第116夜 「保健室の眠り」
今日も少女は夜を歩く。
『次は、保健室で』
その一行が、教室の床に落ちた紙片の上で、静かに揺れていた。
白石さやはそれを見つめたまま、しばらく動かなかった。
「……保健室」
小さくつぶやく。
その声は、さっきまでよりもずっとはっきりしていた。
名前が戻ったからなのか。
それとも、まだ別の何かを思い出しかけているからなのか。
白い梟が天井の近くで羽をたたむ。
『残留反応、保健室へ移動』
『忘却媒体、局所集中』
冬華が目を細めた。
「また別の場所ですね」
「ええ」
白い梟の声に代わるように、白石さやがゆっくり頷く。
「……保健室」
「わたし、行ったことある」
ユイが振り向いた。
「本当に?」
「うん」
「でも、思い出せない」
そう言う声は不安そうだったが、もうさっきみたいに壊れそうではない。
白石さやは、自分の胸を押さえた。
「名前が戻ったら」
「少しだけ」
「見えるものが増えた気がする」
総長が低く唸る。
「やはり、名はただの呼び名ではないな」
「記録そのものじゃ」
カクリは鋏を肩に乗せたまま、教室の奥の暗い通路を見る。
黒板の裏に現れたその道は、細くて狭い。
でも。
妙に長い。
廊下よりも長く感じる。
見ているだけで、向こう側に別の校舎があるような錯覚を覚える。
ユウが白石さやの袖をつかんだ。
「こわい?」
白石さやは少し考えて、それから首を横に振る。
「ちょっとだけ」
「でも」
「一人じゃないから」
その言葉に、ユウは嬉しそうに笑った。
「ぼくも」
「いっしょ」
れいながそれを見て、にこりとする。
「うんうん」
「やっぱり、いっしょが一番だよね」
冬華も微かに頷いた。
「では、行きましょう」
教室を出ると、校舎の空気はさっきよりひっそりしていた。
昼間なのに、廊下の窓から差し込む光がやけに白い。
人の気配はあるのに、音が遠い。
靴箱の方からは子供たちの声が聞こえるはずなのに、今はまるで別の時間が流れているみたいだった。
黒板の裏の通路を進むと、床板がきしむ。
壁には古い掲示物が貼られていた。
「健康観察表」
「保健だより」
「養護教諭便り」
その文字の端だけが、少しずつ滲んでいる。
まるで、長いあいだ誰も見ていない間に、文字が自分で動いてしまったみたいに。
白石さやは歩きながら、ふと立ち止まった。
「……ここ」
「知ってる」
「どこ?」
ユイが尋ねる。
白石さやは壁の一枚を指した。
その掲示物の上。
ふつうなら、季節の健康注意が書かれているはずの場所。
そこに、うっすらと手書きの名前が残っていた。
『白石』
その下に、かすれた一文字。
『さ』
さやは目を見開く。
「……わたし」
「昔、ここで」
「名前を書いた」
冬華がすぐに反応する。
「自分で書いたんですか」
「うん」
「でも」
「途中で消えた」
その言葉に、廊下の空気がひやりと冷える。
白石さやは、自分の指先を見つめた。
「たぶん」
「保健室の先生に、見せようと思って」
「でも」
「誰も読めなかった」
カクリは掲示物の裏を見た。
そこには、薄く糊で貼り直した跡がある。
一度剥がしたあと、また貼った。
いや。
剥がされたのではなく。
何かを隠すために上から貼り直したようにも見える。
「……隠してる」
総長が眉をひそめた。
「なにをじゃ」
答えはすぐに現れた。
保健室の扉にたどり着いた瞬間。
中から、かすかな話し声がした。
「……だいじょうぶ」
「……もうすこし」
「……ねむってて」
子供のような声。
けれど。
少しだけ大人びている。
白石さやが息を呑む。
「……聞こえる」
白い梟が短く告げた。
『保健室内、音声反応複数』
『眠気誘導体、確認』
れいなが青ざめる。
「眠気誘導体ってなに……」
白面の医師はいないが、代わりに白い梟の答えは容赦ない。
『眠らせて、記録を止めるもの』
冬華が保健室の扉を見た。
「眠らせる……?」
「はい」
「眠っているあいだは、名前も記録も動きません」
「だから、ここに閉じ込めるのに向いている」
その瞬間。
保健室の扉が、内側からこん、こん、と叩かれた。
さっきまでの校舎裏で聞いたのと同じ音。
だが、今度は明確に中からだ。
