第92夜 「記録庫の夜」
今日も少女は夜を歩く。
白面の医師が、静かにカルテを閉じた。
「……これで、ひとまず病室の夜は落ち着きました」
その言葉に、病室に張り詰めていた空気が少しだけ和らぐ。
窓の外では白い梟が翼をたたみ、まぶたを閉じていた。
『接続安定』
『病棟夜域、仮固定完了』
冬華が小さく息を吐く。
「ようやく……」
れいなも胸を押さえる。
「怖かったぁ……」
姉はベッドの上で、まだ少しだけ青ざめていた。
けれど、さっきまでのように夜へ引きずられる気配は薄れている。
「……ここ」
姉がゆっくりと周囲を見る。
「まだ、病院の中なんだよね」
白面の医師は頷いた。
「はい」
「ですが、今のあなたは“眠り”の側へ戻されるだけではありません」
「その代わりに、病院の夜があなたを見てしまう」
「だから」
「次に必要なのは、あなた自身の記録を整えることです」
「記録……?」
カクリが聞き返すと、白面の医師は病室の壁へ目を向けた。
「この病院には、記録庫があります」
「患者の名前」
「眠りの経過」
「消えた日」
「戻った日」
「そして、書かれなかったもの」
「その全部が残っている場所です」
冬華が目を細めた。
「つまり……病院の異変の根本が?」
「ええ」
白面の医師は短く頷く。
「“記録されなかったもの”が、夜を作ります」
その言葉に、白い梟が小さく鳴いた。
『記録庫へ移動推奨』
『未記録夜核、反応継続』
総長が眉を上げる。
「未記録の夜核?」
「はい」
白面の医師は淡々と答える。
「書かれていないものは、消えていないのに存在しない扱いになります」
「この病院では昔から、そういうことがありました」
姉の瞳が揺れる。
「書かれていない……」
「どういうこと?」
医師は少しだけ視線を伏せた。
「失踪」
「誤記」
「死亡確認の抜け」
「入院したのに入っていない患者」
「出たのに出ていない人」
「名前のない記録」
「そういうものが、ここでは夜になります」
病室の外から、かすかな風が吹き込んだ。
けれど窓は閉まっている。
白面の医師が立ち上がる。
「では、記録庫へ向かいましょう」
「今のうちです」
白衣の女たちが戻ってくる前に。
その一言に、全員が動いた。
◇
病棟の廊下は、さっきまでの異様な“複製”の気配が少しだけ薄れていた。
けれど完全には消えていない。
白い壁。
長い廊下。
病室の番号。
そして、遠くに揺れる非常灯。
歩いていると、壁に貼られた案内図がふっと揺れる。
そこに示された「記録庫」の文字だけが、どこか古びていた。
「こんなところ、あったっけ?」
れいなが首を傾げる。
「普段は鍵がかかっています」
白面の医師が言った。
「一般の職員は入れません」
「誰が管理してるの?」
「私と」
「あと、鍵を持つ者だけです」
その時、病棟の奥から、こつんと硬い音がした。
全員が振り向く。
だが人影はない。
代わりに、廊下の照明が一つだけ消えた。
「……また来た」
冬華が刀に手をかける。
けれど白面の医師は止めた。
「いえ」
「これは追ってきたのではありません」
「案内です」
「案内?」
その答えの直後。
廊下の壁が、ゆっくりと左右にずれた。
ぬるり、と。
まるで病院の皮膚が裂けるように。
現れたのは、鉄の扉だった。
分厚い。
古い。
錆びている。
ドアの中央には、紙札が何枚も重ねて貼られている。
そのどれもが、誰かの名前を塗りつぶしていた。
『記録庫』
白い梟が短く鳴く。
『到達』
白面の医師は札の束を取り出した。
「ここから先は、病院の“本当の記憶”です」
「気をつけてください」
「書かれたものが」
「話しかけてきます」
その言葉に、れいなが顔を引きつらせる。
「え……?」
「本当にやめてほしい……」
白面の医師は微笑んだ。
「残念ですが、今夜はやめられません」
そして。
札を一枚、扉へ当てた。
カチリ。
鍵のかかった音がして、鉄の扉がゆっくり開く。
中は暗かった。
けれど、まったくの闇ではない。
無数の紙の白が、薄く浮いている。
棚。
棚。
棚。
壁いっぱいの書類棚。
カルテ。
入退院記録。
廃棄予定の紙束。
封じたファイル。
そこには、病院の年月そのものが詰まっていた。
「すごい……」
姉が小さく呟く。
すると。
棚の奥で、カサ……と紙が擦れる音がした。
誰かがいる。
白面の医師が目を細める。
「……やはり、いましたか」
「何が?」
カクリが鋏を構えながら問う。
その瞬間。
棚の間から、白い服の影がぬっと現れた。
顔はない。
白衣の女たちと似ている。
けれど違う。
手に持っているのは、カルテの束ではなく、真っ黒なファイルだった。
「書かれない者」
白面の医師が静かに言う。
「記録庫の夜核です」
その存在は、顔のないままこちらへ一歩踏み出した。
「……名前を」
かすれた声。
「返して」
れいなが息を呑む。
「しゃべった……」
白面の医師は短く言った。
「触れないでください」
「それは、ここで消された患者の未練です」
「名前を返さないと」
「この病棟から出られなくなります」
姉が顔を上げる。
「名前……?」
その存在は、ゆっくり黒いファイルを開いた。
中は真っ白だった。
一文字もない。
空白。
だが、その空白から、無数の声が溢れる。
「まだ」
「書かれてない」
「名前がない」
「ここにいたのに」
「いなかった」
「いなかったのに」
「いた」
記録庫の棚が一斉に震え始めた。
カクリの背筋に冷たいものが走る。
この存在は、ただの怪異じゃない。
病院に消されたもの。
病院が見なかったことにしたもの。
その“空白”が、ここで形を持っている。
「……私」
姉が小さく言った。
「私、見たことある気がする」
全員が振り向く。
姉は真っ直ぐ、顔のない影を見ていた。
「病室で」
「眠ってる時」
「誰かが、ずっと書いてた」
「でも」
「途中で、やめた」
白面の医師が目を見開く。
「まさか……」
姉は頷く。
「うん」
「書きかけのまま」
「置いていかれた」
その一言で、空白の影がぴたりと止まった。
黒いファイルが、ぶるぶると揺れる。
「……かき」
「かきかけ」
「……まだ」
「終わってない」
白面の医師が低く息を吐く。
「やはり、あなたが記録を覚えていたのですね」
姉は少しだけ首を傾げる。
「私が?」
「はい」
「目覚めたあなたには、病棟の夜を見た記憶が残っている」
「だから、名前をつけ直せる」
空白の影が、こちらへ手を伸ばす。
だが、その動きはどこか怯えていた。
助けを求めるみたいに。
カクリが一歩出る。
「名前」
「……?」
「まだないなら」
「つければいい」
白面の医師が静かに頷いた。
「その通りです」
「あなたが見たままを言葉にしてください」
姉はしばらく黙った。
そして、黒いファイルを見つめながら。
ゆっくりと口を開く。
「……忘れられた患者」
その瞬間。
記録庫の棚が、静かに止まった。
ここまで読んでくれてありがとうございます。
次回もお楽しみに




