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幽世断ちのカクリ 〜宵町カクリは夜を歩く〜  作者: れんP


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第96夜 「ページの向こうの名前」


今日も少女は夜を歩く。


巨大な紙のページが、一枚だけめくれる音。


その瞬間。


記録庫の空気が、はっきりと変わった。


紙の匂いが濃くなる。


インクの気配が生き物みたいに脈打つ。


棚に収められた無数の書類が、ぱらぱらと震え始めた。


「……始まった」


白面の医師が低く言う。


冬華が刀を構えたまま、最下層の闇を睨む。


「本が、目を覚ますとは」


「どういうことです」


医師は短く息を吐いた。


「記録庫の核です」


「奪われた名前」


「消された病室」


「書かれなかった退院日」


「そういう空白を飲み込み続けた結果」


「病院そのものが、一冊の本になりました」


れいなが青ざめる。


「本が……病院になったの?」


「逆です」


医師は静かに答えた。


「病院が」


「本を育てたのです」


記録庫の奥。


最下層へ続く暗闇から、カサ……と紙のこすれる音が響いた。


男の子がびくりと肩を震わせる。


「……来る」


ユイがすぐそばに寄り添った。


「大丈夫」


「一緒にいる」


その言葉に、男の子は小さく頷く。


けれど、その瞳は怯えていた。


空白の怪異――本の外殻が、ゆっくりとページを広げる。


そのたびに、棚に貼られた札が剥がれていく。


『廃棄』


『不明』


『転記不可』


『死亡確認』


『なし』


札が床へ落ちるたび、そこから新しい白紙が生まれた。


白い梟が鋭く鳴く。


『夜核、展開』


『情報汚染増大』


『接触回避不能』


総長が舌打ちする。


「本当に紙の怪異かと思うたら」


「とんでもない呪物じゃな」


その時だった。


記録庫の中央。


空白の怪異が、ゆっくりと大きく両腕――ページの束を広げた。


ぱらぱらぱらっ。


無数の白紙が舞う。


それは紙吹雪のようでいて、違う。


触れれば名前を奪われる。


そんな気配がした。


「来ます!」


冬華が叫ぶ。


白紙の束が一斉に弾け、病室の夜と記録庫の夜が混ざり始める。


壁に、ありもしない病室番号が浮かぶ。


床に、消えた患者の足跡が現れる。


棚の影から、子供の笑い声が聞こえた。


「……やだ」


ユイが名札を握りしめる。


「わたしの名前、返して」


空白の怪異が、ぴたりと止まった。


その中心。


めくれたページの奥に、薄く文字が浮かび上がる。


ユイが息を呑む。


「……読める」


「何が?」


カクリが問う。


「誰かの……名前」


それは、ぼやけている。


けれど、確かに見えた。


『ユイ』


そして、その隣に。


欠けた一文字。


『ユ……』


その瞬間、男の子が大きく目を見開いた。


「……それ」


か細い声。


「それ、ぼくの」


全員が振り向く。


男の子の身体が小刻みに震えていた。


「ぼくの」


「名前の」


「最初」


「……!」


白面の医師の目が鋭くなる。


「思い出しかけていますね」


男の子は頷く。


「ユイちゃんと」


「いっしょに」


「遊んでた」


「ぼくの名前」


「ユ……」


紙の怪異が大きく揺れた。


名が出かかるたびに、ページが暴れる。


まるでそれを嫌がっている。


空白が膨らみ、廊下の先をのみ込もうとした。


「止めます!」


白面の医師が札束を投げる。


札が空中で円を描き、白い帯になって空白の波を押し返す。


冬華が続けて踏み込む。


「斬ります!」


刀が閃いた。


白い紙の腕が一束、するりと切れる。


しかし切れた先から、また別の白紙が伸びた。


切っても、切っても、紙が増える。


「無限か!」


総長が声を上げる。


「違います」


白面の医師が即座に否定した。


「増えているのではありません」


「病院の“見なかったこと”が表に出ているだけです」


「……?」


「つまり」


「この怪異は自分で自分を増やしているのではなく」


「周囲の空白を吸って広がっている」


その時、れいながはっとした。


「じゃあ!」


「空白を埋めれば……!」


白面の医師が頷く。


「そうです」


「名前を返すこと」


「記録を戻すこと」


「それが唯一の方法です」


ユイが男の子を見た。


「ねえ」


「もう少し」


「もう少しで思い出せる?」


男の子は唇を噛む。


「……わかんない」


「でも」


「思い出したい」


「ぼく」


「ユイちゃんと」


「また遊びたい」


その言葉を聞いた瞬間。


ユイが、そっと男の子の手を握った。


「うん」


「じゃあ」


「思い出そう」


「一緒に」


男の子の目が揺れる。


そして。


ぽつりと。


ほんの小さく、でも確かに。


「……ユ」


空白の怪異が激しく震えた。


「う……」


「ユ……」


「やめて」


「やめて」


「名を」


「名を」


「名を」


崩れかけたページの山が、まるで怯えるみたいに縮む。


白い梟が静かに羽を広げた。


『固定対象接続』


『未登録名の復元、開始』


白面の医師がカルテを開く。


そこには、何も書かれていない空白の一行。


彼はそこへ、万年筆を差し入れた。


「……今です」


「彼の名を、言葉に」


姉が、男の子を見る。


「一緒に覚えている、あの名前」


男の子は目を閉じる。


ユイも目を閉じた。


記録庫が静まる。


紙の擦れる音だけが、遠くで続く。


そして。


男の子は、震える声で言った。


「……ユウ」


「ぼくの」


「名前」


「ユウ」


その瞬間。


記録庫が、完全に止まった。


空白の怪異が一度だけ大きく痙攣し、次の瞬間、ページの束がぱらぱらと崩れ落ちる。


白紙だった紙面に、ゆっくりと文字が浮かぶ。


『ユウ』


『患者』


『保護』


『目覚め』


白面の医師が目を閉じた。


「……記録、回復」


空白の怪異の中心から、黒い糸がほどけるように消えていく。


男の子――ユウの身体が、少しずつ軽くなった。


「……あ」


「名前」


「ある」


ユイが泣き笑いする。


「よかった」


カクリも小さく息を吐く。


その時だった。


最下層の闇が、もう一度だけ脈打った。


ゴン。


重い音。


だが今度は、先ほどよりずっと近い。


白面の医師が険しい顔になる。


「……まだ終わっていません」


冬華が構え直す。


「何がです」


医師は最下層へ目を向けた。


「本の中に」


「別の章が開いた」


「……?」


白い梟が、短く答える。


『夜核、最終頁へ移行』


『記録庫深部、真名収容体、起動』


その言葉に、ユウが顔を青くする。


「……あれ」


「来る」


ユイが名札を抱きしめる。


「何が?」


ユウは震える声で答えた。


「ぼくの名前を」


「最初に消した人」

ここまで読んでくれてありがとうございます。

次回もお楽しみに

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