第105夜 「しおりを結ぶ手」
今日も少女は夜を歩く。
「……やっと、名付け直されるのですね」
その声は、ページの向こうから聞こえていた。
白い指。
そして、その奥にいる“何か”。
けれど、今度の気配は先ほどまでとは違っていた。
冷たく、空白をばらまくような恐ろしさではない。
どこか。
長い時間をひとりで耐えた者の声だった。
ユウは青ざめたまま、その裂け目を見つめている。
「……こわい」
小さな声。
だが、逃げようとはしない。
ユイがそっと肩を抱いた。
「大丈夫」
「見えてるだけだから」
白面の医師は、カルテを胸に当てたまま静かに目を細める。
「……名を返したがっている」
冬華が刀を構え直した。
「名を返す?」
「ええ」
「記録から剥がれたものは、最後に呼び名を求めます」
総長が低く唸る。
「つまり、敵ではないのか」
白面の医師は一瞬だけ黙った。
「少なくとも」
「今は」
その時だった。
裂け目の奥から、白い手がもう一度現れる。
ゆっくり。
慎重に。
まるで相手の表情をうかがうように。
その手は指が多いのではなく、指の形をした細い札が何枚も重なったようだった。
紙と肉のあいだのようなもの。
そこへ、ユイが一歩だけ近付いた。
「……あなた」
白い手が止まる。
「わたし、名前を」
「返したいの」
沈黙。
そして。
あの優しい声。
「……では」
「あなたが、わたしを呼んでください」
ユイは息をのむ。
「名前を?」
「ええ」
「もう、自分では思い出せないのです」
その言葉に、白面の医師がわずかに顔をしかめた。
「記録の外側へ落ちた、か」
「……?」
「名を奪う役割を負わされたものは、自分の名も失うことがあります」
白い梟が短く鳴く。
『命名権、回復可能』
『ただし、対象の受諾が必要』
カクリが鋏を握ったまま、白い手を見た。
「ほんとに、名前がほしいの?」
「……はい」
「でも」
「もう、何だったか……」
白い手は小さく震えた。
「……長い間」
「記録を結び直していました」
「迷わないように」
「消えないように」
「だから」
「しおり、みたいなものです」
その言葉で、ユイの目が少しだけ見開かれる。
「しおり……」
「ええ」
「本と本のあいだに挟むものです」
「失くした頁へ戻るための」
「目印です」
カクリはそこで、ようやく分かった。
この白い手は、ただ名前を消すものではなかったのだ。
消した頁へ人を戻さないようにするための、あるいは戻すための、目印。
けれど。
その役目を誰かに押し付けられたまま、長い長い時間を彷徨っていた。
だからこそ。
今は名前を欲しがっている。
「……じゃあ」
ユイが少し考えたあと、静かに言う。
「あなたは」
「しおり」
白い手が、ぴくりと震えた。
「しおり」
ユイはもう一度呼ぶ。
「病院の本を、迷わないように結んでたんでしょ」
「だから、しおり」
「……」
「しおり」
その瞬間だった。
白い手の周囲に、ほのかな光が灯る。
指の一本一本がほどけるように細くなり、やがて白い細紐のような形へ変わっていく。
まるで、ページに挟む白い栞そのものだった。
白面の医師が息を止める。
「……なるほど」
「そういう形でしたか」
総長が刀を下ろした。
「本当に、手ではなくなったな」
れいなが目を潤ませる。
「きれい……」
ユウも、少しだけ安心したように見上げた。
「しおり……」
白い栞のかたちになったそれは、小さく揺れたあと、深く頭を下げた。
「……ありがとう」
「もう、忘れません」
それから、ゆっくりと。
しおりは裂け目の奥へ差し込まれた。
すると――。
頁が、一枚だけ音を立てて開いた。
ぱらり。
空白だったページの向こうに、古い光景が浮かぶ。
まだ病院ではない。
でも、もうただの更地でもない。
そこには古い机が一つあった。
墨の匂い。
紙束。
そして、机に向かって座る人影。
白衣ではない。
医師でもない。
書き手だった。
手元には、黒い筆と、何枚もの名簿。
そして机の前には。
小さな子供が一人、膝を抱えて座っている。
その子は顔を上げる。
そして、はっきりと見えた。
さっきまで病院の最初の頁にいた、あの子だ。
「……お姉ちゃん」
ユイが息をのむ。
白面の医師が低く言った。
「ここが、最初の一頁の裏です」
「……裏?」
「ええ」
「最初の夜の、さらに前」
「病院になる前の」
「“書く前”の場所です」
白い梟が静かに羽を広げる。
『隠し頁、完全展開』
『記録起点前史、再生』
冬華が目を細める。
「……まだ、あるんですね」
「はい」
白面の医師は机の上の書き手を見つめた。
「この人物が」
「病院を、最初に“夜”へ寄せようとした者です」
その書き手は、机の上の名簿に何かを書いていた。
けれど、書くたびに消える。
書くたびに消える。
何度も。
何度も。
そしてついに、その手が止まった。
子供がその書き手を見上げる。
「……まだ?」
書き手は少しだけ沈黙した。
やがて、深く息を吐く。
「……ごめん」
その声は、ユウたちが知る誰のものでもなかった。
けれど、なぜか。
とても懐かしかった。
「これ以上は」
「名前を」
「消せない」
子供が目を丸くする。
「え……」
書き手は、机の上の名簿をそっと閉じる。
そして、初めて子供の方へ視線を向けた。
「君を」
「置いていく方法を、選べなかった」
沈黙。
深淵の父すら、何も言わなかった。
ユイが、自分の胸を押さえる。
そこにある名札が、今までよりも少しだけ温かい。
「……この人」
「わたしが夢で見た人」
白面の医師は静かに頷いた。
「そうです」
「この人が」
「病院の夜を決めた、最初の書き手です」
子供が、机の上の名簿を見つめる。
「じゃあ」
「ぼくを」
「ここに置いたのも……」
書き手は目を閉じた。
「……ああ」
「ごめん」
「でも」
「もう、こうするしかなかった」
子供はしばらく黙っていた。
やがて、ぽつりと尋ねる。
「名前は?」
書き手はその問いに、はじめて顔を上げた。
「……忘れた」
「忘れたけど」
「君を呼ぶときだけは」
「まだ、覚えている」
子供の目が揺れる。
白い手――しおりが、そっと頁の端で揺れた。
そして、ユイの耳にだけ届くくらいの小さな声で言った。
「……もうすぐです」
「この頁の先で」
「本当に、帰れます」
ユイは息を吸う。
「うん」
「行く」
カクリも頷いた。
「うん」
その瞬間、書き手の背後の空白に、もう一つの文字が浮かんだ。
『まだ』
『続く』
白面の医師が、わずかに笑う。
「どうやら」
「最後の頁ではないようです」
白い梟が低く鳴く。
『次頁接続、準備』
『起点前史、さらに深層へ』
しおりが、ページの間で静かに光った。
そして。
書き手が、ほんの少しだけ優しい顔で言う。
「……行こう」
「最初の夜の、さらに向こうへ」
その言葉と共に、頁は再びめくられた。
ここまで読んでくれてありがとうございます。
次回もお楽しみに




