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幽世断ちのカクリ 〜宵町カクリは夜を歩く〜  作者: れんP


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第119夜 「最後のひとこと」



今日も少女は夜を歩く。


「……おいで」


白石さやの声が、音楽室の静寂へ落ちた。


そのたった三文字で、空気がふっとほどける。


ピアノの最後の音が、まだ鍵盤の上に残っているような気がした。


ぽん。


かすかな余韻。


影は、その場で静かに立ち尽くしていた。


顔は見えない。


けれど。


たしかに、胸の奥が動いている。


「……ほんとに?」


低い声だった。


男でも女でもない。


けれど、子供のような震えがあった。


白石さやは少しだけ息をのむ。


「うん」


「呼んだよ」


「でも」


「わたしでいいの?」


その問いに、影はゆっくり首を振る。


「よくない」


「……え?」


「ほんとは」


「もっと前に」


「呼んでほしかった」


その言葉に、白石さやの胸がきゅっと痛んだ。


もう一人の自分も、眉を寄せる。


「……わたし」


「そんなこと」


「言ったの?」


影は小さくうなずく。


「眠る前」


「熱があって」


「苦しくて」


「でも」


「眠りたくなくて」


「だから」


「“おいで”って言ってくれた」


音楽室が静かに揺れた。


冬華がすぐに周囲を見回す。


「記憶が反応している……」


白い梟が窓辺で羽を小さく震わせる。


『眠眠核心、応答確認』


『呼称固定、開始』


総長が低く唸る。


「眠りの底にいたものが、ようやく返事をしたというわけか」


影はピアノから手を離し、ゆっくりと白石さやへ近づいた。


近づくごとに、その輪郭が少しずつはっきりしていく。


髪の長さ。


服の襟。


小さな手。


そして、顔の代わりにあったのは、白く薄い空白ではなかった。


そこに、うっすらと目の形が浮かんでいる。


けれど、まだ見えない。


見えてしまうと、壊れてしまいそうだった。


白石さやは、その姿を見つめていた。


「……あなた」


「わたしの、なに?」


影は静かに答える。


「最後のひとこと」


「……?」


「あなたが眠る前」


「言いかけて、言えなかった」


「その続きを、ぼくが持っていた」


その言葉に、眠っていた方の白石さやが、小さく息をのむ。


「……続き」


「うん」


「ぼくは」


「あなたの言葉の、続きを」


「ずっと抱えてた」


保健室の眠りから、音楽室の歌へ。


資料室の半分から、ここまで。


ばらばらだったものが、一つの線になる。


カクリは鋏を下ろし、少しだけ目を細めた。


「つまり」


「この影は、名前じゃなくて」


「言葉を持っていた」


影は少しだけ頷いた。


「名前は」


「言葉のいちばん外側」


「だから、名前が消えても」


「最後のひとことは残った」


ユイがそっと前へ出る。


「じゃあ」


「その最後のひとことって、何?」


影はしばらく黙っていた。


そして、胸の前で手を組むようにして、小さく答えた。


「……起こして」


その瞬間、白石さやの胸が大きく跳ねた。


「……っ」


記憶の断片が、いっきに押し寄せる。


熱い額。


白いシーツ。


窓の外の雨。


ぼんやりした天井。


そして、誰かの手を握っていた自分。


──起こして。


そう言った。


たしかに言った。


眠る前、目を閉じる前、苦しくて、でもまだ帰りたくなくて。


「……起こして」


白石さやが、かすれた声で繰り返す。


眠っていた方も同時にうなずく。


「そう」


「わたし、言った」


「だから」


「あなたは、ここにいたの?」


影は少しだけ首をかしげる。


「うん」


「起こしてって」


「言われたから」


「眠りの中で」


「ずっと待ってた」


白石さやの目から、ぽろりと涙が落ちる。


「ごめん」


