第94夜 「消えた名の番人」
今日も少女は夜を歩く。
「ユイちゃん」
「お迎えに、来たよ」
記録庫の奥から響いた声に、空気が凍る。
古い紙の匂い。
錆びた鉄扉のきしむ音。
そして、開きかけた扉の隙間からのぞく暗闇。
そこに立っていたのは、ひとりの子供だった。
十歳にも満たない、やせた男の子。
病院の子供用パジャマのような白い服を着ている。
けれど、その服はところどころ墨で塗り潰したみたいに黒く、袖口も裾も破れていた。
顔は。
見えた。
けれど、見えない。
見た瞬間だけ、輪郭がぼやける。
目を凝らすと、すぐに印象が滑り落ちる。
ただ、笑っていた。
あまりに無垢な笑顔だった。
「……だれ」
ユイが胸に名札を抱えたまま、震える声で問う。
男の子は少し首を傾げた。
「ユイちゃん、やっと思い出した?」
その言葉に、ユイの肩がびくりと跳ねる。
「……あなた」
「わたしのこと、知ってるの?」
子供はにこっと笑う。
「もちろん」
「ぼく、ここで待ってたから」
白面の医師が一歩前へ出た。
「下がってください」
静かな声だが、病室や記録庫を切り裂くような強さがあった。
「その子に近付くな」
子供は医師を見て、目を細める。
「やだなあ」
「お医者さん、邪魔しないで」
「今日は」
「お迎えの日なんだから」
その瞬間。
記録庫の棚が一斉に鳴った。
カタカタカタッ。
紙束が風もないのに揺れ始める。
冬華が刀を抜く。
「何です、この子……!」
総長も顔をしかめた。
「気配が……薄い」
「いや、薄いんじゃない」
「存在がずれておる」
白い梟がすぐに反応する。
『記録干渉体』
『名簿侵入体』
『未登録生命反応』
れいなが息を呑む。
「記録干渉体って……何それ……」
白面の医師は答えた。
「この病院の記録からこぼれ落ちたものです」
「こぼれ落ちた?」
「はい」
「名前を奪い、書き込みを消し、存在そのものを空白にしていく」
「この記録庫で長く眠っていた“消失の子”です」
ユイが小さく息を吸う。
「消失の……子……?」
子供はユイを見て笑った。
「そう」
「ぼく、ずっと一人だった」
「でも」
「ユイちゃんだけは覚えてた」
「覚えてる?」
「うん」
「病院の裏で一緒に遊んだ」
「廊下で隠れんぼした」
「夜の見回り、怖かったね」
「……」
ユイの瞳が揺れる。
頭の奥で、何かが軋むように動いた。
知らないはずの記憶。
でも、懐かしい。
「……ほんとに、知ってる」
小さな声でユイが言う。
カクリが隣に立つ。
「お姉ちゃん」
「無理に思い出さなくていい」
「でも」
ユイは名札を握りしめる。
「この子……」
「名前を、取られたの?」
白面の医師が静かに頷いた。
「おそらく」
「記録庫の中で最初に失われたのが彼です」
「患者ではなく」
「記録そのものに寄生する形で残った」
「だから、名がない」
子供は少しだけ口を尖らせる。
「ないんじゃないよ」
「消されたんだよ」
その声は、年相応の幼さを持っていた。
けれど、底に冷たい空洞がある。
「お医者さんたちが」
「ぼくを見なくなった」
「看護師さんも」
「先生も」
「書いたはずなのに、書いてないって言った」
「だから」
「ぼくは、書かれてないところにいた」
棚の奥で、古い紙が一枚ひらりと落ちた。
落ちた先に、何も書かれていない白紙のページが見える。
男の子はそこを指差した。
「ここ」
「ぼくの場所」
「空いてる」
「だから、そこに戻るだけ」
冬華が眉をひそめる。
「戻る?」
「何をするつもりです」
男の子は答えず、ユイへ一歩近付いた。
すると白面の医師が低く言った。
「止まりなさい」
「その先へ行くと、二度と名前を戻せなくなる」
男の子は笑う。
「もう戻らないよ」
「ぼくは」
「もう決めたから」
次の瞬間、記録庫の鉄扉が大きく揺れた。
ドン。
ドン。
今度は外からではない。
内側。
記録庫の深部から、何か別のものが近付いている。
白い梟の声が鋭くなる。
