第121夜 「放送委員の声」
今日も少女は夜を歩く。
放送室の扉を押し開けた瞬間、冷たい空気と、古い埃の匂いが流れ出した。
教室や保健室とは違う。
ここは音のための部屋だった。
窓際に据えられた古いマイク。
押し込まれたままのテープレコーダー。
何本も束ねられたコード。
そして、壁いっぱいに貼られた「朝の放送予定表」。
そのどれもが、長いあいだ誰にも触れられていないのに、きちんと整っていた。
まるで。
誰かが今も、毎朝ここに来ているみたいに。
白石さやは、思わず息を止めた。
「……ここ」
「うん」
眠っていた方の白石さやも、目を丸くする。
「知ってる」
「わたし、ここで……」
言いかけて、言葉が途切れた。
思い出しかけた記憶は、まだ手の届くところで揺れている。
ユイがそっと後ろから支える。
「大丈夫」
「ゆっくりでいい」
ユウは少し怖そうに、放送卓の前をのぞき込んだ。
「……しゃべるところ?」
「そうだよ」
れいなが答える。
「学校のみんなにお知らせするところ」
「おはようございます、って言うとこ?」
「うん!」
「そう」
そのやり取りのあいだにも、スピーカーの奥からは、微かな雑音が続いていた。
ザ……ザザ……。
音は途切れ途切れなのに、消えない。
むしろ。
近づくたび、誰かの呼吸に聞こえる。
白い梟が窓辺で静かに鳴いた。
『音声核、目視不能』
『放送設備、未登録反応あり』
冬華が放送卓を見つめたまま言う。
「ここにも、記録が隠れているのですね」
総長も低く唸る。
「声をしまう場所か」
「たしかに、名前と相性がいい」
その時だった。
スピーカーが、ぶつ、と鳴った。
全員が息をのむ。
次の瞬間、校内放送のような、少しかすれた声が部屋いっぱいに流れた。
『……白石さやさん、聞こえますか』
白石さやの肩が大きく震えた。
「……わたし?」
その声は、男でも女でもない。
けれど、静かで、落ち着いていて、どこか懐かしい。
『放送室へ、よく来ました』
『忘れものを、預けたままですね』
保健室で聞いた呼び出しの声とは違う。
でも、同じ匂いがした。
誰かが、ずっと待っていた声だ。
カクリが鋏を少し持ち上げる。
「誰だ」
スピーカーの声は答えない。
代わりに、壁際のロッカーのひとつが、ぎい、とゆっくり開いた。
中から出てきたのは、一冊の古い記録帳だった。
表紙には「放送委員引継ぎ記録」と薄く書かれている。
白石さやが、手を伸ばしかけて止まる。
「……これ」
「知ってる」
「うん」
眠っていた方の白石さやが、微かにうなずく。
「わたし、ここに書いた気がする」
記録帳を開くと、最初のページには朝の放送の原稿が並んでいた。
「今日の給食献立」
「委員会連絡」
「明日の持ち物」
それらは普通の学校の記録に見える。
だが、ページをめくるごとに、少しずつ文字が変わっていく。
最初は丸い字。
次第に細くなり。
最後には、震えたような乱れ字になる。
『白石さや』
『白石さや』
『返して』
『まだいる』
『ひとりにしないで』
白石さやはその行を見つめたまま、動けなくなった。
「……わたし」
「これ」
「書いたの……?」
その瞬間、スピーカーの雑音が少し強くなった。
ザザ……。
ぶつ、と一度途切れ、それからまた声が流れる。
『書いたのは、あなたではありません』
『書かせたのです』
その言葉に、放送室の空気が冷たくなる。
白い梟が静かに言う。
『記録音声、二重』
『主記録と補助記録、分離』
冬華が眉をひそめた。
「二重……?」
「誰かが、別の声を重ねているということですか」
スピーカーの声は、しばらく沈黙した。
そして。
『はい』
『わたしは、放送委員でした』
その一言で、全員の視線が放送卓の奥へ向かう。
誰もいない。
けれど、そこにいる。
見えない誰かが、椅子に座っているような気配だけがあった。
『朝の放送で、名前を呼ぶのが好きでした』
『声に出すと、学校に届くから』
『でも、ある日から』
『名前が、途中で消えるようになった』
白石さやが、息を呑む。
「……名前が、消える」
『はい』
『だから、わたしは』
『消える前に、声に閉じ込めた』
