第54夜 「入口の記憶」
今日も少女は夜を歩く。
「帰ろう」
山そのものがそう言った瞬間、空気がひっくり返った。
宵町カクリの視界が歪む。
地面が遠ざかり、空が近づく。
いや違う。
上下の感覚が崩れている。
怪物の千の目が一斉に収束し、カクリを“見た”のではなく、“認識した”。
ギョロリ。
世界が揺れる。
「カクリ!!」
はっちゃんの声が遠い。
『意識保て!!』
しかし声は途切れ途切れになる。
霊能者達の叫びも、冬華の指示も、すべて遠くの雑音に変わっていく。
その中で、姉の声だけが異様に鮮明だった。
「……来ちゃだめ」
宵町ユズキの声。
優しい。
苦しい。
「戻れなくなるから」
カクリは歯を食いしばる。
「戻る!!」
叫びは届いているのか分からない。
それでも叫ぶしかなかった。
その瞬間。
世界が一枚剥がれた。
◇
気付くと、カクリは立っていた。
森でもない。
村でもない。
夜哭山でもない。
そこは。
廃れた神社のような場所だった。
だが違う。
もっと古い。
もっと歪んでいる。
鳥居が無数に折れ曲がり、空間に突き刺さっている。
石段は途中で途切れ、空中へ続いている。
「……ここ」
カクリは周囲を見渡す。
はっちゃんの気配が薄い。
『カクリ……聞こえるか』
遠い声。
「はっちゃん!」
『完全には繋がってねぇ……だが場所は分かる……そこは……』
ノイズ。
途切れる。
「はっちゃん!?」
返事はない。
代わりに。
足音。
コツ。
コツ。
後ろから。
カクリは振り向く。
そこにいたのは白い少女だった。
「やっと」
少女は息を吐く。
「ここまで来た」
「ここはどこ」
少女は少しだけ悲しそうに笑う。
「入口」
「入口?」
「帰るための」
少女は鳥居を見上げる。
そこには“門”のようなものがあった。
空間に裂けた巨大な穴。
その向こう側は見えない。
ただ黒い。
だが時折、無数の目が瞬いている。
カクリは息を呑む。
「これが……」
少女は頷く。
「全部の始まり」
「姉ちゃんは?」
少女は目を伏せる。
「中」
短い言葉。
だが重い。
カクリは拳を握る。
「助ける」
即答だった。
少女は首を横に振る。
「今行ったら」
「戻れない」
「それでもいい」
少女は驚いたようにカクリを見る。
「どうして」
「姉ちゃんだから」
その言葉に、少女は少しだけ目を細めた。
「……そっか」
そして。
ゆっくりと手を伸ばす。
「じゃあ」
「これを」
少女の手の中に、小さな鈴があった。
錆びた鈴。
しかし妙に存在感がある。
「何これ」
「“繋ぎ”」
少女は言う。
「入口を通るための」
「でも一回しか使えない」
カクリは鈴を握る。
冷たい。
だが確かに“何か”が通っている感覚がある。
その時。
空間が揺れた。
ゴォォォォォ……
遠くから咆哮。
怪物の声。
少女の顔が強張る。
「来る」
「何が」
少女は答えない。
ただ空を見上げる。
鳥居の向こう。
黒い裂け目が広がる。
そして。
そこから“目”が覗いた。
ギョロリ。
一つではない。
数十。
数百。
世界そのものがこちらを見ている。
『カクリ!!』
かすかに声。
はっちゃんの声だ。
「はっちゃん!」
『そこは“内側”だ!!』
「内側?」
『怪異の内部じゃねぇ……もっと深い!!』
少女が震える。
「間に合わない……」
「まだ」
カクリは鈴を握りしめる。
「間に合う」
その瞬間。
鈴が鳴った。
チリン。
澄んだ音。
空間が一瞬だけ静止する。
目が止まる。
裂け目が揺れる。
少女が驚く。
「それ……」
「動いた」
カクリは走り出す。
鳥居へ向かって。
少女が叫ぶ。
「待って!!」
しかし止まらない。
一歩踏み込んだ瞬間。
世界が割れた。
◇
再び。
音が戻る。
叫び。
爆発音。
霊力の衝突。
現実の戦場。
夜哭山の麓。
怪物の足元。
カクリは戻っていた。
だが景色は変わっている。
霊能者達の結界は半壊。
地面はひび割れ、森は焼け焦げている。
そして。
怪物の千の目がさらに開いていた。
「戻った……!」
冬華が叫ぶ。
「どこに行っていたのですか!」
カクリは答えない。
ただ怪物を見上げる。
「姉ちゃんは中だ」
冬華が息を呑む。
「やはり……」
その時。
怪物の中心。
ユズキの声が再び響いた。
「カクリ……」
「来ないで」
「お願い……」
だが今度は違った。
その声の奥に。
もう一つの声が混じっていた。
低い。
重い。
無数の声。
「帰れ」
「帰れ」
「帰れ」
怪物が動く。
腕が広がる。
世界が飲み込まれていく。
白い少女が叫ぶ。
「もうすぐ“完全に閉じる”!!」
「閉じる?」
「入口が!!」
その瞬間。
カクリの手の中の鈴が再び鳴った。
チリン。
そして。
姉の声がはっきり聞こえた。
「カクリ」
「信じて」
その言葉と同時。
怪物の中心で。
何かが“割れた”。
ここまで読んでくれてありがとうございます。
次回もお楽しみに




