第123夜 「続きの返却」
今日も少女は夜を歩く。
『白石さやさん』
『あなたの“続きを”』
『返しに来ました』
赤いスピーカーから流れたその声で、屋上へ続く鉄の扉がぎぃ、とさらに開いた。
風ではない風が吹き込む。
屋上のはずなのに、空の匂いがしない。
代わりに、古い電気機器の熱と、紙の焦げるような匂いが混じっていた。
白石さやは記録帳を抱えたまま、その声を見上げる。
「……続き」
喉の奥で、その言葉を繰り返す。
胸が痛い。
記録帳の中に何が残っているのか、まだ全部はわからない。
でも、今、必要なのはその意味だった。
白い子供――音無ひびきが、小さく震える。
「……やっぱり」
「こいつ」
「ぼくの声を」
「持ってる」
総長が屋上の入口を睨んだ。
「声を持つ、じゃと?」
冬華が静かに補う。
「名前だけではなく」
「発した言葉の続きを、ということですか」
赤いスピーカーの声は、返事をしない。
その代わり、扉の向こうの影が一歩踏み込んだ。
全身が黒いわけではない。
制服のようなものを着ているのに、輪郭だけが機械みたいに直線的で、顔の中央にはスピーカーの網目のようなものが貼りついている。
人に見える。
けれど、人ではない。
白い梟が低く鳴いた。
『声標管理体』
『最終回収対象』
『音声権限、上位』
「声標……」
白石さやが、記録帳をぎゅっと握った。
ひびきが屋上の床に足をつけるのをためらっている。
「……ぼく」
「ここ、嫌い」
「なんで」
ユイが尋ねると、ひびきは視線を落とした。
「声が、全部」
「吸われるから」
「ぼくが呼んでも」
「空っぽになる」
その言葉に、白石さやの胸がひどく締まる。
「吸われる……」
声標管理体は、無機質な声で言った。
『放送委員音無ひびき』
『記録逸脱を確認』
『校内放送の主導権を返却してください』
ひびきの顔が強ばる。
「ちがう」
「返さない」
「だって」
「返したら」
「みんなの声が、また消える」
その瞬間、屋上の床に埋め込まれたスピーカーがひとつ、ぶつりと鳴った。
ザ……。
雑音。
それから、懐かしい朝の放送みたいな音声が流れ始める。
『おはようございます』
『本日の給食は』
一瞬だけ普通に聞こえた放送は、すぐに途切れた。
そして。
『白石さやさん』
『続きは、まだです』
白石さやがはっと顔を上げる。
「……わたしの名前」
『続きは、まだです』
同じ声。
今度は、ゆっくり、引き延ばすように。
『白石さやさん』
『あなたは、半分のままです』
胸に冷たいものが走る。
記録帳が、ずしりと重くなる。
冬華がすぐに身構えた。
「挑発しているのですか」
『確認しています』
声標管理体は平然と答える。
『名は、ひとつであるべきです』
『半分は未完』
『未完は回収対象』
白い子供――ひびきが、ぎゅっと拳を握る。
「ぼくの」
「さやちゃんの」
「半分じゃない」
「ちゃんと」
「続いてる」
カクリは鋏を握ったまま、屋上の中央にある門のような枠を見た。
それは鉄骨で組まれた古いアンテナ台だ。
けれど、真ん中だけ空洞になっている。
そこへ、黒いケーブルが何本も絡みつき、見えない何かを映し出そうとしている。
「……あれが」
「声の出口か」
声標管理体は、うっすらと頭を傾ける。
『正確には』
『校内放送の終端です』
『ここから出る声は、学校に残ります』
『残った声は、回収されます』
『回収された声は、整えられます』
『整えられた声だけが』
『正しい名前を残す』
その説明を聞いて、総長が鼻を鳴らした。
「つまり」
「余計な声は消す、というわけか」
『はい』
あまりにも平然とした返事だった。
ひびきが一歩前に出る。
「だから」
「ぼくの名前も」
「途中で消えた」
『音無ひびき』
『放送委員としての役割は終了しています』
『声標は返却してください』
ひびきが震えながら笑う。
「役割?」
「ちがう」
「ぼくは」
「ぼくの声を、学校に置いてただけ」
「みんなの名前を」
「呼びたかっただけ」
白石さやは、その言葉を聞いてはっとした。
記録帳のページが、じわりと熱を持つ。
ページの端に、薄く文字が浮かぶ。
『呼びたい』
『呼ばれたい』
『つづきたい』
それは自分の言葉ではない。
けれど、自分の中に確かにある感情だった。
誰かの名前を呼ぶこと。
呼ばれること。
そして、その先へ続くこと。
白石さやは、記録帳を開いた。
そこに記されていたのは、さっきまで見えなかった行だった。
『白石さや』
『さや』
『続き』
『続き』
『つづき』
「……これ」
「わたしの名前のあとに」
「続きがある」
白い梟が翼を広げる。
『未完文、残存』
『補完可能』
冬華が鋭く言う。
「つまり、彼女の名はまだ終わっていない」
声標管理体は、赤いスピーカーの顔でこちらを見た。
『未完は危険です』
『続きは、不要です』
『校内放送は、完了しているべきでした』
その時だった。
屋上の端に並んでいたスピーカーが、一斉に鳴り始める。
ザザ……。
『白石さん』
『返してください』
『こっちに来て』
『続きは、いらない』
声が重なる。
それは全部、誰かがかつて聞いたことのある声だった。
放送委員の声。
朝礼の声。
先生の声。
生徒たちの声。
そして、そのどれもが、同じ言葉を繰り返す。
「返して」
「返して」
「返して」
白石さやは、その音に揺さぶられながらも、記録帳を開いたまま立っていた。
「……返す?」
「何を」
声標管理体は、ひたりと動きを止める。
『声です』
『名前です』
『続きを、戻してください』
ひびきが小さく叫ぶ。
「だめ!」
「返したら」
「この学校」
「また」
「声がなくなる!」
カクリがひびきの前に立つ。
「じゃあ」
「返さない」
短く、はっきり言った。
声標管理体は、まるで感情を持たないまま少しだけ沈黙し、それから淡々と告げる。
『では』
『未完名は回収します』
『白石さや』
『続きのページを』
『差し出してください』
白石さやが記録帳を抱え直した。
その瞬間、記録帳の奥のページから、ひとつの声が漏れる。
小さい。
震えている。
けれど、確かに誰かの声だ。
『……やっと』
『見つけた』
全員が息を呑む。
白いスピーカーの影が、その声に反応してふるりと揺れた。
ひびきが目を見開く。
「……この声」
「知ってる」
『白石さや』
記録帳が、ひとりでにページをめくる。
風もないのに。
ぺらり。
ぺらり。
そして最後の白紙に、薄く一行が浮かんだ。
『続きを呼ぶ者へ』
『次の声標を、屋上から渡せ』
白石さやが、その一文を見つめる。
「次の……声標」
屋上の門が、きしりと開いた。
その向こうに、夜のように黒い空がある。
けれど。
空の中に、赤い点がひとつ。
二つ。
三つ。
まるで、もっと別の声が待っているみたいに。
ここまで読んでくれてありがとうございます。
次回もお楽しみに