『ここに』
『放送室に』
『……』
『けれど』
『声に閉じ込めた名前は、朝になると一部だけ抜け落ちる』
『その残りを集めたのが、あの子です』
全員が振り向く。
音響卓の下。
そこに、白い子供がちょこんと座っていた。
さっきまで気付かなかった。
いや、いたのに、見えていなかった。
白い名札だけを胸に付けた子供は、少し困ったように笑う。
「……ぼく」
「集めてた」
「名前の切れ端」
「ここに、いっぱい落ちてたから」
白石さやの心臓が、どくんと鳴る。
「……あなたが」
「放送で呼んでたの?」
白い子供はうなずいた。
「うん」
「でも」
「ぼくの名前がないと」
「うまく呼べなかった」
その言葉に、スピーカーの声がかすかに揺れた。
『……あなたの名は』
『私が、預かっています』
白い子供が顔を上げる。
「ほんと?」
『ええ』
『あなたは放送委員でした』
『名前が、呼び声といっしょに消えないように』
『ずっと、ここで働いていたのです』
白石さやが、記録帳をめくる。
最後のページ。
そこには、鉛筆で書かれた、ひときわ濃い一行があった。
『音無ひびき』
その文字を見た瞬間、白い子供が、はっと息をのんだ。
「……ひびき」
れいなが目を見開く。
「それ、名前?」
子供は、何度かその音を口の中で転がした。
「ひびき……」
「……あ」
その声で、放送室のスピーカーが、ぴたりと静まる。
そして。
まるでそれを待っていたかのように、部屋の天井から、一斉にノイズが消えた。
静寂。
白い梟が短く鳴く。
『命名固定』
『音声核、再認識』
冬華が目を細める。
「……この子が、放送委員の残留体だったのですね」
保健の先生の声に似た、あの穏やかな声が、再びスピーカーから響いた。
『はい』
『音無ひびき』
『それが、あなたの名前です』
白い子供――ひびきは、じっと胸の名札を見下ろした。
「……ひびき」
「ぼく」
「それ、ぼくの……」
白石さやは、その様子を見て、胸の奥にあたたかいものが広がるのを感じた。
名前が戻るのを、また見た。
今度は自分じゃない。
けれど。
その喜びは、ちゃんと自分の中にも届いている。
「よかった」
ひびきは、少しだけうつむいた。
「でも」
「まだ、全部じゃない」
『その通りです』
スピーカーの声が重なる。
『私は、放送室に残った声』
『本体ではありません』
『本当の記録は、校舎の放送設備に散っています』
総長がうなずく。
「つまり、これは入口か」
『ええ』
『校内放送の回線には、まだ戻っていない音があります』
『それを回収すれば』
『白石さやさんの“名前の半分”も』
『さらに先へ進めるでしょう』
白石さやは、名簿のような記録帳を抱きしめた。
「わたしの名前」
「まだ、途中なの?」
スピーカーの声は、少しだけやさしくなった。
『はい』
『でも』
『次の場所は、もう決まっています』
冬華がすぐに問い返す。
「どこです」
『屋上のスピーカー』
その一言に、全員が黙る。
窓の外。
校舎の屋根の上に、古いアンテナが見えた。
夕方でもないのに、その鉄骨だけが、やけに暗く見える。
白い梟が静かに羽ばたく。
『次局所、屋上』
『音声回線、最終接続点』
白石さやは、ひびきの名をもう一度心の中でなぞる。
音無ひびき。
放送委員。
呼び声を集めていた子。
そして、まだ終わっていない声。
放送卓の下で、ひびきが立ち上がった。
「ぼく」
「案内する」
「屋上へ」
その言葉に、校内放送がもう一度小さく鳴る。
ザ……。
そして、今度は短く。
『白石さやさん』
『ありがとうございます』
声はそれだけを残し、すっと消えた。
けれど。
放送室の壁に据えられたスピーカーのひとつだけが、まだじんわり赤く光っている。
白石さやはそれを見上げた。
「……まだ」
「誰かいる」
ひびきがうなずく。
「うん」
「屋上で」
「待ってる」
その言葉と同時に、放送室の扉の外から、風のない風がひとつ吹いた。
そして廊下の先。
屋上へ続く階段の上から、かすかに。
朝のチャイムの音が鳴った。
ここまで読んでくれてありがとうございます。
次回もお楽しみに




