第110夜 「校舎の裏の忘れもの」
今日も少女は夜を歩く。
朝の食卓は、妙に静かだった。
味噌汁の湯気が上がり、焼き魚の匂いがふわりと広がる。
それなのに、誰も大声を出さない。
ユウはまだ少し眠そうで、箸を持ったまま何度も目をこすっていた。
ユイは膝の上に置いた紙切れを見つめている。
『また、夜に』
『次は、学校で』
その文字は、朝の光の中でも消えなかった。
カクリは食べかけのご飯を見下ろしながら、そっとその紙を指先でつつく。
「……学校」
ユイが頷く。
「うん」
「わたしのところじゃなくて」
「カクリの学校」
「だよね」
「たぶん」
白面の医師が渡したしおりは、今はユイのポケットに入っている。
なのに、別の紙片が勝手に現れた。
それが指しているのは、病院じゃない。
昼の場所だ。
人がたくさんいて、笑って、走って、授業をする場所。
それなのに、夜の言葉が届いている。
ユウが首を傾げる。
「学校って」
「たのしいところ?」
カクリは少し考えて、それから頷いた。
「うん」
「たのしい」
「でも」
「変なのも、くる」
その答えに、ユイがふっと笑う。
「それは、どこでも一緒かも」
れいなが元気よく手を挙げた。
「だよね!」
「学校には学校の変なのがいるもん!」
「たとえば忘れ物とか!」
「あと、無くしたプリントとか!」
カクリは小さくうなずく。
忘れ物。
無くしたプリント。
その響きが、なぜか胸に引っかかった。
◇
市立夕凪小学校の門をくぐると、朝の空気は病院とはまるで違った。
子供たちの声。
靴箱のざわめき。
廊下を走る足音。
黒板を拭くチョークの音。
その全部が、やけに明るい。
けれど。
カクリはすぐに気付いた。
教室の空気が少し変だ。
窓際の席。
一つだけ、椅子が引かれている。
誰も座っていない。
なのに、机には教科書が置かれている。
ランドセルも。
水筒も。
「……あれ」
れいなも気付いたらしい。
「誰かいるはずじゃない?」
朝の会が始まる。
先生が出席簿を開く。
「じゃあ、点呼します」
名前が順に呼ばれていく。
「一ノ瀬」
「はい」
「神谷」
「はい」
「宵町」
「はい」
いつも通り。
……のはずだった。
「白石」
返事がない。
先生が顔を上げる。
「白石さん?」
教室のあちこちで視線が動く。
すると、窓際の空いた席の近くから、かすかな声がした。
「……はい」
そこに。
子供がいた。
白いリボンを結んだ、同じ年頃の女の子。
だけど、カクリは今の返事を聞いた瞬間、少しだけ背筋が冷えた。
その声が、教室の誰にも届いていないみたいだったからだ。
先生は首を傾げる。
「……あれ?」
「今、返事した?」
「してませんよ」
前の席の男の子が笑う。
「先生、寝ぼけてるんじゃないですか?」
教室は少しだけ笑いに包まれる。
けれど、カクリは笑わなかった。
その女の子だけ、見えている空気が違う。
白いリボンの子は、机の上に何も置かず、手だけを膝の上に揃えて座っていた。
ランドセルの名札には、何も書かれていない。
いや。
書かれているのに、読み取れない。
カクリの胸の奥に、またあの感覚がよみがえる。
病院の記録庫で感じた、空白の匂い。
ここにもある。
名前が抜け落ちている。
◇
休み時間。
カクリは白いリボンの子の席のそばへ行った。
すると、その子が顔を上げる。
「……見えるんだ」
「うん」
「やっぱり」
女の子は少しだけほっとしたように肩を下ろす。
「わたし、白石」
「……白石、なんだ」
「うん」
でも、名前を言う時でさえ、どこか頼りない。
カクリはその机を見た。
教科書の端に、鉛筆で何か書いた跡がある。
消しゴムで何度も消されたような薄い線。
「ここ」
「ずっと、空いてるの?」
白石は小さく頷く。
「そうみたい」
「朝になると、みんな忘れる」
「昨日も、わたしいたのに」
「今日になると」
「『いなかった』ことになる」
れいなが目を丸くする。
「え、なにそれ……」
白石は少しだけ笑った。
「だから、変なんだよ」
「この学校」
「……」
「でも、昨日の夜だけは」
「わたし、見えたの」
「紙切れ、落ちてた」
カクリとユイの目が同時に動く。
「紙切れ?」
白石は頷く。
「白い紙」
「『また、夜に』って」
「『次は、学校で』って書いてあった」
「それ、どこで見たの?」
「校舎の裏」
その言葉に、カクリの胸が静かにざわついた。
学校の裏。
昼間は誰も行かない場所。
草が伸び、古い倉庫が一つある。
そこは、今まで何度も通り過ぎたのに、一度も気にしたことがなかった。
ユイが白石を見た。
「その紙、まだある?」
「うん」
「見せて」
白石は少し迷ってから、ランドセルの内ポケットから折りたたまれた紙を取り出した。
それは、病院で見たものとよく似ていた。
けれど、端が少しだけ黒ずんでいる。
まるで、昼の中で夜が滲んだみたいだった。
カクリが紙を見る。
そこには、たった一行。
『忘れものを、取りに来て』
全員の空気が止まった。
「……忘れもの?」
れいなが小さく呟く。
白石はうなずく。
「わたし、何を忘れたのかわからない」
「でも」
「これを見たら」
「思い出せる気がした」
その時、教室の後ろで、黒板がきぃ、と鳴った。
誰も触っていないのに、白いチョークが一本、転がり落ちる。
コロリ。
それから、ゆっくりと。
黒板の真ん中に文字が浮かび始めた。
白い粉のような字。
『校舎の裏へ』
先生は気付いていない。
生徒たちはざわついていない。
その文字が見えているのは、カクリたちだけだった。
白石が青ざめる。
「……また」
「来る」
白い梟の声が、遠くから落ちてきた気がした。
『紙片反応』
『未回収』
『忘却媒体接触』
ユイが振り向く。
「どこから……?」
答えるように、教室の窓が一斉にカタカタと震えた。
外は晴れている。
なのに、窓ガラスの向こうにだけ、校舎の裏の影が長く伸びている。
その影の中に。
何かが立っていた。
背の高いもの。
顔は見えない。
けれど、白い紙束を抱いている。
先生の声が聞こえる。
「席に着きなさい」
朝の会は、何事もなかったように続いていた。
けれど、校舎の裏からの気配だけが、少しずつ近づいてくる。
白石が震える声で言った。
「……あれ」
「わたしの」
「忘れもの」
カクリは鋏を握り直した。
「行こう」
れいなが頷く。
「うん」
ユイも静かに立ち上がる。
「忘れものなら、取りに行かないと」
ユウは教室に来ていないはずなのに、どこかで見ているような気配だけを残していた。
そして。
白石の紙切れが、ふっと軽くなった。
まるで、校舎の裏が彼女を呼んでいるみたいに。
四人は教室を出る。
廊下を曲がるたび、昼の光が少しずつ薄くなる。
昇降口を抜け、校舎の角へ回ると。
そこには、誰も使わない古い倉庫があった。
錆びた扉。
ひび割れた窓。
そして、その前に。
白い紙の山が一つ、静かに積まれている。
白石が息を止める。
「……これ」
「わたしの字……」
紙の一枚が、風もないのにふわりとめくれた。
そこに書かれていたのは、たったひとこと。
『帰る名前』
その瞬間、倉庫の扉の向こうから、こんこん、とノックの音がした。
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