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幽世断ちのカクリ 〜宵町カクリは夜を歩く〜  作者: れんP


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第95夜 「名を返す場所」


今日も少女は夜を歩く。


記録庫の奥へ進む扉が、ゆっくりと開いた。


そこから流れ出したのは、冷たい空気ではなかった。


紙の匂い。


古いインクの匂い。


そして、何十年も誰にも読まれなかった記憶の匂い。


「……行くしかないですね」


白面の医師がカルテを胸に抱え直す。


冬華が頷く。


「ええ」


総長も刀を抜いたまま、低く唸る。


「ここまで来て引き返せるか」


れいなは少しだけ怯えていたが、それでも一歩前へ出た。


「男の子、置いていけないもん」


男の子は、その言葉を聞いて戸惑ったように目を丸くした。


「……置いていかないの?」


ユイがすぐそばで頷く。


「うん」


「今度は、ちゃんと一緒」


男の子は少しだけ笑った。


でも、その笑顔はまだ不安定だった。


名前を奪われたままの子供の笑い方。


笑っているのに、泣いているように見える。


白い梟が静かに羽を閉じる。


『深部区画へ移行』


『名簿回収体、接近継続』


『現在位置、記録庫第二層』


「第二層?」


カクリが問うと、白面の医師は暗い廊下の先を見た。


「はい」


「ここから先は、消えた記録が積み重なった場所です」


「患者の顔」


「退院した日の欄」


「何年も誰も見なかったカルテ」


「そういうものが」


「全部下へ落ちています」


冬華が眉をひそめる。


「落ちる、とは?」


白面の医師は短く答える。


「病院が忘れたものは、下へ沈むのです」


その言葉に、姉が静かに背筋を震わせた。


「……忘れたもの」


ユイが名札を胸に押し当てる。


「わたしの名前も?」


「ええ」


「だから、取り戻さなければならない」


記録庫の奥の床は、普通の病院の床とは違っていた。


白いはずのタイルが灰色にくすみ、ところどころ文字の影が染みのように浮かび上がっている。


足を踏み出すたび、紙が擦れるような音がした。


パリ……。


パリ……。


まるで床全体が帳面のページでできているみたいだった。


その時。


遠くから声が聞こえた。


「……返して」


「……名前を」


「……こっちへ」


男の子がびくりとする。


「いる……」


「何が?」


カクリが尋ねると、男の子は床の影を見つめたまま小さく言った。


「ぼくの名前を」


白面の医師の表情がわずかに硬くなる。


「やはり、深部に集められている」


「集める?」


「ええ」


「奪われた名は、回収体へ流れ込む」


「そうして空白が増えるほど、深いところにある“本”が育つ」


総長が険しい顔をした。


「本、じゃと?」


「はい」


医師は言った。


「この記録庫の最下層にあります」


「病院に残った全ての名を飲み込む本」


「それが、回収体の核です」


れいなが小さく息を呑む。


「本が……怪異なの?」


「怪異というより」


「病院の忘却そのものです」


白い梟が一度だけ鋭く鳴いた。


『第二層終端、反応増大』


その瞬間、廊下の先の床が、ぺり、と剥がれた。


紙のように。


病棟の床ではありえない音だった。


そこから顔が覗く。


いや、顔ではない。


たくさんの名前。


たくさんの文字。


たくさんの病室番号。


それらがぐちゃぐちゃに混ざったような、文字の塊だった。


「……!」


冬華が刀を構える。


「来ます!」


黒い文字の塊は、ぬるりと廊下へ這い出してきた。


その身体のあちこちに、白いラベルが貼られている。


『転記不可』


『廃棄』


『未確認』


『不明』


『空白』


空白。


その札が、いちばん多い。


白面の医師が低く呟く。


「……回収体の外殻です」


「名前を集めるための手足」


「食い止めます」


そう言って、彼はカルテを一枚抜き取った。


紙ではなく、札のように。


それを前に投げる。


ヒュッ、と一瞬で伸びた紙札が黒い塊へ絡みついた。


バチィッ。


火花のような白い光が散る。


だが、黒い塊は止まらない。


「ぐっ……!」


白面の医師が踏みとどまる。


「強い……」


総長が刀を振るう。


黒い文字の塊の腕が一閃で切り飛ばされる。


けれど切れた断面から、さらに別の名前が伸びる。


「増える!」


れいなが札を放つ。


「えいっ!」


霊符が黒い文字の群れに貼りつく。


一瞬、動きが鈍る。


だが、その隙に塊は壁を這い、上へ逃げようとした。


その時だった。


男の子が前へ出た。


「だめ」


カクリが驚く。


「危ない!」


「ぼくのだ」


その子は震えながらも、はっきり言った。


「返してもらう」


空白の身体が、男の子の声に反応するように揺れる。


黒い文字の束が、ゆっくりとその子を見た。


「……名」


「……名」


「返せ」


「返して」


「返して」


声が重なる。


男の子は一歩ずつ進んだ。


「ぼくの名前」


「……」


「どこ」


空白の怪異が、ぴたりと止まる。


そして、初めてその全身から無数の紙片が剥がれ落ちた。


その下に見えたのは、骨でも肉でもない。


古い帳簿だった。


ページが何枚も重なり、そこに無数の名前が書かれている。


それらのほとんどは擦れて読めない。


だが。


男の子のページだけは、空欄だった。


ユイが息を呑む。


「……空白」


白面の医師が静かに言った。


「これが、奪われた名の行き着く先です」


「書かれる前に消された者」


「記録の途中で抜かれた者」


「そこには何も残らない」


男の子は涙をこぼした。


「……やだ」


「ぼく」


「名前、ほしい」


その声が落ちた瞬間、空白の怪異が腕を広げた。


その腕というより、ページだった。


無数の紙束が開き、周囲の記憶を飲み込もうとする。


「いけません!」


白面の医師が叫ぶ。


「それに触れた者は、自分の名前まで失います!」


冬華が身を引く。


れいなも怯えた。


カクリは男の子の前へ立った。


「大丈夫」


「……でも」


「大丈夫」


男の子は唇を噛む。


「ほんとに?」


「うん」


「だって」


「名前は、一緒に探すものだから」


その瞬間。


ユイが静かに名札を差し出した。


「じゃあ、これも使って」


男の子が目を見開く。


「それ……」


「わたしの名前が戻ってきたなら」


「次はあなたの番」


白い梟が短く鳴く。


『対象同調』


『記録再構成、可能性あり』


白面の医師が眼鏡越しに男の子を見つめた。


「あなたが忘れたのではありません」


「消されたのです」


「だから」


「取り戻せる」


「名前は」


「記録の最初に書かれていたはずです」


男の子は震えながら、空白の怪異を見上げる。


そして、小さく口を開いた。


「ぼくの……」


「ぼくの、最初の……」


だが。


その瞬間。


記録庫の最下層から。


轟音が響いた。


ゴォォォォォン!!


床が大きく揺れる。


棚が軋む。


紙が舞い上がる。


「何ですか!?」


冬華が叫ぶ。


白面の医師の顔が硬直した。


「……始まった」


「何が」


医師は最下層へ続く暗闇を見据える。


「本が」


「目を覚まします」


その奥で。


巨大な紙のページが、一枚だけめくれる音がした。

ここまで読んでくれてありがとうございます。

次回もお楽しみに

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