第101夜 「最初の夜のはじまり」
今日も少女は夜を歩く。
白い扉が、静かに開いた。
最初の頁へ続くその入口は、紙でできた扉なのに、触れた瞬間だけひどく重かった。
まるで、長い年月ぶんの夜を押し返しているみたいだった。
「……行ける」
白面の医師が低く言う。
「ですが、戻れる保証はありません」
総長が刀を肩に担ぎ直した。
「今さらじゃ」
冬華も頷く。
「進みましょう」
ユイは名札を胸に抱きしめ、ユウはその袖をぎゅっと掴んでいる。
カクリも巨大断ち鋏を握り、白い扉の先を見た。
そこには、病院ではなかった。
最初はそう見えた。
けれど、すぐに気付く。
まだ建物になっていない。
瓦礫。
杭。
木材。
土の匂い。
薄暗い夜の空。
その地面に、一本だけ立った古い柱があった。
柱には、黒い紙札が何枚も結ばれている。
風に揺れるたび、札がかすかに鳴った。
しゃら……しゃら……
誰も喋らない。
目の前の光景があまりに“前”すぎて、言葉を失っていた。
白い梟が小さく鳴く。
『時系列接続成功』
『最初の頁、現地化』
冬華が周囲を見回した。
「ここは……」
「病院が建つ前、ですか」
白面の医師は静かに頷く。
「ええ」
「病院は、ここに建ったのです」
「この場所はもともと、更地ではありませんでした」
「……何があったのですか」
医師は少しだけ黙る。
そして、一本の杭の先を見た。
「最初の夜です」
その言葉で、空気が変わる。
夜は夜でも、病棟の夜とは違う。
もっと生々しい。
もっと未完成。
何かが始まる前の、息を潜めた夜だった。
ユイが小さく呟く。
「……人が、いる」
その先。
薄暗い地面の向こうに、小さな家が一軒だけ建っていた。
いや、建っていたというより、急ごしらえで置かれた小屋に近い。
板張りの壁。
半開きの戸。
そこから、微かに灯りが漏れている。
カクリは目を細めた。
「誰かいる」
すると、白面の医師が答える。
「います」
「ここに最初に置かれた者です」
総長が眉をひそめる。
「最初の子、か」
「はい」
一行はゆっくりと小屋へ近付いた。
すると、戸の内側から、かすかな声がした。
「……だれ」
小さい。
震えている。
ユウがびくっとする。
「……ぼくと、同じ声だ」
ユイがしゃがみ込む。
「大丈夫」
「こわくないよ」
戸が、きぃ、と軋んで開く。
そこにいたのは。
子供だった。
五歳ほどの小さな子。
古い白い着物のような服を着ている。
髪は黒く、肩で切り揃えられていた。
けれど、顔は見えない。
見えないというより、見れば見るほど“思い出せなくなる”。
さっきの記録監に似ているが、違う。
こちらはもっと弱く、もっと細い。
まるで夜に飲み込まれかけた小さな灯火だった。
「……やっと」
その子が、ゆっくり口を開く。
「来てくれた」
ユイの顔が一瞬で強ばった。
「……この声」
白面の医師が静かに言う。
「覚えているのですね」
ユイは頷けなかった。
頷く前に、何かが胸の奥でひび割れたからだ。
遠い記憶。
雨の夜。
病院の建つ前のこの場所。
誰もいないはずの土地で、ひとりで座っていた子供。
「お姉ちゃん」
と、呼ばれた気がした。
でも、その時はまだ、自分は誰かを救えるなんて思っていなかった。
子供が、ユイを見上げる。
「お迎え」
「来ると思ってた」
ユウが不安げにユイの袖を引く。
「この子……」
「うん」
ユイは震える声で返した。
「知ってる」
「でも」
「名前が……」
その子供は、少しだけ悲しそうに笑った。
「ないよ」
「え?」
「消されたの」
「はじめから」
「ここに置かれた時から」
白面の医師が目を閉じる。
「やはり」
「そういうことですか」
総長が低く問う。
「どういうことじゃ」
医師は小屋の周囲を見た。
杭。
札。
薄い縄。
簡素な結界。
それらを指差す。
「ここは、病院を建てる前の“封じ場”でした」
「病気を」
「災いを」
「人の記憶から外したものを」
「ここへ集めていた」
