こっち?」
「うん、根鉢が傾いている」
「支える」
雫葉は幹の近くへ手を添えた。布越しに土の湿り気が伝わってくる。伊吹は反対側から根鉢を支え、作業班の声に合わせてゆっくりと植え穴へ下ろした。肩先の距離が近い。けれど、今日はその近さから逃げたいとは思わなかった。
「いくよ」
「うん」
若木が土に収まり、まだ不安定な幹が支柱に添えられながら立ち上がった。幹は細く頼りないが、それでも空に向かって伸びていた。雫葉はその姿を見て、胸の奥がぎゅっと締め付けられるのを感じた。
「立ったね」
雫葉がそう言うと、伊吹は少しだけ笑った。
「立ったな」
ただそれだけの言葉だったが、そこには長い時間が凝縮されていた。失われた木を見送った朝、雨の枝を支えた日、夏の影を残した道、秋の葉を拾った夜、冬の剪定で春を待ったこと、花芽を見つけ木漏れ日の下で嘘を認めたこと。
全部が、この若い幹の足元へ静かに集まっている気がした。
土を戻す作業は慎重に進められた。根元へ空気が入りすぎないように、しかし、押し固めすぎないように。雫葉はスコップで土を寄せ、手袋の指先で表面をならした。
「土、いい感じ?」
伊吹が聞いた。
「うん、柔らかいけど沈みすぎない」
「雫葉みたいだな」
「どういう意味?」
「柔らかいけど、ちゃんと立つ」
雫葉は手を止め、伊吹はすぐに照れたような顔をした。言ってから気づいたのだろう。雫葉は土を見つめたまま少し笑った。
「それ、褒めてる?」
「褒めてる」
「今日は逃げないんだ」
「逃げない練習中」
雫葉は胸の奥が温かくなるのを感じた。逃げない練習中。伊吹らしい言葉だった。カッコよすぎず、でもウソではない。そういうところがずっと好きだったのだと思う。
「私も、練習中」
「何の?」
「平気なふりをやめる練習」
伊吹はうなずいた。笑わなかった。ただ、ちゃんと受け取るようにうなずいた。
支柱を立て、幹を固定するころには、通りには人が増えていた。犬を連れた人、通勤途中の人、買い物袋を持つ人。かつてケヤキを見送りに来ていた年配の女性の姿が道の向こうに見えた気がしたが、雫葉は確かめなかった。
誰かが立ち止まり、「新しい木だ」と小さく言った。別の誰かが、「前に大きな木があったところかな」と話す。記憶は完全には消えない。それでも、新しい目印は少しずつ街に受け入れられていくのだろう。
「代わりじゃないけど」
雫葉が言うと、伊吹は結束の確認をしながらうなずいた。
「うん」
「でも、ここに立つんだね」
「これからな」
「これから」
その言葉は若木にも雫葉の胸にも向けられているようだった。これから。過去を消すのではなく続きとして別の時間を育て、失った場所に同じものではなく新しいものを植えること。
昼へ向かう前に潅水を行った。ホースから流れる水が土に染み込んで根元の色を濃くし、水を吸った土の匂いが立ち上って春の光の中に広がった。
雫葉は、その匂いを深く吸い込んだ。雨の日の土とも、秋の落ち葉の匂いとも違う、植えたばかりの木の根元から立ち上る匂いは、まだ誰の記憶にもない、新しい匂いだった。
「いい匂い」
雫葉がそう言うと、伊吹が横から笑った。
「今日の雫葉語は?」
「始まりの土の匂い」
「そのままだな」
「整えすぎない方が良いでしょ」
「うん、いいと思う」
伊吹の返事は柔らかかった。雫葉は、水の流れを見ながら胸の内側も同じように湿っていくのを感じた。乾いたままでは根は伸びない。湿りすぎても腐る。ちょうどいい水を少しずつ。
昼休憩は現場から少し離れた小さな公開空地で取った。若木の様子が見える距離ではないが、あの場所に新しい木が立っていると思うだけで空気が少し違って感じられた。
雫葉は石のベンチに腰を下ろし、水筒を開けた。春の風は昼の光を含み、ベンチの表面をやさしく温めていた。伊吹は斜め向かいに座り、缶コーヒーを指先で回していた。
「今日は甘いやつ?」
雫葉が聞くと、伊吹は缶コーヒーの缶を見せた。
