第103夜 「ほどけた夜の息」
今日も少女は夜を歩く。
ギギギギ……。
地面から抜けた古い杭が、乾いた音を立てた。
その瞬間。
夜が、ひとつ息を吐いた。
深く。
長く。
まるで何十年もこらえていたものが、ようやく外へ漏れたみたいに。
周囲の空気がゆっくりとほどけていく。
黒い札が千切れ。
土の中に潜んでいた黒い手が一斉に引きつった。
「……っ!」
ユイが思わず後ずさる。
子供は小さな身体を強ばらせたが、カクリがすぐ隣で鋏を構えたまま立っているのを見て、ぎゅっと目を閉じた。
「大丈夫」
「うん……」
白い梟が上空で羽を広げる。
『起点杭、除去確認』
『最初の夜、解放進行中』
白面の医師が静かに周囲を見回した。
「……ここからです」
「杭を抜いただけでは終わりません」
冬華が刀を構えたまま問う。
「何が起こるのです」
医師は、夜の空を見上げる。
「封印されていた“病院の夜”が、ようやく形を失います」
「その反動で」
「ここに残っていた最初の記憶が」
「流れ出す」
その言葉と同時に。
地面の割れ目から、細い光が漏れた。
白でも金でもない。
もっと古い。
紙が焼ける直前のような、淡い色だった。
光は一本。
また一本。
そして、無数。
土の割れ目、杭の抜けた穴、札の千切れたすき間から、記憶のような光が次々と立ちのぼる。
そこへ。
小さな声が混じった。
「……あ」
子供が目を丸くする。
「聞こえる」
「なにが?」
ユイが抱き寄せながら問うと、子供は震える唇で答えた。
「みんな……」
「いる」
「……?」
「ぼくが」
「忘れてた人たち」
その瞬間、光のひとつが空へ伸び、薄く人の形を結んだ。
若い女性。
腕に包帯を巻いた老人。
紙風船を持つ少年。
顔はぼやけているのに、そこに“いた”と分かる。
記録からこぼれた人たちだった。
ユウが息を呑む。
「……名前」
「戻ってきてる」
白面の医師が頷く。
「ええ」
「起点がほどければ、失われた記録も浮上します」
「ここは、忘却の底でしたから」
総長が刀を下ろし、呟く。
「まるで、夜に埋もれておったものが」
「ようやく水面に浮いたようじゃな」
れいなが目を潤ませる。
「こんなふうに……」
「消えたままじゃないんだ」
その時だった。
杭の抜けた穴から、ふたたび黒い影が這い出した。
先ほどよりも薄い。
けれど、まだ残っている。
名前を消す仕事を押し付けられた“下請け”だったものだ。
それは杭を失ってもなお、必死に夜へしがみついていた。
「……返せ」
かすれた声。
「ここは、まだ」
「まだ……」
冬華が眉をひそめる。
「しぶとい……」
白面の医師は札を一枚取り出した。
「いえ」
「まだ残っているのは」
「本体の意思です」
「……?」
「杭は起点」
「しかし」
「本当に夜を支えていたのは、記録を消し続ける“役割”です」
そう言って、医師は空へ浮かぶ光を見た。
消えた患者たちの記憶が、いま小さな流星のように夜を漂っている。
黒い影はそれを見上げ、焦ったように手を伸ばした。
「戻れ……」
「名を、消せ……」
だが、もう遅い。
ユイがはっきりと声を出した。
「だめ」
影が止まる。
「ここにいる人たちの名前は」
「消させない」
その声に、子供も続いた。
「ぼくの名前も」
「ユウだ」
影の輪郭が、ぶるりと揺れた。
ユウ。
ユイ。
似た音が、記録の底で反響する。
「……ユウ」
影が呟く。
「……まだ」
「残ってる」
白い梟が冷たく告げた。
『空白核、残存』
『記録消去体、下位反応』
『最終抹消、未完了』
白面の医師が静かに答える。
「やはり」
「起点がほどけても、空白そのものは残る」
「消したものを“消したままにする”意志です」
総長が唸る。
「つまり、まだ終わっておらんのか」
「ええ」
医師は言った。
「ですが、今はそれよりも先に」
「この子を」
「記録の外へ出さなければ」
子供がその言葉に目を丸くする。
「……外?」
「はい」
「最初の頁に閉じ込められたままでは」
「あなたはまた“始まり”として固定されてしまう」
「でも」
「今なら」
「記録の外へ出られます」
カクリが鋏を下ろした。
「出る」
「……ほんとに?」
「うん」
「外、見てみたい」
ユイが笑う。
「一緒に行こう」
光がさらに強くなる。
夜の空へ立ちのぼった記憶の粒が、やがてひとつの道を作り始めた。
それは病院へ続く道ではない。
過去でもない。
最初の夜から抜け出すための道だった。
白面の医師が子供へ手を差し出す。
「さあ」
「ここから先は、あなたの記録です」
子供は少しだけ怖そうにした。
でも。
ゆっくりと、その手を取る。
「……ほんとに」
「名前、残る?」
「ええ」
「ユウとして、残ります」
その一言で、子供の目から涙がこぼれた。
「……よかった」
「じゃあ」
「ぼく」
「行く」
そう言って、ユイの手を握ったまま、子供は光の道へ踏み出した。
その瞬間――。
夜が、もう一度うねった。
ゴォォォォ……。
空の上に浮かんでいた記憶の粒が一斉に揺れる。
そして。
夜の奥。
地面の影のさらに下。
抜けた杭の跡よりももっと深いところから。
かすかな笑い声がした。
「……見つけた」
全員の表情が変わる。
白面の医師が目を細める。
「まだ、いる」
冬華が刀を構え直す。
「今度は誰です」
答えはなかった。
代わりに、地面の裂け目から、白い指が一本伸びてくる。
それは先ほどまでの黒い手ではない。
真っ白だった。
まるで紙の裏側みたいに、冷たく、薄く、感情のない指。
その指先は、ゆっくりとユウへ向けられた。
「……ユウ」
子供が震える。
「ぼく……」
白面の医師が一歩前に出る。
「下がってください」
白い梟も鋭く鳴いた。
『再接触体、識別不能』
『警戒最大』
夜が、再び深くなる。
ほどけたはずの夜が。
別の場所で。
また静かに、誰かを見つけようとしていた。
ここまで読んでくれてありがとうございます。
次回もお楽しみに




