第118夜 「音楽室の眠り歌」
今日も少女は夜を歩く。
ぽん。
ぽん。
ぽん。
音楽室の奥から、古いピアノの音が響いていた。
廊下を進むたび、その音は少しずつ近くなる。
けれど、音楽室の扉はまだ見えない。
まるで、校舎そのものが音へ向かって伸びているみたいだった。
白石さやは、保健室で受け取った鍵を握りしめたまま歩く。
その隣を、眠っていた方の白石さやが、そっと並んで歩いていた。
二人とも同じ顔なのに、今は少しだけ違って見える。
起きている方は目がしっかりしていて、眠っていた方はどこか夢の気配を残している。
「……ほんとに、いる」
白石さやが小さく言う。
「うん」
もう一人も頷いた。
「でも、歩いてる感じが変」
「なにが?」
「片方は、まだ眠ってるから」
その言葉に、ユイが静かにうなずく。
「眠りと目覚めが、半分ずつ歩いてるんだね」
白石さやは自分の手を見た。
その指先には、保健室で返された鍵が食い込むように握られている。
古い鉄の鍵。
先端にだけ、小さな白い塗料の跡がある。
「……これで、ほんとに開くの?」
冬華が答える。
「開きます」
「音楽室の奥にあるものは、この鍵で保護されているはずです」
総長が低く唸る。
「保護か」
「いや、封印じゃな」
保健の先生が最後に出てきた気配は、もう遠かった。
けれど、校舎の空気はまだ少しだけ保健室の匂いを残している。
消毒液のような、眠りのような、静かな匂い。
白い梟の声が廊下に落ちる。
『音楽室、近接』
『眠眠媒体、未回収』
『拍動音、増大中』
「拍動音?」
れいなが首を傾げる。
「ピアノの音じゃないの?」
『異なる』
白い梟は短く答えた。
『音楽ではない』
『眠りの反応』
その言葉に、白石さやが立ち止まった。
「……眠りの反応」
「うん」
「わたし、知ってる気がする」
眠っていた方も、同時にうつむいた。
「わたしも」
「昔、ここで」
「誰かが眠るたびに」
「音がした」
「……音?」
「うん」
「眠った子の数だけ」
「ぽん、って」
「一音ずつ」
白石さやの背筋がひやりとする。
だれかが眠るたびに、音が鳴る。
それは、子守歌のようでいて、何かを数えているようでもある。
カクリが鋏を握り直す。
「行こう」
「うん」
白石さやは、もう一人の自分と目を合わせる。
「一緒に入る」
「うん」
そして。
音楽室の扉が見えた。
◇
扉は半開きだった。
中からこぼれるのは、夜の色。
昼間の学校なのに、音楽室の中だけが薄暗い。
ピアノの上に被せられた布は半分めくれ、黒い鍵盤が覗いている。
ぽん。
また一音。
それは誰かが鍵盤を押した音ではない。
誰かが、眠りの底から指を動かしたような音だった。
白石さやが息を止める。
「……中にいる」
カクリが先に入った。
音楽室には、古い楽譜棚が並んでいる。
譜面台のひとつだけに、白い紙が差し込まれていた。
その紙には、鉛筆で何度も消した跡がある。
そして一番上に、かろうじて読める文字。
『眠り歌』
冬華が目を細めた。
「……歌」
「誰が書いたのでしょう」
その時、ピアノの前の椅子が、少しだけ動いた。
ぎぃ、と。
誰も座っていないのに。
椅子の上には、古いリボンが一つ落ちている。
白い。
けれど、保健室や資料室で見たものよりずっと薄い。
紙のように頼りない。
白石さやが、そのリボンを見て息を呑む。
「……これ」
「わたしの」
「いえ」
眠っていた方が小さく言う。
「わたしのだった」
二人の白石さやが、同時にそのリボンへ手を伸ばした。
触れた瞬間。
ぽん。
ピアノが一音鳴る。
今度ははっきりと。
誰かが弾いた音だった。
そして、楽譜棚の奥から、すっと白い影が一つ立ち上がる。
背の高い影ではない。
子供でもない。
曖昧な輪郭。
でも、確かに人の形をしていた。