「微糖」
「大人になったな」
「今日くらいは」
「どういう日?」
「新しい木を植えた日」
「それだけ?」
伊吹は、缶を回す手を止めた。雫葉は、自分で聞いたくせに答えを待つのが怖くなった。
「それだけじゃない日」
伊吹は言った。
その声は静かで、逃げていなかった。雫葉は水筒を両手で包んだ。指先にはほとんど温度を感じなかったが、胸の奥だけがゆっくり温まっていった。
「私も、そう思う」
「うん」
「でも、仕事中」
「便利な言葉」
「今日は少しだけ使わせて」
伊吹は小さく笑った。
「いいよ」
その「いいよ」が優しすぎて、雫葉は少し俯いた。伊吹は待ってくれる。急かさない。けれど、もう何もなかったことにはしない。その距離感が今の雫葉には大切だった。
午後の作業は、若木の周囲を整えることだった。根元を踏まれないように保護材を置き、水の流れを確認し、支柱の結び目をもう一度確認する。派手な仕事ではないが、最初の日にどれだけ丁寧に整えるかでその後の育ち方が変わる。
「ここ、少し土が低い」
伊吹がしゃがんで言った。
「水が溜まりすぎる?」
「雨が強い日は」
「少し足そう」
雫葉は土を運び、根元の高さを整えた。手袋の指先に柔らかい土が付く。若木の葉が風に揺れ、薄い影が手元に落ちた。まだ小さな影で、人を休ませるほどではなかったが、確かに影だった。
「もう影がある」
雫葉がそう言うと、伊吹は若木を見た。
「小さいけどな」
「最初はこれくらいでいいんだね」
「何でも、最初から大きいと折れるだろ」
雫葉はうなずいた。恋もそうかもしれない。ずっと胸の中で育っていたのに、外に出すときは小さく始めなければならない。急に大きな名前を与けたら、きっと枝が耐えられない。
「伊吹」
「何?」
「最初は、小さくてもいいのかな」
伊吹は雫葉を見た。問いの意味をたぶんすぐに理解したが、すぐには答えなかった。若木の葉が風に揺れる音がほとんど聞こえないほど、小さく鳴った。
「いいと思う」
伊吹は言った。
「小さくても、ちゃんと育てるなら」
雫葉は手元の土を見た。返事をしたら何かが始まってしまう。もう始まっているのかもしれないが、言葉にすることで別の意味が生じる。
「育てる」
声は小さかった。
伊吹は息を止めたように見えた。
「雫葉」
「私、伊吹と今まで通り笑えなくなるのが怖かった」
言葉が口をついて出た。止められなかった。若木の根元へ水が染み込んでいくように、胸の奥から静かに言葉が溢れ出てきた。
「好きって言ったら、全部壊れる気がしてた」
伊吹は何も言わなかった。雫葉もすぐには彼を見ることができなかった。手元の土、支柱の紐、若葉の影、すべてがひどくはっきりと見えた。
「でも、同期のままでいいなんて一度も思ったことがない」
やっと言えた。ずっと胸の奥にあった言葉だった。言った瞬間、怖さが消えたわけではない。むしろ体の奥まで震えたが、それでも壊れなかった。空は落ちてこず、若木はそこに立っていた。
伊吹はゆっくり息を吐いた。
「雫葉」
名前を呼ぶ声が少し震えていた。
「俺も、毎日隣を歩いているのに、それでも足りなかった」
雫葉は顔を上げた。伊吹は笑っていなかったが、苦しそうでもなかった。長く抱えていたものを、ようやく手のひらに置いたような顔をしていた。
「雫葉が笑うと安心する。でも、その笑顔を俺が曇らせたらどうしようってずっと怖かった」
「私も伊吹が優しいから、怖かった」
「優しいから?」
「踏み込まないでいてくれるから。待ってくれるから。だから余計に言えなかった」
伊吹は少しだけ目を伏せた。風が若木の葉を揺らし、支柱の紐がわずかに鳴った。
「待つの、格好をつけていただけかもしれない」
「そうなの?」
「雫葉に嫌われたくなかった」
その言葉に雫葉は胸が苦しくなった。伊吹も同じように怖かったのだ。ずっと笑いながら、冗談にしながら同じ場所で立ち止まっていた。
