第76夜 「深淵の父」
今日も少女は夜を歩く。
「……お父さん」
その一言。
それだけで。
空気が凍った。
黒い笑顔。
先ほどまでどこか幼いような雰囲気だったそれが。
今は。
震えていた。
「……」
「起きた」
「お父さん」
「起きた」
「怒る」
「怒られる」
「嫌」
「怖い」
その声には。
先程までの不気味さはなかった。
まるで。
親に叱られることを恐れる子供。
「お父さん?」
れいなが目を丸くする。
「怪異のお父さん?」
断姫も困惑する。
「怪異ってお父さんいるの?」
はっちゃんは顔をしかめる。
『知らねぇ』
『だが』
『あの笑顔』
『本気でビビってやがる』
そして。
闇の最奥。
開いた巨大な目。
その目は。
静かに。
ただ静かに。
こちらを見ていた。
敵意はない。
殺意もない。
怒りすらない。
それなのに。
存在するだけで。
最深層そのものが軋む。
冬華の額から汗が流れた。
「……なんて圧力」
総長も顔をしかめる。
「立っておるだけで限界じゃ」
夜禍が黄泉津大神にしがみつく。
「お母さん……」
「大丈夫」
「大丈夫よ」
そう答える黄泉津大神自身の声も震えていた。
「兄さん」
「まさか」
「まだ」
鎖の存在。
黄泉津大神の兄は。
黄金の瞳を細めた。
「当然だ」
「死ぬような存在ではない」
「……そう」
「兄さんも」
「お父様も」
「変わらないのね」
「いや」
「私は変わった」
「……?」
「お前も」
「変わった」
その時。
巨大な目が。
ゆっくりと瞬きをした。
ドクン。
全員の心臓が跳ねた。
そして。
声。
男でもない。
女でもない。
老人でも子供でもない。
世界そのものが喋っているような。
そんな声。
「……静かにしなさい」
「!」
黒い笑顔が縮こまる。
「ご、ごめんなさい」
「騒ぎすぎです」
「はい……」
全員。
固まった。
『……おい』
はっちゃんが呆然とする。
『叱られた犬みてぇになってるぞ』
「怖い……」
れいなが小さく呟く。
しかし。
巨大な目は。
黒い笑顔から。
ゆっくりと視線を外した。
そして。
長女。
錆びた釘に貫かれた少女を見る。
「まだ」
「無茶をしていますね」
少女は申し訳なさそうに笑う。
「ごめんなさい」
「困ってる子だったから」
「そうですか」
「なら仕方ありません」
「……」
「でも」
「痛いでしょう」
「少しだけ」
「嘘ですね」
「はい」
少女は苦笑した。
黄泉津大神は。
涙を流していた。
「……お父様」
「久しぶりです」
巨大な目。
いや。
深淵の父。
そう呼ぶべき存在は。
静かに黄泉津大神を見る。
「黄泉」
「泣き虫ですね」
「……っ」
「昔から変わりません」
「お父様……」
夜禍とマヨイが目を丸くした。
「おじいちゃん?」
「おじいちゃん?」
深淵の父は。
しばらく沈黙した。
「……」
「そうなりますか」
「難しいですね」
そして。
ほんの少しだけ。
優しい気配が広がる。
「大きくなりました」
「……!」
夜禍が驚く。
「知ってるの!?」
「当然です」
「家族ですから」
その言葉に。
夜禍の目から涙が零れた。
「おじいちゃん!」
「はい」
「よく頑張りました」
「えへへ」
マヨイも笑顔になる。
「僕も?」
「もちろんです」
「やった!」
断姫も目を輝かせる。
「私は!?」
「いい子です」
「えへへ!」
れいなも慌てて手を挙げた。
「わ、私は!?」
「元気ですね」
「えへへへ!」
総長は頭を掻く。
「なんじゃこの空気は……」
冬華も呆然としていた。
「緊張感が……」
『おい』
はっちゃんが眉をひそめる。
『なんなんだよこの爺さん』
すると。
巨大な目が。
はっちゃんを見た。
「ハサミの神」
『あ?』
「元気そうですね」
『知ってんのか!?』
「昔」
「泣きながら黄泉の後ろに隠れていましたね」
『なっ!?』
全員が振り向く。
『ち、違う!』
『あれはガキだったんだ!』
「ふふ」
初めて。
深淵の父が笑った。
その笑みに。
誰も恐怖を感じなかった。
だが。
カクリだけは。
別の方向を見ていた。
「……」
「どうした?」
はっちゃんが聞く。
カクリは。
さらに奥。
深淵の底よりも。
もっと下。
誰も見ていない場所を見つめていた。
「まだいる」
「?」
「誰か」
その瞬間。
深淵の父の笑顔が消えた。
黄金の瞳が細くなる。
「……」
黄泉津大神の兄も。
表情を変える。
「まさか」
そして。
深淵のさらに下。
本当に。
誰も知らない場所で。
何かが。
ゆっくりと。
目を開いた。
「やっと」
「見つけた」
その声を聞いた瞬間。
深淵の父が。
初めて。
怒りの気配を放った。
「……お前か」
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