第114夜 「教室に残った半分」
今日も少女は夜を歩く。
資料室の扉の向こうに差し込まれた紙には、たしかにそう書かれていた。
『白石さやへ』
『あなたの半分を、返します』
『残りは、教室で』
白石はその文字を見たまま、息を止めている。
指先がわずかに震えた。
「……教室」
その一言に、白いリボンの影たちが一斉に揺れた。
窓の外に張りついていた影も、廊下の奥で息を潜めていた影も、みな同じ方角を見る。
教室。
そこに、まだ半分が残っている。
カクリは鋏を握ったまま、資料室の扉を見た。
「開ける」
白面の医師の姿はない。
けれど、記録庫で聞いた声が、今も耳の奥に残っている気がした。
“名前は呼ばれることで残る”
その言葉が、今のこの場にぴたりとはまる。
冬華が静かに頷く。
「ええ」
「向かいましょう」
総長も低く唸った。
「廊下の先か」
「ならば、早いほうがええ」
白い梟が窓辺で羽を広げる。
『校内夜域、局所拡張』
『忘却媒体、移動中』
『注意』
『白リボン個体群、追随中』
その声と同時に、資料室の窓に並んでいた白いリボンの影たちが、するりと一斉に離れた。
窓の外へ、ではない。
教室の方角へ。
まるで先回りするみたいに、校舎の奥をすべっていく。
白石が青ざめる。
「……来る」
ユイがその手を握った。
「大丈夫」
「見つけたんだから、もう戻せる」
白石は、まだ不安そうだったけれど、うなずいた。
「うん」
「行く」
子供も、その横で小さく拳を握る。
「ぼくも」
「教室、好き」
「……好きなの?」
「うん」
「紙がいっぱいあるから」
「だから」
「忘れものもいっぱい」
それを聞いて、れいなが少し笑った。
「たしかに学校って、忘れものだらけだもんね」
「教科書、筆箱、プリント、宿題……」
「あと給食袋!」
その普通の言葉が、今は妙に心強い。
カクリは扉を押し開けた。
ぎぃ、と古い木の音がした。
その瞬間、資料室の空気が一気に薄くなる。
紙の匂いだけが残る。
廊下へ出ると、昼の明るさはもうほとんど消えていた。
さっきまで校舎の裏でまぶしいほど光っていたのに、今はどこか夕方みたいに暗い。
窓の外はまだ明るい。
なのに校舎の中だけ、夜が進んでいる。
「……変」
れいながつぶやく。
冬華が周囲を見渡す。
「学校そのものが、夜の記憶に引き込まれています」
「病院と同じじゃ」
総長が低く答える。
「場所が記憶を食う」
「嫌な話じゃな」
廊下を歩いていると、壁の掲示板に貼られた学級新聞が、ふっと揺れた。
よく見ると、そこに貼られた写真の顔が薄い。
いや。
薄いのではない。
ひとり分、抜けている。
集合写真の空白。
白石が立ち止まる。
「……ここ」
「わたし」
「いた」
集合写真の中央。
その隣にあるはずの肩だけが、ぼんやりと空白になっていた。
ユイがそっと写真を見る。
「ほんとだ」
「誰かが、そこだけ触ってる」
白い梟が低く鳴く。
『記録欠損』
『視覚媒体、半欠損』
『残存名反応あり』
カクリは壁の写真を見たまま、少しだけ目を細めた。
誰かが白石の輪郭だけを消している。
完全に消したのではない。
半分だけ。
だから、今もここにいる。
だから、まだ教室で待っている。
そう思った時。
前方の教室の戸が、ひとりでに半分だけ開いた。
ギィ……。
そこから漏れるのは、夕方の教室ではない。
机を引く音。
チョークの粉。
子供のざわめき。
授業が終わったあとの、あの落ち着いた空気。
「……中にいる」
ユウが怯えながらも言う。
「うん」
ユイは小さく頷いた。
教室に入ると、机がいくつか逆さに置かれていた。
掃除の途中みたいにも見える。
けれど、どれも少しずつ位置が違う。
誰かがいた。
そして、黒板の真ん中に、白いチョークでこう書かれていた。
『白石さん、ここにいる』
白石の顔が強ばる。
「……わたし」
「ここにいるのに」
「誰が書いたの」
その答えは、すぐには出なかった。
だが、教室の一番前の席。
そこだけ、椅子がひとつ引かれたままになっていた。