「嫌いになるわけない」
雫葉はそう言った。少し強かったかもしれないが、それだけは迷わなかった。
伊吹はようやく少し笑った。雨の日や夏祭りの夜とは違う、肩の力が抜けたような笑いだった。
「じゃあ、もっと早く言えばよかった」
「それは私も」
「でも、早すぎたら言えなかったかもな」
「うん」
「この木を植えた日でよかった」
雫葉は若木を見た。まだ頼りない幹、小さな葉、人を休ませるには足りない影。それでも未来へ向かう形は、はっきりと見えた。
「私も、そう思う」
その後の作業は不思議なくらい静かだった。何かが劇的に変わったわけではない。手順は変わらず、記録も必要で、片付けもしなければならない。けれど、雫葉の中で、世界の手触りが少し違っていた。
伊吹が道具を渡すとき、手袋同士が触れた。いつもなら気づかないふりをしたかもしれないが、今日はほんの短い接触をそのまま受け止めた。伊吹もすぐに手を引っ込めなかった。
「これから、どうする?」
伊吹が小さく聞いた。
雫葉はロープを巻きながら少し考えた。
「明日も仕事する」
伊吹は一瞬きょとんとしてから吹き出した。
「そういうことじゃなくて」
「わかってる。でも、まずはそれかなって」
「雫葉らしい」
「恋人になったら、いきなり全部変えるの?」
と言ってから、雫葉は自分の言葉に頬が熱くなった。恋人。初めてその言葉を声に出した。
伊吹も少し固まったが、すぐに笑わなかったし、逃げなかった。
「なりたい」
静かな声だった。
雫葉は息を吸った。
「私も」
たったそれだけでよかった。派手な告白ではなかった。抱きしめるわけでも長い言葉を重ねるわけでもないが、長い時間をかけてここまで歩いてきた雫葉と伊吹にはそれで十分だった。
夕方に向かうころ、若木は支柱に支えられ、根元の土も落ち着いていた。水を含んだ土の色は深く、葉は少しだけ生き生きとして見えた。通りには帰宅前の人影が増え、誰かが新しい木をちらりと見ながら通り過ぎていった。
「あの人、今見た」
雫葉が言うと、伊吹はうなずいた。
「最初の目撃者だな」
「いつかこの木が目印になるかな」
「なるだろ」
「誰かの待ち合わせ場所とか」
「犬が必ず匂いを嗅ぐ場所とか」
「迷子が待つ場所とか」
伊吹はそこで少し黙った。最初に失われたケヤキの話がそこに静かに重なった。あの木を代わりにすることはできないけれど、新しい記憶がこれからここに積もっていく。
「育つといいな」
伊吹が言った。
「育てよう」
雫葉は答えた。木の話だった。木の話だけではなかった。
会社に戻る車内では沈黙が何度も訪れたが、その沈黙はもはや苦しくなかった。言うべきことを言った後でも、言葉がすべて失われるわけではない。むしろ、これから交わす言葉の余地が少し広がったように感じた。
雫葉は窓の外を見た。春の街は夕方の色に染まり、若葉の影が歩道に薄く落ちていた。人々はそれぞれの帰り道を歩いている。誰も雫葉の胸の中で起こったことなど知らない。
それでよかった。大きな事件ではないし、誰かに告げて回るようなことでもない。ただ、毎日積み重ねてきた時間の名前が少し変わっただけで、雫葉には世界が違って見えた。
「雫葉」
伊吹は前を向いたままそう呼んだ。
「何?」
「さっきの夢じゃないよな」
雫葉は笑った。
「現場で寝てたの?」
「それは昔の缶コーヒー瞑想の話」
「覚えてる」
「忘れていいのに」
「忘れない」
伊吹は少し笑った。雫葉も笑った。笑いはいつもの形に戻っていたが、もう同じものではなかった。嘘ではなくなった笑いだった。
会社に戻ると、事務所には春の夕方の光が残っていた。報告書には「植栽作業完了」「支柱設置」「潅水実施」「今後の経過観察」と書いた。そこには今日の本当の出来事は何も残らない。
雫葉はそれでいいと思った。書類に残らないものほど体の奥深くに残るものだ。若木の土の匂いも、伊吹の声の震えも、自分の言葉が外へ出た瞬間の怖さも、紙には書けない。