「忘れてた」


「ううん」


影はやさしく首を振った。


「忘れても」


「呼ばれたから」


「それで十分」


そのやり取りの間も、音楽室の空気は変わり続けていた。


壁にかかった楽譜が、ぱらりとひとりでにめくれる。


譜面台の白い紙に、文字が浮かび上がっていく。


『呼んで』


『眠って』


『起こして』


『戻って』


同じ言葉が、少しずつ順番を変えて並ぶ。


白い梟が短く鳴いた。


『記録再接続』


『眠眠媒体、解凍中』


「解凍……」


れいなが呟く。


「つまり、これで全部終わるの?」


白い梟は答えなかった。


代わりに、影が静かに言う。


「終わるよ」


「でも」


「終わるのは、眠りだけ」


白石さやが顔を上げる。


「え?」


影はピアノの蓋へ、そっと指を滑らせた。


「ぼくは」


「眠りの中で、あなたの言葉を持ってた」


「でも、言葉は一つじゃない」


「最後のひとことが戻ったら」


「次のひとことも」


「必要になる」


冬華が目を細める。


「次のひとこと……」


「起きたあと、ということですか」


影は頷く。


「うん」


「起きたら」


「学校の外に出る」


「外に出たら」


「夜はまた歩く」


その言葉で、白石さやは少しだけ笑った。


「……そうだね」


「わたし、夜を歩いてるんだもん」


その笑顔を見て、影も小さく笑う。


顔はまだ見えない。


けれど、笑ったことだけはわかる。


カクリが鋏を持ち直した。


「で」


「この子を起こせばいいのか」


影はうなずく。


「うん」


「でも、乱暴はだめ」


「眠りは、ほどくものだから」


総長が苦笑する。


「そんな繊細な起こし方、儂らにできるかのう」


そのとき、保健の先生の声が、どこからともなく音楽室へ届いた。


「できますよ」


全員が振り向く。


扉の外。


廊下に立っていたのは、目のない保健の先生だった。


いつの間に来たのか、誰も気付かなかった。


先生は静かに音楽室へ入ってくる。


「眠りは」


「起こす人が優しければ、ちゃんと戻れます」


「……先生」


白石さやが声を漏らす。


先生は少しだけうなずいた。


「あなたは、よくここまで来ました」


そして、影へ目を向ける。


「あなたも」


「ずっと、よく耐えましたね」


影は、その一言で少しだけ肩を落とした。


「……うん」


保健の先生がピアノの前に立つ。


「では、続きをしましょう」


「最後のひとことの、その先を」


白石さやは、眠っていた自分を見た。


もう一人の白石さやも、うなずく。


二人でひとつの息を吸う。


そして、同時に影へ手を伸ばした。


「……起きて」


たった二文字。


それだけで、影の輪郭がふるりと震える。


白いピアノが、ぽん、と一音鳴った。


もう誰も触れていないのに。


次の瞬間、影の中から小さな息がこぼれる。


「……っ」


子供だった。


いや、子供の声だった。


顔の奥に眠っていたものが、ようやく目を覚ましかけている。


「……だれ」


その声で、音楽室の空気が一気に変わる。


白石さやが息をのむ。


「……あなた」


影は、初めてはっきりと前へ進んだ。


そして。


白い空白だった顔に、薄くひとつの輪郭が浮かぶ。


小さな目。


眠たそうな口。


それは。


白石さや自身が、眠りの中で忘れていた“呼びかけの子”だった。


保健の先生が静かに言う。


「……これで」


「眠りは終わるわ」


白い梟が、天井の光へ向かって羽ばたいた。


『眠眠媒体、解凍完了』


『記憶保持体、再統合準備』


影が、ゆっくりと白石さやの方へ顔を向ける。


「……起こしてくれて」


「ありがとう」


その一言と同時に、音楽室のピアノがもう一度鳴った。


ぽん。


夜の中で、次の頁がそっと開く気配がした。

ここまで読んでくれてありがとうございます。

次回もお楽しみに

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