第85夜 「眠り姫の記憶」
今日も少女は夜を歩く。
白い梟は静かに宙へ浮かんでいた。
純白の翼がゆっくりと広がる。
一枚。
また一枚。
羽根が舞い落ちるたびに。
崩れかけていた深淵は少しずつ静けさを取り戻していく。
「……綺麗」
れいなが思わず呟いた。
夜禍も目を輝かせる。
「雪みたい!」
マヨイが羽根を掴もうと手を伸ばく。
しかし。
指先は羽根をすり抜けた。
「触れない……」
少女は微笑んだ。
「記憶だから」
「え?」
「この羽根は」
「夜が見てきた記憶」
「形があるようで」
「本当はない」
白い梟は静かにカクリを見つめている。
まるで。
何かを待っているようだった。
一方その頃。
現実世界。
病室。
「篠崎さん」
「聞こえますか?」
担当医がゆっくり問いかける。
少女はベッドの上で天井を見つめていた。
その瞳は目覚めている。
しかし。
焦点はここにはない。
「……」
「ここじゃない」
医師が顔を見合わせる。
「どこが見えますか?」
少女は小さく息を吸う。
「夜」
「黒い海」
「白い鳥」
「女の子」
「泣いてる男の子」
「知らない人」
「知らない神様」
「全部……」
「見える」
その瞬間。
病室の照明が一瞬だけ明滅した。
ピシッ。
窓ガラスに細かな霜が広がる。
「なっ……」
看護師が驚く。
室温は変わっていない。
それなのに。
部屋だけが。
夜に飲み込まれたような冷たさに包まれた。
深淵。
カクリがゆっくり目を閉じた。
「……」
「聞こえる」
冬華が振り向く。
「何が?」
「お姉ちゃん」
「泣いてる」
少女が静かに頷く。
「繋がった」
「完全に」
深淵の父は険しい表情になる。
「予想以上です」
黄泉津大神も不安そうに空を見上げた。
「お父様」
「このままでは」
「ええ」
「現実と深淵の境界が」
「双方向になります」
総長が目を見開く。
「双方向……?」
「つまり」
冬華が青ざめる。
「怪異が現実へ行くだけじゃない」
「人間も」
「深淵に引き込まれる」
その言葉に。
れいなの表情が強張る。
「そんな……」
顔のない少年は静かに笑った。
「だから言ったでしょ」
「もう始まってるって」
「でも」
「まだ止められる」
深淵の父が少年を見る。
「何を望む」
少年は少し考えた。
そして。
静かに答える。
「一人」
「救ってほしい」
「……?」
「誰を」
「僕を」
静寂。
誰も言葉を発しなかった。
青年の中の魂たちも。
長女も。
黄泉津大神も。
黙ったままだった。
少年は続ける。
「僕は」
「夜じゃない」
「でも」
「夜になってしまった」
「戻り方が」
「分からない」
その声は。
今までで一番。
人間らしかった。
カクリは少年の前まで歩いていく。
はっちゃんが慌てる。
『おい!』
『近付くな!』
しかし。
カクリは止まらない。
少年の目の前まで来ると。
じっと見上げた。
「帰りたい?」
「……うん」
「家に?」
「うん」
「家族に?」
少年はゆっくり頷いた。
「でも」
「帰れない」
「もう」
「僕の居場所はない」
カクリは少しだけ考えた。
「じゃあ」
「作ろう」
少年が目を瞬かせる。
「え?」
「帰れないなら」
「新しい場所」
「作ればいい」
「……」
「一人じゃ」
「作れない」
「だから」
「みんなで」
その言葉に。
青年の身体から現れていた無数の魂たちが。
少しずつ泣き止んでいく。
「みんなで……」
「帰る……」
「帰れる……?」
長女の母は涙を流していた。
「この子は……」
「本当に」
「変わらない」
深淵の父も静かに目を閉じる。
「……そうですね」
「だからこそ」
「夜は」
「この子を選ばなかった」
「?」
れいなが聞き返す。
「選ばなかった?」
「夜は」
「この子に」
「選ばれたのです」
その瞬間。
白い梟が。
大きく翼を広げた。
純白の光が。
深淵全体へ広がっていく。
そして。
現実世界。
病室で。
カクリの姉は。
ゆっくりと涙を流した。
「……カクリ」
初めて。
妹の名前を呼んだ。
その声は。
深淵にいたカクリの耳にも。
確かに届いた。
「お姉ちゃん」
カクリが顔を上げる。
しかし。
その直後。
病室の窓ガラスに。
黒い手形が。
一つ。
また一つ。
静かに浮かび始めた。
ここまで読んでくれてありがとうございます。
次回もお楽しみに




