第104夜 「白い指が触れる前に」
今日も少女は夜を歩く。
白い指が、地面の裂け目から一本だけ伸びていた。
それはひどく細く、ひどく静かだった。
黒い影のような気配はない。
むしろ。
何もなさすぎて怖い。
「……ユウ」
子供が小さく震える。
その名を呼んだ瞬間、白い指がぴたりと止まった。
白面の医師の表情が鋭くなる。
「動かないでください」
冬華が刀を構え直す。
「……これは何です」
医師は白い指を見据えたまま、低く答えた。
「病院の“余白”です」
「余白?」
「はい」
「消された記録の、さらに外側」
「書き込みの失敗」
「名を失ったあとに残る空白」
白い梟が、羽を小さく震わせた。
『外層空白体』
『認識接触で記憶剥離』
れいなが青ざめる。
「記憶が……剥がれるの?」
「ええ」
白面の医師は頷いた。
「触れられてはいけません」
その時。
白い指が、ゆっくりと折れた。
人差し指の先が、空中でカリ、と見えない何かを書き付けるように動く。
すると。
空気に薄い文字が浮かび上がる。
『ユウ』
ユウの身体がびくっと跳ねる。
「……ぼく?」
「だめ!」
ユイがすぐに腕を伸ばしたが、白面の医師が制した。
「触らないでください」
「今のは罠です」
「名前を読ませてから、回収する」
白い指は、まるでその言葉を待っていたかのように、するりと地面の裂け目からさらに伸びた。
一本。
二本。
三本。
指先だけが、空白の中から増えていく。
そのたびに、周囲の音が減っていく。
風の音が消える。
紙の擦れる音も消える。
れいなが慌てて口を開いた。
「えっと、あの、ユウくん!」
声は出た。
けれど、耳に届くはずの響きがどこか遠い。
まるで声が綿に吸われているみたいだった。
白い指が、今度はユイを指した。
『ユイ』
文字が浮かぶ。
ユイは一瞬だけ息をのむ。
「……っ」
胸の名札が熱い。
白面の医師が、わずかに眉を寄せた。
「姉妹の名を、同時に抜こうとしている」
総長が低く唸る。
「厄介な」
「名前を奪うにしても、やり方があるじゃろう」
「これは」
「“戻し”に近い」
冬華が問い返す。
「戻し?」
「ええ」
医師は白い指を見つめた。
「失われた名を、元の空白へ押し返そうとしている」
「……!」
「つまり」
「この指は“消し去る”のではなく」
「“なかったことにする”」
一瞬、皆の背筋が冷えた。
なかったことにする。
存在したことすら否定される。
それは消すより恐ろしい。
カクリは鋏を握り直した。
「ユウ」
「うん?」
「自分の名前、言える?」
子供は唇を震わせる。
「……ゆう」
「もう一回」
「ゆう」
白い指がぴくりと動く。
その名を聞くたびに、白い文字の輪郭がかすかに歪む。
白面の医師が短く言う。
「有効です」
「呼び続けてください」
「名前は、呼ばれることで形を保つ」
ユイがすぐに続けた。
「ユウ」
「ユウ」
「あなたはユウ」
子供の目に、少しだけ光が戻る。
だが白い指は諦めない。
地面の裂け目から、もう一本。
また一本。
空白の手が増えていく。
五本。
六本。
七本。
それらはどれも細い指だけなのに、まるで巨大な手のように見えた。
そして。
一本が、すっとユウの額へ向かって伸びる。
「っ!」
カクリが飛び出した。
鋏を振るう。
ギィン!