顔は見えない。
ただ、肩から長い髪のようなものが垂れ、その先が黒板のチョークの粉みたいにほどけている。
その影は、ピアノの前でそっと頭を下げた。
「……おかえり」
声は低い。
男か女かも分からない。
けれど、その声が白石さやの胸を突いた。
「……だれ」
影は答えない。
代わりに、ピアノの蓋を静かに開ける。
その中に、何かが挟まっていた。
白い便箋。
折り畳まれた古い紙。
カクリが鋏を少し持ち上げる。
「動くな」
影は微笑んだように見えた。
そして、便箋を鍵盤の上に置く。
白石さやは、その紙へ引き寄せられるように一歩近付いた。
「……これ」
「読めるの?」
ユイが小さく尋ねる。
白石さやは、震える指で便箋を開く。
中には、やはり鉛筆の文字が薄く残っていた。
『ねむりは』
『ことばをつつむ』
『ことばは』
『名前をつつむ』
『だから』
『ねむる子は』
『歌わなくていい』
白石さやは、その文章を読んで、かすかに顔をゆがめた。
「……これ」
「わたしが」
「書いた?」
影が、ゆっくりと首を振る。
「違う」
「あなたは、読んだだけ」
「……?」
「書いたのは」
「眠っていた方」
もう一人の白石さやが、びくりと肩を揺らした。
「……わたし?」
影は静かに頷く。
「眠りの中で、あなたは何度も歌った」
「でも」
「誰にも届かなかった」
「だから、言葉が残った」
冬華が顔を上げる。
「眠りの中の歌……」
「それが、この音楽室の起点なのですか」
影は答えない。
けれど、ピアノがまた一音鳴った。
ぽん。
まるで肯定するみたいに。
白い梟が窓辺に止まり、静かに告げる。
『眠眠媒体、核心接触』
『音楽室内、記憶封印層、開放寸前』
総長が低く唸る。
「つまり、この影が仕組んだのではないのか」
「ええ」
影は少しだけ目を伏せた。
「ぼくは」
「守ってただけ」
「守る?」
「眠る子の名前が、外にこぼれないように」
「でも」
「歌が強すぎて」
「外へ出てしまった」
白石さやの喉がきゅっと鳴る。
「……歌」
「わたし、何を歌ってたの」
影は、答える代わりにピアノの鍵盤へ手を置いた。
そして、ひとつ。
またひとつ。
ゆっくり弾き始める。
ぽん。
ぽん。
ぽん。
さっきまでの音よりずっとやさしい。
でも、その旋律に合わせて、音楽室の奥の空気が少しずつ変わる。
楽譜棚の影が伸びる。
床に落ちていた白い紙が、ふわりと舞い上がる。
その一枚一枚に、名前の断片が浮かぶ。
『さ』
『や』
『し』
『ら』
『い』
『し』
白石さやの目が見開かれる。
「……わたしの」
「名前……」
眠っていた方がそっとつぶやく。
「これ、歌に合わせて」
「一つずつ戻る」
カクリが鋏を少しだけ下げた。
「戻すのか」
影は静かに頷く。
「うん」
「でも」
「全部じゃない」
「まだ一つ」
「音の底に残ってる」
白石さやは、譜面台に差し込まれた楽譜を見た。
『眠り歌』
その下に、小さく書き足された文字がある。
『最後のひとことを、思い出して』
「……最後のひとこと」
「何?」
ユイが問う。
影はピアノを弾く手を止めて、白石さやを見る。
「眠る前」
「あなたは言った」
「“わたしを呼んで”って」
白石さやの胸が強く鳴った。
「……呼んで」
「うん」
「誰を?」
影は少しだけ微笑む。
「ぼくを」
その瞬間、ピアノの音がふっと途切れた。
音楽室の中に、深い静寂が落ちる。
白石さやは、便箋を胸に抱えるように持った。
眠っていた方も、そっと隣に立つ。
二人でひとつの息を吸う。
そして。
白石さやは、まっすぐ影を見た。
「……おいで」
たった三文字。
その声で。
音楽室の奥にあった最後の眠りが、静かに目を覚ました。
ここまで読んでくれてありがとうございます。
次回もお楽しみに




