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幽世断ちのカクリ 〜宵町カクリは夜を歩く〜  作者: れんP


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第106夜 「未完の一文」



今日も少女は夜を歩く。


頁がめくられた瞬間、世界は音を失った。


白い扉の先にあったのは、病院でも、最初の更地でもなかった。


ただ、広い白。


足元は紙のように薄く、踏みしめるたびにかすかな波紋が広がる。


遠くには、墨で描いたみたいな山並みが見える。


空は夜なのに、星がない。


ただ一筋の黒い川だけが、地平の端から端へ流れていた。


「……ここは」


ユイが息を呑む。


白面の医師は周囲を見渡した。


「“書く前”の場所です」


「書く前?」


冬華が眉を寄せる。


「はい」


「最初の夜が生まれる以前」


「病院の記録ができる前」


「言葉がまだ、紙の上で迷っていた頃です」


白い梟が、静かに羽を震わせた。


『前頁界』


『未記述領域』


『最深層未満』


総長が刀を下ろしたまま、低く唸る。


「深いのう……」


カクリは前を見た。


その先に、一人の男が立っている。


書き手。


あの、机に向かっていた人物だ。


だが、今度は机の前ではない。


白い川のほとり。


足元に散らばる無数の紙片を見下ろしている。


手には筆ではなく、折れたペン。


彼は振り返り、少し困ったように笑った。


「来たね」


「……」


カクリは一歩出る。


「ここ、どこ」


書き手は川の流れを見た。


「未完の一文の海」


「書ききれなかった言葉が、ここへ沈む」


ユウが小さく呟く。


「……ぼくの名前も?」


書き手は目を伏せた。


「うん」


「君の名前も、ここへ落ちた」


その言葉に、ユウの肩が揺れる。


ユイがすぐに抱き寄せた。


「でも、もう戻ってきたよ」


書き手は静かに頷く。


「戻ってきた」


「だから次へ行ける」


白面の医師が踏み出す。


「この場所は、まだ病院ではありません」


「けれど、病院の夜はここから始まった」


「何があったのです」


書き手は白い川を見つめたまま、ぽつりと言った。


「ぼくは」


「書けなかった」


「……何を」


「最後の一文を」


空気が止まる。


書き手は続けた。


「ここにいる子を、外へ出すための一文」


「でも、書くたびに消えた」


「誰かが」


「いや」


「何かが」


「言葉の先を食べていた」


白い梟が目を細めた。


『文末捕食』


『記述不能現象』


冬華が険しい顔になる。


「つまり……」


「終わりにできなかった、ということですか」


「うん」


「終わらないまま」


「最初の夜になった」


総長が唸る。


「そのせいで病院の夜が生まれたのか」


書き手は答えなかった。


代わりに、川の向こうを指差した。


「でも」


「まだ終わってない」


その先に。


白い橋が一本、かかっていた。


橋の中央には、黒い染みがある。


いや、染みではない。


文字だ。


書かれているのに、読めない。


見た瞬間、意味が逃げる。


白面の医師が目を見開く。


「……あれは」


「未完文の核」


「まだあるのか」


「ある」


書き手は静かに頷いた。


「最初の一文を飲んだものが、残ってる」


その瞬間、ユウがぶるっと震えた。


「……来る」


白い川がざわめく。


紙片が一斉に舞い上がる。


空白の風が吹いた。


橋の上の黒い染みが、ぴたりと脈打つ。


そして。


その中から、ゆっくりと誰かが起き上がる。


小柄な影。


顔はない。


白でも黒でもない。


“未完”のまま、人の形だけをしている。


それがこちらを見た瞬間、ユイの胸の名札が熱を持った。


「……っ」


「また、これ?」


れいなが身を縮める。


白面の医師が厳しい声を出す。


「下がってください」


「それは、書き手ではありません」


「……?」


「書かれる前の“抜け落ち”です」


空白が、人の形になったもの。


ユウが怯えたようにユイの背へ隠れる。


「ぼく……知ってる」


「え?」


「これ」


「名前を消したとき」


「そばにいた」


書き手の顔が強張る。


「……やはり」


「お前は、あれを覚えているのか」


空白の影は、ゆっくりと腕を伸ばした。


すると川の水面のような白い地面に、文字が浮かぶ。


『かえれ』


『かえれ』


『かえれ』


同じ文が繰り返されるたび、紙の世界が少しずつ歪む。


冬華が刀を構える。


「どういうことです」


白面の医師は低く言う。


「帰還命令です」


「この場所は、書かれなかったものを元へ戻そうとしている」


「元へ?」


「ええ」


「つまり」


「ここにいる者を、書く前の無名へ」


その瞬間、ユイがはっとする。


「そんなの、だめ!」


空白の影が、ぴたりと止まる。


ユイは橋の中央を見た。


黒い染み。


その奥で、かすかな声がした気がした。


――やめて。


誰かが、消えるのを拒んでいた。


「……誰」


ユイが呟く。


書き手は、苦い顔をした。


「その影は」


「ぼくが書き落としたものだ」


「書き落とした?」


「最後の一文を書く前に」


「何かを守ろうとして」


「別の何かを落とした」


白い梟が低く鳴く。


『文脈欠損』


『代償発生』


『起点前史に損傷』


総長が眉をひそめた。


「つまり、ここにも犠牲があったのか」


書き手は小さく頷く。


「うん」


「守りたかった」


「でも、救えなかった」


その言葉に、ユウがふるえる声で問う。


「ぼく……も?」


書き手は目を閉じた。


「君は、救えた」


「けれど」


「救うために、君の名前を使った」


「……!」


「そのせいで、空白が生まれた」


ユイが一歩踏み出す。


「じゃあ」


「戻す」


「何を」


「最後の一文」


白面の医師が目を見張る。


「……それは」


「危険です」


「文末を今ここで完成させれば」


「この頁そのものが閉じる」


「でも」


ユイは強く言った。


「閉じないと」


「ずっと誰かが消える」


その瞬間、書き手が初めてユイを正面から見た。


「君は……変わらないね」


「え?」


「昔から」


「怖くても、最後に踏み込む」


ユイの目が揺れる。


遠い記憶の断片。


雨の匂い。


白い布。


泣いている子供。


そして、自分の声。


――大丈夫。


もう忘れない。


書き手は折れたペンを握り直した。


「なら」


「最後の一文を」


「一緒に書いてくれる?」


総長が驚く。


「ここで、書くのか」


白面の医師も静かに頷いた。


「ええ」


「未完の一文は」


「誰かが引き受けることでしか閉じません」


ユウが小さく言う。


「ぼくも?」


「もちろん」


ユイが笑う。


「あなたの名前だから」


「あなたがいないと」


「書けない」


白い橋の上の空白の影が、ゆっくりと手を下ろした。


敵意はない。


ただ、待っている。


白面の医師はカルテを胸に当てたまま、静かに宣言する。


「では」


「起点前史、最終段階へ」


白い梟が大きく羽ばたいた。


『最終文、形成開始』


『文末保持者、同時接続』


そして。


書き手が、折れたペンを地面へ置く。


ユイが名札を胸に当てる。


ユウがその手を握る。


カクリが鋏を開く。


白い川が、静かに逆流し始めた。


橋の中央の黒い染みが、ゆっくりと振り返る。


まだ顔のないそれが。


初めてこちらへ、はっきりと声を返した。


「……書かないで」


その声は。


とても弱かった。


けれど。


その弱さこそが、いちばん危うかった。

ここまで読んでくれてありがとうございます。

次回もお楽しみに

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