第129夜 「門をくぐる者」
今日も少女は夜を歩く。
「では」
「通してください」
知らない声が、校門の向こうから静かに返ってきた。
その一言で、赤い灯りがひときわ強く瞬く。
ピッ。
鉄の門が、ぎぎ……と低い音を立てて開いていく。
門の内側と外側。
どちらにも夜があるようで、どちらも少しずつ違って見えた。
内側は校舎の影。
外側は、どこまでも続く黒。
けれど、その境目に立つと、空気の重さが変わる。
白石さやは記録帳を抱きしめたまま、門の先を見つめた。
「……通してください」
もう一度、あの声。
今度ははっきりと、門の向こうから届く。
すると、門番の影が少しだけ退いた。
顔のないまま、まるで道を譲るみたいに。
『名を持つ者は、前へ』
白い梟が短く鳴く。
『最終門、開放中』
『声標回収、最終段階』
冬華が静かに一歩前へ出る。
「……本当に、これで終わるのでしょうか」
総長が腕を組んだまま、低く笑った。
「終わるかどうかは、入ってからじゃろ」
「けれど」
「ここまで来たら、行くしかあるまい」
ユイがそっと白石さやの手を握る。
「一緒に行くよ」
「うん」
ひびきも名札を胸に押さえた。
「ぼくも」
みちびきは門の石柱のそばに立ったまま、じっと門の向こうを見ていた。
「……ここ」
「ぼくは、行けない」
カクリがその顔を見た。
「どうして」
みちびきは少しだけ笑った。
「ぼくは」
「門の外に出たら」
「声標じゃなくなる」
「……」
「でも」
「ここでなら」
「待てる」
その言葉に、白石さやの胸がきゅっと痛む。
待つ。
名前を呼ばれるまで。
返されるまで。
ひとりでずっと、ここに残る。
そんな役目が、まだあるのかと思うと、息が詰まりそうになる。
白石さやは記録帳を開いた。
最後のページは、今までと違っていた。
『門をくぐる者は、ひとりではない』
『名を返した者が、道を開く』
『最後のひとりが待つ場所で、声は通る』
その文を読むと、紙の上に、まだ書かれていない空白がひとつだけ残っている。
白石さやは、その空白を見つめた。
「……まだ、ある」
冬華が目を細める。
「何がですか」
「わたしの」
「名前の続き」
その言葉に、ひびきがはっとする。
「続き……」
白石さやは小さくうなずいた。
「保健室で半分」
「音楽室で眠り」
「放送室で声」
「校庭で遊び」
「校門で出口」
「全部、集まってるのに」
「まだ」
「ひとつだけ足りない」
総長が低く唸る。
「それが門の向こうにある、というわけか」
白石さやは、うなずいた。
その時だった。
門の外の黒い空に、細い白い線が一本走った。
紙を切るような音。
すっと空が裂け、そこからひらりと一枚の札が落ちる。
『名を通せ』
白石さやがそれを拾った。
札の裏には、かすれた字で一文。
『次の名を呼べ』
カクリの目が鋭くなる。
「……次の?」
白い梟が静かに答える。
『通過条件、未確定』
『名前の続きを呼ぶこと』
『さもなくば、門は閉じる』
白石さやの心臓が大きく跳ねた。
「次の名前……」
ひびきが顔を上げる。
「だれ?」
誰も答えられない。
けれど、門の向こうで、ひとつだけ声がした。
とても小さい。
子供みたいで。
でも、どこか遠い。
『……こっち』
その声で、みちびきが目を見開く。
「……いる」
「まだ」
「向こうに」
門の外の闇。
そこに、赤い灯りがもう一つ浮かんだ。
今度の灯りは、ゆっくり揺れている。
まるで、誰かが抱えて歩いているみたいに。
白石さやは一歩踏み出した。
門をくぐる前に、もう一度、記録帳を見る。
最後の空白。
そこに浮かぶ文字は、まだ途中だった。
『白石さや』
『つづき』
『……』
「……わたし」
「まだ、途中だ」
その一言に、門番の影が微かに揺れた。
そして。
門の向こうから、知らない声が返る。
『なら』
『書き足してください』
その瞬間、白石さやの記録帳が、ぱらりとひとりでに開いた。
ページの最後。
空白だった場所に、ゆっくりと一文字ずつ浮かび上がる。
『渡』
『す』
『者』
白石さやの目が見開かれる。
「……渡す者」
冬華が息を呑む。
「それが、あなたの続き、ですか」
白石さやは、その三文字を見つめたまま、胸の奥が熱くなるのを感じた。
保健室で預かった眠り。
音楽室で戻した歌。
放送室で拾った声。
校庭で返した鬼。
校門で通す名。
その全部を、渡す。
誰かに。
次へ。
夜が、そう呼んでいる。
白石さやは、門の向こうを見た。
黒い空の奥で、赤い灯りがゆっくりと近づいてくる。
その灯りを抱えているのは、やっぱり子供だった。
白い服。
白い髪飾り。
だが今度は、顔が見える。
見えるのに、見覚えがない。
けれどその瞳だけは、ひどく懐かしい。
その子供は、門の前で立ち止まり、静かに言った。
『渡してください』
『あなたの続きと』
『わたしの名前を』
白石さやは息を止めた。
その声は、記録帳の中の空白とぴたりと重なっていた。
白い梟が、屋根の上で低く鳴く。
『続きの受け渡し、確認』
『最終名標、接触』
『注意』
門番が少しだけ頭を下げる。
『名を持つ者よ』
『入るなら、ここで選べ』
白石さやは、記録帳を胸に当てたまま、赤い灯りの子供を見つめた。
ここで選べ。
進むか。
返すか。
終わらせるか。
その先にあるものが何であれ。
もう、引き返すことはできない。
ユイが静かに手を握る。
ひびきが息を吸う。
みちびきは、門の外で小さく頷いた。
白石さやは、深く一度だけ息を吸って。
そして、赤い灯りの子供へ、はっきりと声を投げた。
「……わたしの続きは」
その一言で、門の向こうの空気が、ぴたりと止まった。
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