そしてその椅子の背に、白いリボンが結ばれている。
先ほどの影たちと同じ。
けれど、もっと濃い。
もっとはっきりしていた。
ユイが小さく息を呑む。
「……あそこ」
席の上に、ノートが一冊置かれている。
表紙には、うっすらと鉛筆で名前が書かれていた。
『白石さや』
白石は、ゆっくり近づいた。
すると、ノートの中からひとりの声がした。
「遅い」
その声に、全員が振り向く。
机の影。
そこに、もうひとりの白石が座っていた。
いや、正確には“半分”だ。
顔の右側だけがはっきりしていて、左側は白い紙のようにぼやけている。
髪も、服も、輪郭も、全部が半分だけ残っている。
白石は、その姿を見て震えた。
「……わたし」
半分の白石は、少しだけ笑った。
「うん」
「やっと来た」
白石が一歩も動けないでいると、その半分はノートを開いた。
中には、何ページも名前が書かれている。
そのどれもが、途中で途切れていた。
『さや』
『さ』
『白石』
『白し』
『しら』
『……』
「これ……」
白石が呆然とつぶやく。
半分の白石は、ノートを指先でなぞる。
「わたしが」
「ここで」
「何度も」
「書き直してた」
「でも朝になると」
「半分だけ残る」
「……」
「だから、足りない」
ユイが眉を寄せる。
「足りないって」
「何が」
半分の白石は、少しだけ目を伏せた。
「名前の続き」
「……」
「わたし、本当は」
「さやじゃない」
その一言で、教室の空気がぐらりと揺れた。
白石が息を呑む。
「え……?」
半分の白石は、ゆっくりと胸元を押さえる。
「さや、は」
「呼ばれてた名前」
「でも」
「本当の名前は」
「誰も最後まで言えなかった」
冬華の目が鋭くなる。
「……奪われたのではなく」
「途中で切られた、ということですか」
半分の白石はうなずいた。
「そう」
「だから、半分」
「名前の前半だけが、わたし」
「残りは」
「もう一人のわたしが持ってる」
カクリは、半分の白石と、目の前の白石を見比べる。
「もう一人」
その言葉に、白石が震えながら自分の胸を押さえた。
さっきまで気付かなかった。
けれど、確かに。
自分の中にも、誰かの気配がある。
夜に呼ばれた時に感じた、もう一つの輪郭。
白石は唇を震わせた。
「……わたし」
「もうひとりいるの?」
半分の白石は、少しだけ悲しそうに笑った。
「うん」
「でも、教室に残されてるのは」
「半分だけ」
「だって」
「わたしたち、ずっと別々にされたから」
その瞬間、黒板がぴし、と鳴った。
そこに書かれた『白石さん、ここにいる』の文字の下に、もう一行が浮かぶ。
『残りは、名簿の中』
総長が眉をひそめる。
「名簿?」
教室の後ろ。
出席簿を入れる棚が、ひとりでに開いた。
その中に一冊だけ、古い名簿がある。
表紙には、薄くこう書かれていた。
『児童記録』
「……それだ」
白い梟が短く鳴く。
『半欠名簿、確認』
『統合可能』
白石がその名簿を見つめる。
「ここに……」
「わたしの、もう半分が?」
半分の白石は頷いた。
「うん」
「でも」
「ひとりじゃ取れない」
「取るって……」
「その本」
「夜になると、開けた人の名前を食べる」
れいなが青ざめる。
「えぇ……」
白石は名簿を見たまま、静かに息を吸った。
「それでも」
「取りたい」
「わたし」
「自分の名前、知りたい」
その一言に、教室の空気が変わる。
カクリは鋏を握り直す。
「やる」
ユイもうなずく。
「うん」
白い梟が、天井近くで目を閉じた。
『統合工程、開始』
名簿が、ゆっくりと開く。
その最初のページに書かれていたのは。
ただ一行。
『白石さや』
白石の息が止まる。
次の瞬間、名簿の中から細い手が伸びた。
半分の白石と同じように、白く、少しだけぼやけた手。
その手は、ページをめくるのではなく。
白石の手首を掴んだ。
そして、静かな声で言う。
「今度こそ」
「最後まで」
「読んで」
ここまで読んでくれてありがとうございます。
次回もお楽しみに