白石さやの顔色が変わる。
「……中に」
「だれかいる」
扉の隙間から、細い白い煙が漏れてくる。
消毒液でも、薬でもない。
どこか甘ったるい。
眠気を誘う匂いだった。
ユウが鼻を押さえる。
「くるしい……」
ユイがすぐに抱き寄せる。
「我慢して」
その時、保健室のドアノブがゆっくり回った。
ガチャ。
ガチャ。
鍵はかかっていない。
中から、扉が開く。
ぎぃ、と音を立てて開いた先には。
白いカーテンで囲まれたベッドが見えた。
三つ。
いや、四つ。
そのうちの一つに、誰かが横たわっている。
顔までは見えない。
けれど、その寝顔の輪郭が妙に白い。
そして、ベッドの横に立っていたのは。
保健の先生のような服を着た女性だった。
顔は見える。
だが、目だけがない。
まるで、目の部分に布を縫いつけたみたいに真っ白で、そこにあるはずの視線がすっぽり抜け落ちていた。
「……先生」
白石さやがつぶやく。
女性はゆっくりと顔を上げた。
「おかえり」
その声は、とてもやさしかった。
だからこそ怖かった。
「白石さん」
「やっと」
「戻ったのね」
白石さやは、後ずさる。
「……先生」
「わたし」
「ここに来たことが……」
女性は微笑んだまま、指先でベッドのシーツを撫でた。
「あなたはよく眠っていたわ」
「ずっと」
「眠っているあいだに、名前がほどける子もいたけれど」
「あなたは大丈夫だった」
冬華が鋭く問う。
「あなたは何者です」
女性は少しだけ首を傾げた。
「保健室の先生」
「そうでしょ?」
「それとも」
「眠りの番人、の方がいいかしら」
総長が低く唸る。
「番人……」
女性はにこりと笑う。
「この学校では」
「熱を出した子も」
「疲れた子も」
「泣いた子も」
「保健室で休むでしょう?」
「そのあいだに」
「いろいろと忘れてしまうの」
「だから私は」
「忘れたものを預かるの」
白石さやの手が震えた。
「……わたしの名前も?」
女性は少しだけ黙った。
そして、優しく答える。
「ええ」
「預かっていたわ」
「半分だけね」
その一言で、教室で見た半分の白石の姿がよぎる。
さやは息をのむ。
「やっぱり」
「ここに」
「残ってたんだ」
女性は頷く。
「あなたは一度、眠って」
「ここに来た」
「熱を出していたから」
「そのとき」
「名札が外れて」
「名前が半分、シーツの下へ落ちたの」
ユイが青ざめる。
「そんな……」
女性は少しだけ哀しそうに笑った。
「でも大丈夫」
「保健室ではよくあることよ」
「預かったものは、ちゃんと返すから」
その瞬間、ベッドの上の寝ている誰かが、ふっと身じろぎした。
白いカーテンが揺れる。
そこにいたのは。
白石さやの顔と、まったく同じ顔だった。
ただし。
そちらは目を閉じ、深く眠っている。
白石さやは、その姿を見たまま動けなかった。
「……わたし」
「二人……?」
保健の先生が、静かに頷く。
「ええ」
「眠っているあなた」
「目覚めたあなた」
「でも、本当は」
「どちらも、あなた」
その言葉に、白石さやの胸元の名札が熱を持つ。
一つの名前が、二つに分かれたまま戻れずにいた理由。
記録庫。
教室。
保健室。
全部が、少しずつつながっていく。
保健の先生は、ベッドの横から白い包みを取り出した。
その中には、小さな名札があった。
病院の記録庫で見たものよりも、ずっと古い。
『白石さ』
白石さやが息を呑む。
「……これ」
「わたしの」
女性は頷いた。
「目覚める前に落ちたの」
「あなたがここで寝ているあいだにね」
白面の医師がいない今、白い梟が代わりに冷たく告げる。
『眠眠媒体、核心接触』
『半名回収、可能』
保健の先生はその名札を見下ろした。
「ただし」
「返すには、ひとつ条件があるわ」
白石さやが顔を上げる。
「条件……?」
女性は静かに言った。
「眠っているあなたを、起こさなくてはいけない」
その時、ベッドの上の白いカーテンが、ふわりと揺れた。
中で眠る白石さやが、ゆっくりと目を開ける。
もう一人の自分が。
こちらを見て、かすかに笑った。
「……やっと」
「起こしてくれるの」
ここまで読んでくれてありがとうございます。
次回もお楽しみに




