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幽世断ちのカクリ 〜宵町カクリは夜を歩く〜  作者: れんP


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第91夜 「戻るための一歩」


今日も少女は夜を歩く。


「では」


「この病室は」


「今日のところは」


「あなたのものです」


白面の医師の声が落ちた瞬間、病室の空気がふっと軽くなった。


さっきまで床を這っていた黒い線は消え。


扉の外にびっしりと張りついていた白衣の女たちも、どこか遠くへ引き剥がされたみたいに静かになる。


白い梟が窓の外で一度だけ羽を震わせた。


『病棟夜核、退避』


『一時停止』


その短い宣告に、冬華が安堵を滲ませる。


「……押し返せたのですね」


白面の医師は小さく頷いた。


「完全ではありません」


「ですが、今は止まっています」


姉はベッドの縁に腰を下ろし、まだ少し青白い顔のまま窓の外を見た。


夜。


病院の窓に映る夜は、深淵のそれとは違う。


けれど、どこか繋がっている。


「……まだ、いるの?」


姉の小さな声に、白面の医師は静かに答える。


「います」


「ですが、こちらへは来ません」


「今は」


「なぜ?」


姉が問い返す。


白面の医師はほんの少しだけ目を伏せた。


「あなたが」


「“帰る”と答えたからです」


その言葉に、カクリは姉の手元を見た。


細い指先が、布団をぎゅっと掴んでいる。


不安。


怖さ。


でも、それ以上に。


姉の瞳には、戻りたいという意思があった。


「帰るって……」


カクリが言いかけると、姉は首を横に振った。


「違うの」


「ここに、居続けるって意味じゃない」


「……?」


「夜を知ったままで」


「ちゃんと、朝へ戻る」


病室が静まる。


誰もすぐには言葉を返せない。


白面の医師は小さく笑った。


「正しい選び方です」


「ただし」


「簡単ではありません」


姉は真っ直ぐ彼を見た。


「どうすればいいの?」


「まず」


白面の医師は病室の窓を見た。


「その夜の記憶に、名前を与えることです」


「名前?」


「ええ」


「ただ見たものは、ただの影として残る」


「ですが」


「意味を持たせれば、境界は整います」


冬華がすぐに反応する。


「記憶の固定化……」


「はい」


「眠っていた時間に見たもの」


「今ここで得たもの」


「それらを自分のものとして受け入れる」


「そうしないと、また引きずられる」


姉は少しだけ唇を噛んだ。


「怖いのに?」


「怖いからこそです」


白面の医師は淡々と告げる。


「夜は逃げる者を追います」


「でも」


「向き合う者は嫌います」


「……」


その言葉に、カクリは鋏を持つ手を見下ろす。


ずっと、夜を追ってきた。


姉を襲った怪異を探すために。


怪異を倒すために。


だけど、姉は今、別の形で夜と向き合おうとしている。


姉はカクリの顔を見た。


「ねえ、カクリ」


「なに」


「私、全部はまだ思い出せない」


「うん」


「でも」


「夜の中で」


「あなたが来てくれたのは、覚えてる」


カクリは息を呑む。


姉は少し笑う。


「だから」


「怖くなかった」


「……」


「怖いのに、怖くなかった」


その一言で、カクリの胸の奥がきゅっと締まった。


れいなが目を潤ませる。


「姉妹って、いいね……」


断姫も小さく頷いた。


「うん……」


黄泉津大神は、どこか懐かしそうに姉を見る。


長女の母も、そっと目を伏せていた。


白面の医師は一歩引く。


「では、手続きをしましょう」


「手続き?」


「はい」


「病院に残るなら、残るための」


「戻るなら、戻るための」


「境界の通行証が必要です」


「そんなのがあるの?」


冬華が尋ねると、医師はすぐに答えた。


「ええ」


「病院には病院の規則があります」


「夜には夜の規則があります」


「そして」


「境目には、境目の約束がある」


その時。


扉の外から、こつん、と小さな音がした。


全員の視線が一斉にそちらへ向く。


もう一度。


こつん。


まるで、誰かが病室の扉を爪で叩いているみたいだった。


白面の医師の表情がわずかに引き締まる。


「……来ましたね」