「ここ、確認日いつにする?」
伊吹が隣で聞いた。
「根付き具合を見るなら少し先かな」
「仕事で?」
雫葉は画面を見たまま笑った。
「仕事で」
「仕事じゃなくても?」
「それは別で」
「予定が増えるな」
「管理できる?」
「努力する」
「伊吹、計画を作れる側になりたいんでしょ?」
「ここで使われるのか」
雫葉は笑った。伊吹も笑った。その笑い声の合間に、もう隠しきれない安心感が漂っていた。周囲から見れば、いつもの掛け合いだろう。けれど雫葉には、そのように見られることをもう怖がらなくていいと思えた。
夜が近づき、事務所の明かりが濃くなるころ、雫葉は日誌を開いた。ケヤキの葉、秋の葉、花びら。今日はその間に何を挟むべきか迷った。若木の葉を摘むことはできないし、根元の土を持ち帰るわけにもいかない。
結局、雫葉は空白のページに小さく日付だけを書いた。文字は最小限でよかった。今日という日は、物で残さなくても消えない。
伊吹が隣から覗き込みそうになり、途中でやめた。
「見ないの?」
と雫葉が聞くと、伊吹は少し笑った。
「雫葉が見せたいときに、見る」
「また待つ」
「待ち方も少しは覚えた」
「じゃあ、いつか」
「うん。いつか」
そのやりとりが今は心地よかった。全部を今すぐ開かなくてもいい。けれど、閉じたままにはしない。若木と同じように少しずつ根を張っていけばいい。
会社を出ると、夜風には若葉の香りが混じっていた。昼に植えた木の香りがまだ指先に残っている気がして、雫葉は手袋を鞄にしまい、素手で春の空気に触れた。
伊吹は隣で、「今日は駅へ向かう前に少しだけ寄っていくか」と聞いた。
「どこへ?」
「若木」
雫葉は少し驚いた後、うなずいた。
「行く」
夜の交差点に戻ると、昼間に植えた若木が支柱に支えられながら静かに立っていた。街灯の光を受けて、葉は昼間よりも少し暗い緑色に見えた。根元の土は依然として湿っており、そこだけが夜の闇の中で新鮮な印象だった。
車の音が交差し、信号の色が変わる。人々は忙しく通り過ぎ、若木に気づく人は少ない。それでも、若木はそこに立っていた。始まったばかりのものは、最初はいつも静かだ。
雫葉は若木の前で足を止め、伊吹も隣に立った。肩先は近い距離だが、今日はそこに名前のない緊張だけがあるわけではない。
「小さいね」
雫葉が言った。
「でも、立ってる」
「うん」
「これからだな」
「これからだね」
風が吹き、若葉がほんの少し揺れ、その影が歩道に落ちた。まだ誰かを守るほどの影ではないが、確かにそこにある。
「伊吹」
雫葉が呼ぶと、彼は若木を見たまま返事をした。
「何?」
「手、つないでもいい?」
と言ってから胸が大きく鳴った。 雫葉の方が聞いていた。ずっと待ってもらっていた。ずっと差し出されるのを怖がっていた。だから今度は自分から、少しだけ枝を伸ばしたかった。
伊吹はゆっくりこちらを見た。目元に驚きが浮かんだが、すぐにそれは解けた。
「いいよ」
声は静かだった。雫葉は、作業手袋越しではなく素手で手を伸ばした。伊吹の指先は少し冷えていて、手のひらは思ったより温かかった。
雫葉は、強く握るのではなく、確かめるようにその手を少しだけ握り返した。壊さないように、急がないように、でも離さないように。
伊吹が息を吐く音が聞こえた。
「本当に、夢じゃないな」
「しつこい」
「確認したくなる」
「私も、少し」
「じゃあ、確認しながらでいいか」
「うん」
確認しながら、育てながら、急がず、でも逃げずに、雫葉は若木を見つめた。失われた木の跡から始まった物語は同じ場所に戻ってきたのではなく、別の木の前で別の名前を持って立っていた。
「伊吹」
「何?」
「好きだよ」
と言った瞬間、胸の奥が静かになった。あれほど怖かった言葉なのに、口に出すと、思っていたよりもずっと素朴だった。派手な光も音もなかった。ただ、春の夜風が若葉を揺らしているだけだった。