だが切った感触がない。
指はあるのに、刃がすり抜ける。
「切れない!?」
『物質じゃねぇ!』
はっちゃんの声が低い。
『概念だ!』
白面の医師がすぐに札を放つ。
「境界札」
札が白い指へ張りつき、紙のように揺れる。
しかし次の瞬間、札そのものが真っ白になる。
文字が消えた。
「やはり」
医師は舌打ちせず、ただ冷静に言う。
「文字を抜く力に、術式は弱い」
白い指は、ユウの額すれすれで止まった。
そして。
ささやく。
声は指そのものからではない。
記録庫の壁、棚、床、古いカルテ、全部から同時に漏れた。
「……ここに」
「書かれていないものは」
「戻りなさい」
その声は優しかった。
優しいからこそ、恐ろしかった。
ユウの目が一瞬だけぼんやりとする。
「……戻る?」
「ぼく……」
「どこへ……」
ユイが叫んだ。
「だめ!」
「ユウ、聞いちゃだめ!」
「あなたはここにいる!」
ユウの視線が揺れる。
白い指が、その揺れを見逃さない。
今度は、名札を持つユイへ向いた。
『ユイ』
白い文字が、さらに濃くなる。
ユイの肩が震えた。
「……わたし」
「思い出す……」
「だめ!」
カクリがユイの肩を支える。
「姉ちゃん!」
白面の医師が険しい声を出す。
「いけません」
「これは、記憶の同調を利用した引き込みです」
「相手が“忘却”を使う前に」
「こちらが“今ある名前”を固定しなければならない」
冬華が一歩前に出た。
「固定とは」
「どうやるんです」
白面の医師は一瞬だけ沈黙した。
そして。
静かに言う。
「書くのです」
「……?」
「この空白に」
「彼らの名を」
総長が眉をひそめる。
「どういう意味じゃ」
医師は地面の裂け目を指した。
「白い指は空白から伸びています」
「なら」
「空白に、今の名を上書きする」
「そうすれば、戻しを止められる」
れいなが息を呑む。
「でも、誰が書くの?」
その時。
ユイが名札をぎゅっと握りしめた。
「わたし」
白面の医師が目を細める。
「あなたは」
「消された記録を覚えている」
「この子を呼び戻した」
「書く資格があります」
ユイは深く息を吸った。
そして、白い指をまっすぐ見た。
「ユウ」
「……」
「ユイ」
「……」
「ここにいる」
白い指が、初めて大きく震えた。
記録庫の最下層から、ぱらぱらと紙片が降ってくる。
空白だった紙に、ひとつずつ文字が浮かぶ。
『ユウ』
『ユイ』
『ここにいる』
『帰らない』
『消えない』
白い梟が低く鳴いた。
『上書き成功率上昇』
『空白体、反応低下』
白い指が、ぎゅっと丸まる。
まるで殴られたみたいに。
そして、空白の裂け目の向こうから。
今度は別のものがのぞいた。
白い。
もっと大きい。
一本の指ではない。
手首。
いや、腕。
何かが、裂け目の奥から、ゆっくりとこちらを見上げている。
白面の医師が息を止めた。
「……来た」
冬華が刀を構える。
「何です」
医師はその正体を見て、初めて声を失った。
「空白を作った者です」
「……!」
「名前を消すことを役目にした」
「最初の手」
ユイが息をのむ。
「最初の手……」
裂け目の奥で、白い何かがゆっくりと笑ったように見えた。
その瞬間、ユウが小さく声を上げる。
「……ぼく」
「知ってる」
全員が振り向く。
ユウは蒼白な顔のまま、裂け目の奥を見つめていた。
「この手……」
「見たことある」
「病院じゃない」
「もっと前」
「……前?」
ユウは震えながら、言葉を探す。
「ぼくが」
「最初に名前を消された時」
「そばにいた」
白面の医師の顔が変わる。
「……記録監ではない」
「では……」
ユウはかすれた声で続けた。
「手じゃなくて」
「声だった」
「ずっと」
「『静かにしなさい』って」
その瞬間。
記録庫の最奥に、もう一つの気配が現れた。
誰かが。
白い指の向こうで。
こちらを見ている。
そして。
とても優しく、静かな声で言った。
「……やっと」
「名付け直されるのですね」
ここまで読んでくれてありがとうございます。
次回もお楽しみに




