第89夜 「白面の医師」
今日も少女は夜を歩く。
顔が真っ白な医師。
その存在を見た瞬間、白衣の女たちがぴたりと動きを止めた。
病室に張り詰めていた異様な空気が、一度だけ揺らぐ。
「門外者」
その声は、廊下の白衣たちと同じだった。
けれど。
感情が違う。
怒りでも恐怖でもない。
ただ、静かな警戒。
白面の医師は、ゆっくりと病室の中へ足を踏み入れた。
その歩き方もまた、一定だった。
コツ。
コツ。
コツ。
だが、先ほどまでの“病棟に刻まれた足音”とは違う。
ひどく人間的だった。
「……間に合ったようですね」
低く、落ち着いた声。
冬華が刀を構えたまま尋ねる。
「あなたは誰です」
白面の医師は少しだけ首を傾げる。
「病院の医師です」
「そんなことは見れば分かります!」
れいなが叫ぶ。
「でも、どうして顔が……!」
「顔が白いからです」
「そういう意味じゃないよ!」
そのやり取りの間にも、白衣の女たちは後ずさるように廊下へ引いた。
まるで、白面の医師を恐れている。
あるいは。
嫌がっている。
白面の医師はそれに構わず、まっすぐ姉を見た。
「お目覚めですね」
姉は身を固くする。
「……あなた、誰」
「あなたが覚えているかもしれない相手です」
その答えは曖昧だった。
だが、姉の瞳がわずかに揺れる。
「……声」
「そうです」
白面の医師は頷く。
「ずっと、夢の中でお話ししていました」
「夢……」
カクリが小さく呟く。
少女が横から囁く。
「この人は」
「境界の向こうとこちらをつなぐ医者」
「医者?」
「うん」
「眠りと目覚めの間を診る」
その言葉に、白面の医師が少しだけ微笑む。
「説明が早いですね」
深淵の父が目を細めた。
「なるほど」
「あなたが」
「こちら側の管理者でしたか」
白面の医師は深く頭を下げた。
「管理者というほどではありません」
「ただの」
「居残りです」
黄泉津大神の兄が鎖を揺らす。
「居残り?」
「はい」
「病院に」
「境界に」
「取り残された者です」
その言葉を聞いた瞬間、病室の空気が少しだけ変わった。
敵意が消えたわけではない。
けれど。
何かが違う。
白衣の女たちもまた、白面の医師を見ながら苛立っているようだった。
まるで。
同じ病院にいるのに、別の立場の者たち。
「あなたが来たということは」
白面の医師が白衣の女たちを見やる。
「向こうが、かなり無理をしたのでしょう」
白衣の女の一人がゆっくり口を開く。
「患者を返せ」
その声は無機質だった。
白面の医師は首を横に振る。
「返したくても」
「今の彼女は、まだ“こちら”に留まれない」
姉がびくりとする。
「……留まれない?」
白面の医師は姉に目を向けた。
「あなたは今、目覚めたばかりです」
「眠りから起きたばかりの人間は」
「境界に最も弱い」
「このまま白衣たちに触れれば」
「再び眠りに落ちるでしょう」
「……!」
カクリが前に出る。
「じゃあ守って」
白面の医師は少しだけ目を見開く。
「守る?」
「うん」
「姉ちゃんを、ここに置いていかないで」
その言葉に。
白面の医師は、しばらく黙っていた。
そして。
静かに答える。
「それは」
「私の役目ではありません」
「え?」
「私ができるのは」
「境界を保つことだけ」
「選ぶのは」
「彼女自身です」
その瞬間、姉は息を呑んだ。
「私が……選ぶ?」
白面の医師は頷く。
「今のあなたは、扉の前に立っています」
「向こうへ戻るか」
「こちらへ残るか」
「あるいは」
「もっと別の場所へ行くか」
「それを決めるのは」
「あなたです」
白衣の女たちが一斉に動く。
「時間切れです」
「戻る」
「戻る」
「戻る」
声が重なる。
病室の床の黒い線が一気に広がった。
まるで、床全体が大きな扉になるみたいに。
れいなが悲鳴を上げる。
「わっ、床が……!」
冬華がすぐに結界札を投げる。
「止まれ!」
札が床に貼りつく。
バチィッと火花が走るが、黒い線は止まらない。
『まずい』
白い梟の声が現実と深淵の両方に響く。
『病棟複製体が分離不能段階へ移行』
『このままでは病室ごと引き戻される』
総長が歯を食いしばる。
「病室ごとじゃと!?」
白面の医師は静かに目を閉じた。
「……やはり、ここまででしたか」
白衣の女たちが近付く。
「患者を返せ」
「返せ」
「返せ」
しかしその時、姉がはっきりと言った。
「返さない」
全員が振り向く。
姉は震えていた。
けれど、目は逸らさない。
「私は」
「まだ」
「帰れない」
カクリが息を呑む。
「姉ちゃん?」
姉はカクリを見た。
「まだ、話してないから」
「え?」
「あなたに」
「ちゃんと」
「ごめんって」
涙が零れる。
「ずっと眠ってた」
「心配かけた」
「でも」
「まだ、終わってない」
姉はベッドを掴み、ゆっくりと立ち上がろうとする。
白面の医師はその姿を見て、少し目を細めた。
「……そうですか」
「なら」
彼は静かに病室の扉へ向き直る。
そして、白衣の女たちへ言った。
「この子はまだ返しません」
白衣の女たちがざわめく。
「門外者が」
「規則違反だ」
「患者は渡す」
白面の医師は、初めて冷たく笑った。
「規則?」
「この病棟の規則は」
「すでに壊れています」
その瞬間。
彼の手元から白い紙束が現れる。
カルテのようだった。
だが、普通ではない。
無数の名前。
無数の日付。
無数の“目覚めるはずだった患者”。
「境界記録」
冬華が驚く。
「あなた、記録を……」
白面の医師は頷く。
「私はここで、眠る者と目覚める者の記録を見ています」
「眠りすぎた者」
「戻ってはいけない者」
「戻るべきでない者」
「その全てを」
白衣の女たちが一斉に距離を取った。
その白い紙束が、ただの紙ではないことを悟ったのだろう。
白面の医師は紙束を一枚めくる。
「今夜は一人」
「病室の患者を」
「返すわけにはいきません」
「……あなた」
姉が彼を見つめる。
「私を、助けてくれるの?」
白面の医師は少しだけ笑った。
「助けるというより」
「選ばせる」
「それが医者です」
その言葉に。
姉は目を閉じる。
そして。
深く息を吸った。
「……じゃあ」
「私は」
「帰らない」
その一言が病室に落ちた瞬間。
白衣の女たちが、同時に身を震わせた。
「患者拒絶」
「患者拒絶」
「患者拒絶」
声が乱れ始める。
病棟の床の黒い線が波打つ。
白面の医師は、静かに紙束を閉じた。
「了解しました」
「それでは」
「ここから先は」
「病院ではなく」
「あなたの夜です」
彼がそう言った瞬間。
病室の窓の外で。
白い梟が大きく翼を広げた。
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