第86夜 「病室に忍ぶ影」
今日も少女は夜を歩く。
現実世界。
静まり返った病院の一室。
篠崎カクリの姉が、長い眠りから目覚めて間もない病室だった。
「……カクリ」
妹の名を呼んだ直後。
窓ガラスへ。
黒い手形が一つ浮かび上がった。
ベタリ。
まるで濡れた掌を押し付けたような跡。
「……?」
担当医が振り返る。
「誰か外にいるのか?」
ここは病院の六階。
窓の外には足場など存在しない。
看護師が恐る恐る近付く。
「おかしい……」
その瞬間だった。
ベタリ。
二つ目。
三つ目。
四つ目。
黒い手形が次々と増えていく。
「きゃっ!」
看護師が後ずさる。
「先生!」
医師も顔色を変えた。
「患者さんを離して!」
しかし。
カクリの姉は。
窓を見つめたまま呟く。
「……迎えに来た」
その声は。
どこか懐かしい相手を見つけたようだった。
「駄目!」
看護師が少女の肩を支える。
「窓を見ちゃいけません!」
少女は首を横に振った。
「違う」
「悪い子じゃない」
その言葉と同時に。
コンコン。
窓が二度鳴った。
誰かが。
外からノックしている。
六階の窓を。
医師の背中に冷たい汗が流れる。
「あり得ない……」
深淵。
カクリも同じ音を聞いていた。
コン。
コン。
少女が空を見上げる。
「繋がってる」
白い梟も病室の方角を見る。
『観測継続』
『現実側接触反応確認』
黄泉津大神が眉をひそめる。
「敵ですか」
梟は静かに首を横へ振った。
『未判定』
『危険性不明』
深淵の父が考え込む。
「この反応は……」
「怪異ではありません」
「え?」
れいなが驚く。
「怪異じゃないの?」
「はい」
「生者でもありません」
夜禍が青ざめる。
「じゃあ何なの?」
深淵の父はゆっくり答えた。
「境界の住人です」
その頃。
病室。
コン。
コン。
コン。
窓を叩く音が続く。
カクリの姉はゆっくりとベッドから降りようとした。
「篠崎さん!」
看護師が止める。
「まだ安静に!」
少女は静かに微笑む。
「大丈夫」
「開けるだけだから」
「開けちゃ駄目です!」
担当医が叫ぶ。
その時。
ガチャリ。
病室の扉が開いた。
「失礼します」
一人の老人が入ってくる。
白髪。
深い皺。
病院の職員には見えない。
スーツ姿でもない。
黒い和服を身に纏い。
一本の木の杖を持っていた。
「どなたですか!」
医師が問い掛ける。
老人は軽く頭を下げた。
「通りすがりです」
「いや通れませんよ!」
「六階ですし」
老人は困ったように笑う。
「確かに」
「少し無理がありますな」
そう言って。
少女を見る。
「ようやく」
「目覚められましたか」
少女は老人を知っているような顔をした。
「……あなた」
「夢の中の」
老人は静かに頷く。
「ええ」
「何度か」
「お会いしました」
医師も看護師も理解できない。
しかし。
老人と少女だけは自然に会話していた。
老人は窓へ近付く。
黒い手形を見つめ。
静かに杖でガラスを一度叩いた。
コツン。
その瞬間。
ベタリと張り付いていた黒い手形が。
ゆっくりと消えていく。
まるで霧が晴れるように。
「消えた……!」
看護師が息を呑む。
老人は穏やかに笑った。
「まだ」
「こちらへ来る時間ではありません」
窓の外から。
小さなため息が聞こえた。
それだけだった。
気配は消える。
深淵。
白い梟が静かに羽を閉じた。
『接触終了』
『境界維持成功』
少女はほっと息を吐く。
「間に合った」
カクリが尋ねる。
「誰?」
少女は少し考えた。
「門番」
「門番?」
「夜と朝」
「夢と現実」
「生と死」
「その境界を」
「ずっと見てる人」
黄泉津大神が目を細める。
「まだ現役でしたか」
深淵の父も小さく笑う。
「ええ」
「昔から」
「変わりません」
しかし。
白い梟は。
その場から動かなかった。
『警告』
全員が梟を見る。
『第二反応接近』
『距離』
『三百』
『二百』
『百』
深淵全体が静まり返る。
「今度は?」
冬華が問い掛ける。
梟は短く告げた。
『怪異』
その直後。
現実世界。
病院の廊下の照明が。
一斉に消えた。
真っ暗になった病棟の奥から。
コツ……。
コツ……。
コツ……。
誰かの足音だけが。
ゆっくりと病室へ近付いてきていた。
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次回もお楽しみに