伊吹は、手を握る力を少しだけ強めた。
「俺も、好きだ」
短い返事だったけれど、それ以上は要らなかった。長く笑いで隠してきた時間が、その短い言葉の中でようやく息をした。
雫葉は少し笑った。今回の笑顔は苦しさを隠すためのものではなく、嬉しいから笑ったのだ。まだ怖さはあったが、それでも怖さごと伊吹の隣に立っていられると思った。
「明日、社内でどうする?」
伊吹が少しだけ困った声で聞いた。
「普通に仕事する」
「またそれ」
「でも、軽口は減らさなくていいよ」
「いいのか?」
「急に静かになってしまったら、怪しまれるから」
「付き合った途端に漫才を解散するのは不自然じゃないか」
「解散しないで」
「了解」
雫葉は笑った。伊吹も笑った。いつもの掛け合いが今度は嘘ではなく続いていく。恋人になったからといってこれまでの時間が消えるわけではなく、むしろその上に新しい日々が重なっていく。
若木の葉がまた揺れ、街灯の下では支柱と細い幹の影が歩道に伸びていた。雫葉と伊吹の影もその近くでそっと重なっていた。
「もう少しだけ」
雫葉は若木を見たまま言った。
伊吹は何も言わなかった。急かすことも理由を聞くこともせず、ただつないだ手の力をほんの少し緩めて、雫葉がそこに立っていられる余地を残してくれた。
街灯の下で若木が静かに揺れている。昼間に吸い込んだ水を根元に抱え、まだ頼りない幹を、支柱に預けている。風が通るたび、小さな葉が擦れ合って、遠い水音のようなかすかな音がする。
「この木、明日の朝もここにいるんだね」
雫葉がそう言うと、伊吹は若木を見上げた。
「いるよ」
「私たちが見ていなくても?」
「見ていなくても、ちゃんと立っているよ」
その言葉に雫葉は、胸の奥がゆっくりほどけていくのを感じた。失った木も、拾った葉も、雨の日の沈黙も、夏の光も、秋の迷いも、冬の枝も、春の花芽も、全部がここへ流れ込んでいる。どれかひとつを消してしまえば、今のこの手の温度にはたどり着けなかっただろう。
雫葉は伊吹の手を握り返した。
「私、明日からもたぶん笑うよ」
「うん」
「いつもみたいに、伊吹のこともからかうと思う」
「それは困るな」
「でも、もう嘘だけでは笑わない」
伊吹は少しだけ黙った後、つないだ手に静かな力を込めた。
「俺も笑ってごまかすのを減らす」
「少しずつ?」
「少しずつ」
同じ言葉が春の夜に落ちた。
劇的な始まりではなかった。抱きしめ合うわけでもなく、街が祝福するわけでもなく、信号は変わり、車は通り過ぎ、人々はそれぞれの帰り道へ流れていった。その中では、ただ手のひらだけが確かだった。
雫葉は若木をもう一度見た。
小さな葉が夜風に震えている。
それはまだ、誰かを休ませる木陰にも、雨から守る傘にも、夏をやわらげる影にも、秋を知らせる落ち葉にも、冬空へ伸びる枝にも遠い存在だった。
けれど、すでに始まっていた。
「また見に来ようね」
雫葉が言った。
「仕事でも、仕事じゃなくても」
伊吹は笑った。
「両方だな」
「両方」
雫葉も笑った。今度の笑顔は苦しさを隠すためのものではなく、少し怖くて少し照れくさくても、それでも手放したくないものを見つけた人の笑顔だった。
歩き出すと、つないだ手が小さく揺れた。肩先の距離は近いのに息苦しくはなく、隣を歩くことがもう名前のない習慣ではなくなるそのことが、少しだけ怖く同じくらい静かに嬉しかった。
背後で若木の葉が鳴った。
雫葉は振り返らなかったが、振り返らなくてもそこに立っているのがわかった。失われた木を忘れないまま新しい木が育っていくように、これまでの毎日を消さないまま新しい関係が始まっていく。
東京の夜風は若葉の匂いをほんの少しだけ含んでいた。
その匂いの中を雫葉は伊吹と歩いた。もう同期のままでいいなんて嘘はつかない。笑っているほど苦しかった恋は同じ笑い声の奥でようやく春の名前を持ち始めていた。
-完-