『別反応』
『深部回収体、起動』
『危険度上昇』
「回収体……?」
れいなが青ざめる。
白面の医師が目を細めた。
「……来ますね」
「記録庫の本当の管理者です」
総長が刀を握り直す。
「まだあるのか」
「ええ」
医師は短く言った。
「名前を奪う子」
「記録を消す子」
「そして」
「消されたものを回収する者」
「この病院には三つの夜があります」
カクリは子供と扉、両方を見た。
「三つ……?」
「はい」
「迎える夜」
「消す夜」
「戻す夜」
その時、男の子がぽつりと呟いた。
「……ちがう」
全員が振り向く。
男の子は笑っていなかった。
初めて。
少しだけ。
怖がる顔をしていた。
「ぼくは」
「戻す子じゃない」
「え?」
「ほんとは」
「ぼくも消えるはずだった」
静寂。
「でも」
「一緒にいたかったから」
「消えなかった」
ユイの目が見開かれる。
「一緒に……?」
男の子は頷く。
「ユイちゃんも」
「お医者さんも」
「みんなも」
「誰もいなくなるの、嫌だった」
「だから」
「名前を消した」
白面の医師の表情が初めて変わった。
「……まさか」
「記録を奪ったのは」
「あなた自身……?」
男の子は黙った。
それが答えだった。
ユイは息を呑む。
「どうして……」
「だって」
男の子は困ったように笑う。
「名前があると」
「一人になるから」
「みんながみんな」
「違うところへ行っちゃうから」
「だから」
「同じにしたかった」
その言葉が落ちた瞬間、記録庫の空気がさらに重くなる。
空白の影が名札を胸に抱きしめた。
「……それ」
「だめ」
ユイの声は小さい。
でも、はっきりしていた。
男の子が目を瞬く。
「え?」
「だめだよ」
「だって」
「ぼくがいなくても」
「みんな、いなくならないよ」
男の子は戸惑った。
「ほんと?」
「うん」
「うそじゃない?」
ユイはゆっくり首を振る。
「うそじゃない」
「わたし」
「今、ここにいる」
「あなたも」
「ここにいる」
「だから」
「名前、返して」
男の子の笑顔が、少しずつ消えていく。
代わりに現れたのは。
長い長い孤独だった。
名前を奪うことでしか繋がれなかった子供の、どうしようもない寂しさ。
カクリが静かに言う。
「返して」
「名前があるから」
「一緒にいられないわけじゃない」
「むしろ」
「名前がないと、誰も呼べない」
男の子はびくりとする。
「呼ぶ……?」
「うん」
「名前で呼ぶ」
「それがないと」
「友達になれない」
友達。
その一言に、男の子の瞳が大きく揺れた。
記録庫の最奥から、ぎしり、と扉が開く音がした。
『深部回収体、接近』
梟が告げる。
そこから現れたのは、黒い本のようなものだった。
巨大な帳面。
表紙には何も書かれていない。
だが、ページが勝手にめくられ、無数の白い文字が浮かび始める。
「……名簿」
白面の医師が息を吐く。
「回収体が、いなくなった名を集めています」
男の子がその本を見て怯える。
「……あれ、こわい」
「知ってる」
「ぼくの名前、あそこに入ったんだ」
その瞬間、ユイがはっきり言った。
「じゃあ、取り返そう」
「え?」
「わたしが」
「取り返す」
「名前も」
「あなたも」
ユイは名札を掲げる。
記録庫の灯りが、その金属板に反射した。
『ユイ』
書かれた文字が、確かにそこにある。
男の子は、その光を見つめて固まる。
そして、ぽつりと呟いた。
「……ぼく」
「まだ」
「名前、ほしい」
その声に。
カクリは頷いた。
「じゃあ、いっしょに探そう」
白い梟が静かに羽を広げた。
『次段階移行』
『名簿回収体、封印準備』
白面の医師はカルテを広げる。
「時間はありません」
「今から、記録庫の深部へ入ります」
「そこで」
「この子の本当の名を」
「取り戻します」
男の子は、初めて。
ほんの少しだけ泣きそうな顔で笑った。
「……うん」
「お願い」
ここまで読んでくれてありがとうございます。
次回もお楽しみに




