第87夜 「病棟を歩く者」
今日も少女は夜を歩く。
コツ……。
コツ……。
コツ……。
病棟の奥から響く足音が、暗闇を縫うように近付いてくる。
病室にいた全員が息を止めた。
少女の姉は、窓を見ていた顔をゆっくり扉へ向ける。
看護師は震える声で言う。
「だ、誰かいます……?」
医師は返事をしなかった。
できなかった。
廊下の照明は全て落ちている。
非常灯の赤だけが、細く細く床を染めていた。
コツ。
コツ。
足音は止まらない。
だが。
その歩き方に、妙な違和感がある。
一歩ごとに。
少しずつ。
床を踏む位置がずれている。
まるで人間ではない何かが、歩く真似をしているようだった。
病室の姉は、今度はほんの少しだけ眉をひそめる。
「……来てる」
その声に、看護師が怯えた顔をする。
「誰がですか……?」
姉は答えず、静かに目を閉じた。
深淵。
白い梟が羽を広げる。
『現実側侵入反応』
『個体識別不能』
篠崎冬華がすぐに札を握り直した。
「境界の外からですか?」
『否』
『病棟内生成』
その一言で、空気が変わる。
総長が眉をひそめる。
「中で生まれた、ということか」
深淵の父も静かに目を閉じた。
「……いえ」
「違います」
「これは」
「“入り込んだ”のではなく」
「最初からここへ向かっていた」
黄泉津大神の兄が鎖を鳴らす。
「何者だ」
梟は数秒沈黙したあと、短く答えた。
『境界逸脱個体』
『病棟観測体』
『病棟内残留呪気に反応』
『接近中』
れいなが青ざめる。
「病院に残ってる呪気……?」
「はい」
冬華が頷く。
「怪異が発生しやすい場所です」
少女の姉が小さく呟く。
「……病院って」
「そんなにたくさん」
「いたの?」
その問いに、誰も答えられない。
病院。
生死が近い場所。
別れと再会が重なる場所。
幽世からすれば、これ以上ないほど“境目”に近い。
そして。
境目は。
いつも狙われる。
コツ……。
足音が病室の前で止まった。
全員が身構える。
扉の向こう。
誰かが立っている。
けれど。
気配が薄い。
存在感が希薄すぎる。
そこにいるのに、いない。
その感覚だった。
やがて。
扉が、ゆっくりと押し開かれた。
ギィ……。
赤い非常灯に照らされて現れたのは。
白衣を着た女性だった。
看護師に似ている。
だが違う。
顔が見えない。
いや、顔はあるのに認識できない。
目を向けた瞬間だけ、視界から滑り落ちるように印象が消える。
「あ……」
看護師が後ずさる。
「そんな……」
女性は、まっすぐ姉を見る。
そして。
穏やかに笑った。
「お帰りなさい」
姉の瞳が揺れる。
「……」
「あなたは」
「……」
「お迎えに、来たの?」
その言葉に、医師が震えた声で叫ぶ。
「患者に近付かないでください!」
だが白衣の女は動じない。
ただ、静かに首を傾げた。
「患者?」
「違います」
「この子は」
「もう」
「ずっと前から」
「迷子でした」
その声に。
姉が小さく息を呑む。
深淵のカクリも同時に反応した。
「……迷子」
「うん」
白衣の女は頷く。
「ここは病棟」
「眠る子も」
「泣く子も」
「別れる子も」
「みんな」
「迷うところ」
「だから私は」
「迎えに来るの」
『……何者だ』
はっちゃんの声が低くなる。
白衣の女はゆっくりと窓の方へ視線を移した。
それから。
病室の空間を見渡す。
「夜を知る子がいる」
「……!」
冬華が反応した。
「見えているのですか」
女は微笑む。
「見えているのは」
「わたしじゃない」
「見ているのは」
「この病院そのもの」
その瞬間。
壁の向こうから、ざわり、と何かが蠢いた。
病室の外。
廊下。
天井。
床。
病棟全体が、ゆっくりと呼吸を始めたように揺れる。
コツ。
コツ。
コツ。
先ほどの足音が、ひとつではなかったと知れたのは、その時だった。
ひとつ。
二つ。
十。
二十。
病棟のあちこちで、無数の足音が鳴り始める。
「……っ!?」
「何です!?」
医師が青ざめる。
「誰がいるんですか!?」
白衣の女は答えず、ただ一歩後ろへ下がる。
その仕草はまるで、誰かを道へ通すようだった。
そして。
病室の扉の外から、別の声が聞こえる。
低い。
乾いた。
何度も何度も繰り返されたような声だった。
「見つけた」
その声に、姉の身体がびくりと震える。
「……いや」
「来ちゃだめ……」
カクリは病室の中から声を上げた。
「姉ちゃん!」
姉が顔を上げる。
その瞬間。
彼女の瞳に、深淵の景色が一瞬だけ重なった。
白い梟。
夜禍。
マヨイ。
黄泉津大神。
そして。
白衣の女。
姉は、何かを思い出しかける顔をする。
「……あ」
「この声……」
「昔……」
しかし。
思い出すより先に。
病棟の廊下で、ガラスが割れる音が響いた。
パリン!
非常灯が揺れる。
赤い光の中を。
何かが這ってくる。
白衣の女が静かに呟く。
「来た」
「ここから先は」
「病院のものじゃない」
『接触対象更新』
『侵入者検知』
白い梟が告げる。
『病棟外縁に夜核反応』
『複数』
冬華が歯を食いしばる。
「複数……?」
「またですか」
すると。
深淵の父が目を開いた。
「いえ」
「これは」
「夜核ではありません」
「……?」
「“迎え”です」
総長が顔をしかめる。
「迎え?」
深淵の父は病院の方を見つめる。
「境界を渡る者を」
「回収するためのもの」
白衣の女はその言葉に、ほんの少しだけ笑った。
「やっと」
「分かってくれましたか」
そして。
病棟の奥から。
今度は別の足音が鳴る。
コツ。
コツ。
コツ。
一歩ごとに重くなるそれは。
最初のものより、ずっと近い。
ずっと明確だった。
そして最後に。
病院の廊下の闇から。
白衣の女と同じ顔をした者が。
もう一人。
現れた。
ここまで読んでくれてありがとうございます。
次回もお楽しみに




