第93夜 「忘れられた患者の名」
今日も少女は夜を歩く。
「……忘れられた患者」
その言葉が、記録庫の空気を静かに震わせた。
黒いファイルを抱えた顔のない影は、ぴたりと動きを止める。
まるで。
初めて自分の輪郭を与えられたみたいに。
棚の間に漂っていたざわめきが、少しずつ引いていく。
白面の医師は小さく頷いた。
「……はい」
「それでいい」
白い梟が、棚の上で静かに羽を閉じる。
『名称固定』
『記録庫内不安定反応、沈静』
冬華が緊張を解かないまま周囲を見渡した。
「これで……収まったのですか」
「完全には」
白面の医師は答えた。
「ですが、今の名前で“ここにいる理由”は生まれました」
その言葉に、顔のない影がゆっくりとこちらを向く。
怖さは薄れていた。
けれど。
未練だけは残っている。
「……わたし」
かすれた声。
「わたし、いた」
姉が一歩前に出る。
「うん」
「いたよ」
影は、自分の胸のあたりを見下ろす。
そこには何もない。
黒いファイルだけが、空のまま抱えられている。
「名前」
「ない」
「わたし」
「ない」
白面の医師が低く答えた。
「名前は記録から失われたのです」
「けれど」
「存在まで消えたわけではない」
「まだ、戻せます」
れいなが首を傾げる。
「戻すって、どうやって?」
医師は記録庫の最奥を見た。
そこには、壁一面の書棚とは別に、ひとつだけ扉がある。
古い金庫のような鉄扉。
錆びつき、黒ずみ、札が何重にも貼られている。
「最初に消された記録が、あそこにあります」
冬華が目を細める。
「つまり……この患者さんの本当の記録は、あの奥に?」
「ええ」
「ですが、鍵が必要です」
「鍵?」
白面の医師は振り返る。
「“病院の記録を消した者”の鍵です」
総長が低く唸った。
「つまり、消した犯人がいるのか」
「はい」
医師の返答はあまりにも静かだった。
「記録庫は自然に空白になるわけではありません」
「誰かが」
「何度も」
「削っている」
その瞬間、影が震えた。
「けずる……?」
「ええ」
「書いても」
「消える」
「覚えても」
「忘れる」
「だから、あなたは名を失った」
記録庫の棚の影が、ほんの少しだけ濃くなる。
影は、ゆっくりと黒いファイルを開いた。
中はやはり真っ白だった。
だが今度は、その白の奥に、うっすらと文字が浮かんでいる。
読めない。
掠れている。
けれど、確かに文字だ。
姉が息を呑む。
「……見える」
「何が?」
「まだ」
「書きかけ」
白面の医師が頷く。
「はい」
「誰かが途中まで書いた記録です」
「終わる前に、止められた」
カクリが鋏を握り直す。
「誰が止めたの」
医師は答える代わりに、記録庫の扉の向こうを見た。
「病院の夜です」
その一言で、場が一瞬固まる。
「病院の夜……?」
「はい」
「この病院には“夜そのもの”がいます」
れいなが青ざめる。
「えぇ……」
「まだいたの……」
白面の医師は淡々と続けた。
「病院の夜は、患者や家族の記憶を集めて形になります」
「忘れたいもの」
「思い出したくないもの」
「そういうものを吸って、夜は育つ」
冬華が静かに言う。
「だから、書かれた記録を消すんですね」
「ええ」
「記録が残ると、夜は弱まる」
「逆に」
「記録が消えた空白に夜が入り込む」
姉は自分の手を見た。
「私も……消されかけたの?」
「いいえ」
白面の医師は首を横に振る。
「あなたは、消される直前で止まりました」
「だからこそ、見えた」
その時だった。
影が、ふいにこちらへ手を伸ばす。
今度は怯えていない。
まっすぐだ。
まるで何かを示すように。
棚の奥。
鉄扉のさらに横。
床近くに、小さな引き出しがある。
そこだけ。
明らかに他より古い札が貼られていた。
「……あれ」
カクリが指差す。
白面の医師が目を細める。
「そこです」
「患者の名札が抜かれた棚」
「あなたが名前を与えたことで、隠れていた部分が見えてきた」
姉がそっと近付く。
引き出しには、半ば焼けたような文字が刻まれていた。
『七号』
『転記禁止』
『視認時封印』
「……怖い」
姉の声は震えていた。
けれど。
それでも手を伸ばす。
白面の医師が止めることはしない。
引き出しを開けた瞬間、ひやりとした空気が漏れ出した。
中にあったのは、一枚の古い名札だった。
紙ではない。
薄い金属板。
そこに書かれている文字は、掠れているが読める。
――ユイ。
「……ユイ」
姉が声に出した。
その瞬間、影が大きく震える。
「ユイ……」
「……!」
「わたし」
「ユイ」
病室の外。
遠くで、カン、と何かが落ちる音がした。
白い梟が即座に目を開く。
『病棟夜域反応、急上昇』
『記録庫深部に別個体接近』
冬華が刀を構えた。
「まだいるのですか!」
白面の医師は名札を見つめたまま低く答える。
「ええ」
「ようやく、気付いたようです」
カクリが姉を見る。
姉は名札を両手で包み込むように持っていた。
「ユイ……」
「私の名前?」
白面の医師はゆっくり頷いた。
「おそらく」
「消された患者の本名です」
「この病院で、初めに記録を奪われた者」
「それが、彼女」
影――ユイは、名札を見つめていた。
その顔のない輪郭から、ぼろぼろと黒い雫が落ちる。
だがそれは涙ではない。
空白が埋まる音に近かった。
「……名前」
「ある」
「……」
「わたし」
「ユイ」
その瞬間、記録庫の奥の鉄扉が一度だけ震えた。
ドン。
低い衝撃。
誰かが、内側から叩いた。
もう一度。
ドン。
棚の紙がぱらぱらと揺れる。
そして――。
鉄扉の隙間から、聞き慣れない子供の声がした。
「……ユイちゃん」
ユイの身体がびくりと跳ねる。
白面の医師の目が鋭くなる。
「……やはり、そこまで来ましたか」
姉が青ざめる。
「今の、誰?」
白面の医師は記録庫の奥を見据えたまま答えた。
「名前を奪った者です」
「病院の記録を消して回っていた」
「空白の主」
白い梟が短く鳴いた。
『記録庫深部、最終未登録反応』
『接触禁止』
冬華が刀を握りしめる。
「最終……?」
記録庫の鉄扉が。
今度は内側から。
ゆっくりと開き始めた。
ガ……キ……。
錆びが剥がれ落ちる音。
そこから漏れてきたのは。
冷たい空気でも、病室の匂いでもない。
古い紙の匂い。
そして。
誰かが、何年も前に閉じ込められたままの気配だった。
ユイが名札を胸に抱き、震える声で呟く。
「……あの子も」
「わたしと」
「同じ……?」
扉の奥で、もう一度、子供の声がした。
「ユイちゃん」
「お迎えに、来たよ」
ここまで読んでくれてありがとうございます。
次回もお楽しみに




