第108夜 「帰還の朝」
今日も少女は夜を歩く。
白が、ゆっくりとほどけていく。
最初の頁が閉じたあと、誰もすぐには声を出せなかった。
耳の奥に残っていた白い川の音も、紙が擦れる気配も、少しずつ遠ざかっていく。
そして。
ぱち、と小さな光がひとつ弾けた。
気づけば、足元は病院の床だった。
消毒液の匂い。
白い蛍光灯。
見慣れたはずなのに、さっきまでの深い頁の世界を知ってしまったせいで、病棟の廊下がやけに現実離れして見える。
「……戻った」
れいなが、へたり込むように座る。
「ほんとに……戻った……」
冬華も刀を下ろし、ゆっくりと息を吐いた。
「ええ」
「どうやら成功したようです」
総長は腕を組んだまま、苦笑する。
「成功、か」
「こんなに疲れる成功も珍しいのう」
白面の医師は静かにカルテを閉じた。
「夜域の再編が完了しました」
「これで、病棟の最初の頁は閉じています」
白い梟も、病院の天井近くで静かに羽をたたむ。
『接続解除』
『病棟夜域、安定化』
『起点前史、封印完了』
ユイはその場に立ち尽くしていた。
手の中には、まだ名札があった。
『YUI』
その裏に刻まれていた返還印は、もう淡くなり始めている。
隣ではユウが、自分の手を何度も見つめていた。
「……ぼく」
「ユウ……」
小さくつぶやくたびに、ちゃんと自分の名前が返ってくる。
そのことが、どうにも不思議らしい。
「ほんとに、戻ってる」
ユイがそっと笑った。
「うん」
「戻ってるよ」
ユウは少しだけ照れたように頭をかく。
「えへへ」
「忘れないようにしないと」
その言葉を聞いて、白面の医師がほんのわずかに目を細めた。
「忘れないこと」
「それが、いちばん難しいのです」
病室の扉が静かに開く。
外では、看護師たちが慌ただしく動いていた。
だが、先ほどまでの異様な緊張はもうない。
赤い非常灯も消え、普通の夜勤の病棟へ戻りつつある。
ただひとつ違うのは。
誰もが、何かを見落としたままではないという感覚だけだった。
ユイが一歩廊下へ出る。
そして、立ち止まる。
「……わたし」
「全部は、まだ戻ってない」
白面の医師は、否定しなかった。
「ええ」
「完全な回復ではありません」
「ですが、失われていたものの入り口には立てました」
「残りは」
「ご自身の時間で取り戻してください」
その言葉に、ユイは静かに頷いた。
「うん」
「ゆっくりでいい」
「カクリがいてくれるから」
カクリは少し照れたように視線をそらす。
「……うん」
「いる」
その短いやり取りを見て、れいながふっと笑う。
「なんか、帰ってきた感じするね」
「そうですね」
冬華も微笑んだ。
「病院が、少しだけ普通に見えます」
総長も頷く。
「普通、か」
「まぁ……夜にしちゃ上出来じゃろ」
白い梟が低く鳴く。
『病棟夜域、再観測不要』
『ただし』
その一言で、空気が少しだけ引き締まった。
梟は続ける。
『記録庫深部、隠し頁未解決』
『微弱反応継続』
白面の医師がすぐに顔を上げた。
「……やはり、まだ残っていますか」
「え?」
れいなが首を傾げる。
「終わったんじゃないの?」
医師は静かに答えた。
「最初の頁は閉じました」
「ですが、病院の記録のすべてが消えたわけではありません」
「深部には」
「まだ“書き損じ”が残っている」
ユウが小さく身をすくめた。
「書き損じ……?」
「はい」
「書かれなかったもの」
「書きかけのまま残ったもの」
「それは、時々……夜を呼びます」
ユイは名札を握りしめた。
「また、誰かいるの?」
白面の医師は、否定とも肯定ともつかない顔をした。
「可能性はあります」
「ただ」
「今夜はもう」
「動けません」
それを聞いて、カクリが頷く。
「なら、今日は帰る」
その言葉に、白面の医師は少しだけ驚いたようだった。
「……帰る?」
「うん」
「姉ちゃん、休ませる」
ユイが小さく笑う。
「そうだね」
「眠いし」
「それに、ちょっとお腹すいた」
れいなが目を丸くする。
「え、こんな大変だったのに」
「うん」
「でも、お腹はすく」
それがあまりにも普通で、皆が思わず笑った。
白面の医師も、ほんの少しだけ口元を緩める。
「では」
「休んでください」
「今夜は、もう」
「病院の夜ではありません」
そう言われて、ユイは窓の方を見た。
外はまだ夜だった。
けれど。
さっきまで見ていた夜とは違う。
重くない。
名前のない空白ではない。
ちゃんと、朝へ向かっていく夜だった。
「……夜って」
「こんなだったっけ」
ユイの独り言に、白い梟が静かに答える。
『夜は一つではない』
『終わる夜もあれば』
『続く夜もある』
『戻る夜もある』
『歩く夜もある』
カクリがそれを聞いて、少しだけ笑った。
「歩く夜」
「うん」
「私、そっちがいい」
白い梟は、まるで頷くみたいに羽を一度震わせた。
そして。
病院の窓の向こう。
まだ暗い空の端に、ほんの薄く光が差し始める。
夜明け前。
ユイはそれを見つめて、静かに息を吐いた。
「……帰ろう」
カクリが頷く。
「うん」
ユウも手を振り上げる。
「いっしょに!」
れいなが元気よく続く。
「もちろん!」
冬華が荷物を持ち直し、総長が笑う。
「ようやく飯じゃな」
白面の医師は最後に一度だけ病棟の奥を振り返った。
その視線の先には、もう誰もいない。
けれど。
どこかで紙が一枚、静かにめくられるような気配だけが残っていた。
まだ終わってはいない。
だが。
今夜は、ここまでだ。
病院の廊下を歩き出す一行の後ろで、夜は少しずつ朝へ変わっていく。
そして、その夜を歩く少女は。
もう、ひとりではなかった。
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次回もお楽しみに




