第107夜 「書かないでと願うもの」
今日も少女は夜を歩く。
「……書かないで」
白い橋の中央。
空白の影が、かすれた声でそう言った。
その声は弱い。
けれど、弱いからこそ、ひどく切実だった。
ユイは息をのむ。
ユウも、手を握ったまま固まっている。
白い川が、足元で静かに逆流を始めた。
紙片が舞い上がり、夜のない空へ吸い込まれていく。
書き手は折れたペンを見下ろしたまま、長く沈黙した。
「……どうして」
やがて彼がそう呟く。
空白の影は、ぼやけた輪郭を揺らしながら答えた。
「書かれたら」
「ぼくは」
「消えるから」
その言葉で、場の空気が止まる。
総長が低く唸る。
「消える、じゃと?」
冬華が眉を寄せる。
「……もともと存在しないものだから、ですか」
白面の医師は静かに頷いた。
「おそらく」
「この影は」
「最初の一文からこぼれ落ちた“書かれなかった余白”です」
「余白……」
れいなが小さく繰り返す。
「じゃあ、書いたらだめなの?」
白面の医師は答えない。
その代わり、書き手がふっと笑った。
「書かなきゃ、終わらない」
空白の影が首を振る。
「終わらなくていい」
「……え?」
「終わると」
「ひとりになる」
その一言で、ユイの胸が痛んだ。
この場所にいる誰もが知っている感情。
置いていかれること。
名前が消えること。
呼んでも返事がないこと。
空白の影は、まるでそれを抱えたまま固まっているようだった。
書き手は目を閉じる。
「……そうか」
「お前は」
「終わりを拒んでいたのか」
影は小さく震える。
「ぼくが」
「止めてた」
「書いたら」
「みんな」
「いなくなる」
白い梟が、高くもなく低くもなく、淡々と鳴いた。
『文末阻害体』
『自己保存型空白』
『記述完了で消滅回避不能』
冬華が剣を握る。
「つまり、書かれたら消えると分かっていて」
「それでも止めているのですね」
『その通り』
梟は短く答えた。
白面の医師が前に出る。
「ですが」
「書かれなければ、病院の夜は閉じません」
空白の影は、ぴたりと止まった。
白面の医師は続ける。
「この頁は」
「最初の夜へ戻るための扉です」
「終わりの一文がなければ」
「起点はほどけません」
「ほどけなければ」
「あなたも」
「ずっとここに留まり続ける」
その言葉に、影の輪郭が揺れた。
「……ぼく」
「ずっと」
「ここにいるの?」
「ええ」
白面の医師は静かに答える。
「今のままでは」
「あなたは記録になりきれず」
「空白として残り続ける」
空白の影が、しゅんと肩を落とした。
「……いや」
「でも」
「ここにいないと」
「だれも」
「だれも」
「忘れちゃう」
ユウがそっと一歩前へ出る。
「忘れないよ」
空白の影が顔を上げる。
「……ほんと?」
「うん」
「ぼくはユウだよ」
「それ、覚えてる?」
影は少しだけ言葉を失った。
「……ユウ」
「うん」
「お姉ちゃんも」
「ユイ」
ユイが小さく頷く。
「そう」
「わたしはユイ」
「あなたが消えるなら、わたしが覚えてる」
その言葉を聞いた瞬間、空白の影は初めて、ほんの少しだけ人の形に見えた。
胸のあたりに、薄いしおりの輪郭が浮かぶ。
白い。
細い。
けれど、確かにそこにある。
しおり。
それは、さっき名付けられた名だった。
影はその名を聞くたびに、少しずつ形を保ち始める。
「しおり……」
「うん」
「ぼく、しおり?」
「そうなる」
白面の医師が静かに頷く。
「あなたは、終わりを止める空白ではありません」
「記録を戻すための目印です」
「書き手が道を失わないように」
「頁の間に挟まるもの」
「それが、あなたの役目だった」
空白の影――しおりは、ゆっくりと胸の前に手を当てた。
「……目印」
「だれかが」
「帰れるように?」
「ええ」
「だから、消えません」
しおりは、少しだけ泣きそうな顔をした。
「……なら」
「書いていい」
「でも」
「ひとりはいや」
書き手が、そこで初めてまっすぐ顔を上げた。
「一人にはしない」
「……」
「お前は、終わりを拒んでいたんじゃない」
「書かれていないまま、置いていかれるのが嫌だったんだ」
しおりは何も言えなかった。
だが、その沈黙こそが答えだった。
書き手は折れたペンを拾う。
「なら、最後の一文は」
「お前のために書く」
総長が低く息を吐く。
「だいじょうぶなのか」
白面の医師は短く答えた。
「危険です」
「ですが」
「やるしかありません」
カクリが鋏を構えた。
「守る」
白い梟が静かに翼を広げる。
『文末形成、再開』
『同調対象、ユイ・ユウ・しおり』
ユイは名札を胸に当て、うなずいた。
「書いて」
「わたしたち、いるから」
ユウも小さく拳を握る。
「ぼくも」
「いる」
しおりは、それを見て、ようやく頷いた。
「……うん」
「なら」
「ぼくも」
「いる」
書き手は深く息を吸った。
そして、白い川のほとりで、折れたペンを紙面に置く。
「最初の夜に」
「帰るための一文を」
そう呟き、ゆっくりと書き始めた。
文字は最初、震えていた。
けれど。
ユイが見ている。
ユウが手を握っている。
しおりが、頁の端でじっと支えている。
そのことで、文字は少しずつ太くなった。
白い川が音を立てる。
ぱしゃり。
白い波が、黒い空へひとつ跳ねた。
書き手は書く。
『ここに置かれたものは』
『ここで忘れられるためではない』
ユイが息を呑む。
白面の医師が目を細める。
『ここにいたものは』
『ここへ戻るために名を持つ』
総長が静かに刀を下ろした。
『名は消えず』
『名は結ばれ』
『名を呼ぶ者がいるかぎり』
『夜は、夜として終わる』
その一文が置かれた瞬間。
空白の影が大きく震えた。
「……終わる」
「でも」
「ひとりじゃない」
ユイがその影に手を伸ばす。
「一緒」
ユウも続く。
「一緒だよ」
しおりは、細い目印の姿のまま、ページの間に静かに浮かび上がる。
「……うん」
「なら」
「書いて」
書き手が最後の一語を置く。
『終わり』
その瞬間。
白い川が一気に静まり返った。
白い橋が崩れ、紙の空がほどける。
空白の影は、細い光となってしおりへ吸い込まれた。
ユイの胸元の名札が熱を持つ。
ユウが目を閉じる。
白面の医師が静かにカルテを閉じた。
白い梟が、高く、遠く、ひとつ鳴く。
『最初頁、閉鎖』
『起点修正完了』
『病院夜域、解放』
夜が、薄くなる。
書き手がゆっくりと顔を上げた。
もう白い川はない。
もう橋もない。
けれど、そこには確かに道が残っていた。
ユイはユウの手を取り、カクリがその背を押す。
「帰ろう」
白面の医師が小さく頷く。
「ええ」
「帰りましょう」
最初の頁が、静かに閉じていく。
その最後の隙間から、しおりの声が一度だけ響いた。
「……ありがとう」
そして、すべてが白に包まれた。
ここまで読んでくれてありがとうございます。
次回もお楽しみに