『病棟夜核反応、再上昇』


白い梟の声が短く響く。


冬華が刀を抜く。


「今度は何ですか」


白面の医師は扉へ向かって一歩進んだ。


「規則違反者です」


「……」


「病院の夜を」


「勝手に書き換えようとする者」


こつん。


扉が、内側からゆっくり押される。


姉が思わず息を止める。


「カクリ……」


カクリは姉の前へ出た。


「大丈夫」


はっちゃんも低く唸る。


『さっきのは退けたが、今度は本命か』


白面の医師がカルテを一枚めくった。


「一度で済んでくれればよかったのですが」


「どうやら、向こうも諦めないようです」


その瞬間。


扉の隙間から、黒い髪が一本だけ差し込まれた。


それは髪というより、濡れた糸みたいに細い。


だが。


伸びてくる速度が異常に早い。


「っ!」


冬華が札を投げる。


「破!」


札が髪へ貼り付き、火花が散る。


しかし、髪は燃えなかった。


代わりに、札の方が黒く染まり、床に落ちて溶ける。


「なっ……!」


『呪い返しか』


はっちゃんが舌打ちする。


白面の医師が静かに言う。


「触れてはいけません」


「これは病棟の“記録糸”です」


「記録糸?」


「はい」


「触れた者の“ここに居た証”を抜き取る」


姉が青ざめる。


「それって……」


「病室にいたことを消す、ってこと?」


「ええ」


病室の扉の向こうで、無数の声が重なる。


「お帰りなさい」


「お帰りなさい」


「お帰りなさい」


その声は、さっきまでとは違った。


優しさがない。


感情がない。


ただ、持ち帰るためだけに繰り返している。


白面の医師がカルテを閉じる。


「もう、話は通じません」


「これは」


「回収です」


そう言った瞬間、医師の白衣が一瞬だけ夜色へ変わる。


深い深い、病院の夜の色。


そして彼は扉に向かって静かに手をかざした。


「境界封鎖」


病室の周囲に、薄い紙のような札が何枚も浮かび上がる。


それは冬華の札とは違う。


もっと古く。


もっと静かな封じ方だった。


「……これでしばらくは持ちます」


白面の医師が言う。


しかし、その声には限界がにじんでいた。


長くは保たない。


誰もが分かった。


すると、姉がベッドからゆっくり立ち上がる。


「私も」


全員が振り返る。


「私も、やる」


「え?」


姉は少し震えながらも、白面の医師を見る。


「名前をつけるの」


「夜に、帰るために」


「だったら」


「私の夜にも、名前が必要なんでしょう?」


白面の医師は静かに笑った。


「ええ」


「では」


「あなたが見たものに、名を」


姉は目を閉じる。


深く息を吸う。


病室の中に、ほんの一瞬だけ、夜の匂いが満ちた。


そして。


ゆっくりと目を開ける。


「……病室の夜」


そう呟いた。


「怖かった夜」


「でも」


「迎えに来てくれた夜」


「戻るって決めた夜」


その瞬間。


窓の外の白い梟が、再び短く鳴いた。


ホゥ。


病室の空気が、少しだけ軽くなる。


扉の向こうの足音が、初めて止まった。


こつん。


静寂。


やがて、扉の隙間から差し込んでいた黒い髪が、するすると引いていく。


回収の声も、消えた。


白面の医師は深く息を吐く。


「……一応、退きましたね」


冬華が構えを少し緩める。


「これで終わりですか」


医師は首を横に振る。


「いいえ」


「ただ、今夜の分は終わっただけです」


姉が小さく笑う。


「じゃあ」


「明日もあるんだ」


白面の医師は頷く。


「ええ」


「夜は、何度でも戻ってきますから」


その言葉に、カクリは姉の手を握り返した。


「でも」


「戻るの、怖くない?」


姉は少しだけ考えてから答える。


「怖いよ」


「でも」


「あなたがいるから」


その一言が、深淵まで届いた気がした。


白い梟は静かに目を閉じる。


『病棟夜域、安定』


『現実側との接続維持』


『次の干渉まで猶予あり』


そして。


病室の窓の外に広がる夜は、まだ静かに揺れていた。


だが、もうさっきまでの夜ではない。


姉が名前を与えた夜は。


帰るための夜へ、少しだけ変わっていた。

ここまで読んでくれてありがとうございます。

次回もお楽しみに

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