「そして、その最後に」
「この子が置かれた」
空気が静まる。
子供は小さく頷いた。
「ぼくがいると」
「夜が静かになるって」
「言われた」
れいなが息をのむ。
「そんな……」
「だから名前を消したの?」
「うん」
「名前があると」
「帰っちゃうから」
「帰っちゃう?」
子供は目を伏せた。
「みんな」
「ここにいるの、嫌がった」
「ぼくも」
「こわかった」
「でも」
「ひとりはもっとこわかった」
カクリが一歩、踏み出す。
「ひとりじゃないよ」
子供が顔を上げる。
「……ほんと?」
「うん」
「もう」
「病院がある」
「みんな、ここにいる」
「でも」
「ここが始まりなら」
「終わりに戻さないと」
白い梟が短く鳴く。
『真名接続対象確認』
『起点個体、情動安定化中』
冬華が眉を寄せる。
「本当に、この子が始まり……」
「はい」
白面の医師は答えた。
「この子を“ここに置く”という記録が」
「最初の夜です」
「そして、ここから病院は夜を覚えた」
ユイが自分の胸を押さえる。
思い出したくて、思い出したくなくて。
それでも、忘れられないものがある。
「……わたし」
「この子に」
「何か言った」
子供が、じっとユイを見る。
「うん」
「言ってくれた」
「名前を呼ぶって」
「消えないって」
その瞬間、ユイの瞳から涙がこぼれた。
「……ごめん」
「ずっと」
「忘れてた」
子供は首を横に振る。
「いいよ」
「だって」
「お姉ちゃんも、泣いてた」
「ぼくが」
「泣かせたくなかった」
「……」
その言葉は、とても小さかった。
けれど、ここにある夜のどれよりも重い。
白面の医師が小さく息を吐く。
「なるほど」
「あなたが最初の頁に残っていた理由が、ようやく繋がりました」
総長が顔をしかめる。
「何がじゃ」
「この子は、消されたのではありません」
「……?」
「消される“役目”を押し付けられたのです」
冬華が目を見開く。
「役目……?」
医師は頷く。
「病院の夜を安定させるための」
「最初の犠牲」
「人の記録から外され」
「存在しないことにされ」
「でも」
「それでも」
「この子は、ここに残った」
ユウが小さく呟く。
「だから、夜……」
子供が彼を見て、うっすらと笑った。
「うん」
「ぼく、夜になった」
「でも」
「こわかった」
「だから」
「誰かに見つけてほしかった」
カクリは、ゆっくりと鋏を下ろした。
「見つけたよ」
その言葉に、子供の肩が大きく震える。
「……ほんと?」
「ほんと」
「じゃあ」
「おわり?」
白面の医師は静かに答えた。
「いいえ」
「ここからです」
彼は小屋の背後を見た。
子供の背後。
そこには、もう一本、地面に半分埋まった杭がある。
その杭だけ、札が一枚も結ばれていない。
代わりに、黒い紙が巻きついていた。
『封印解除禁止』
『返還不能』
『最初の頁保持』
白面の医師の声が低くなる。
「最初の夜を閉じるには」
「この子を連れて帰るだけでは足りません」
「この場所そのものに、結び直しが必要です」
「……結び直す?」
「はい」
「病院の夜を、ここへ戻すのではなく」
「ここから離す」
「それが必要です」
総長が刀を握り直す。
「つまり」
「この子を救いながら」
「夜の起点も断つと?」
「ええ」
白い梟が静かに目を開く。
『最終工程、開始条件成立』
『起点分離可能』
『ただし』
『代償発生』
その一言で、空気が冷えた。
冬華が問う。
「代償とは」
白面の医師は子供を見た。
「この子の」
「“最初の記憶”を」
「一部、失います」
子供が不安そうに目を丸くする。
「……ぼくの」
「記憶?」
「はい」
「ここで夜を覚えた記憶です」
「消えるでしょう」
それを聞いて、ユイが強く首を振った。
「だめ」
「思い出したのに」
「また消えるなんて」
子供は少し困った顔をする。
「でも」
「忘れたままじゃ」
「夜、終わらないんでしょ」
ユイは答えられない。
子供はそれを見て、すっと笑った。
「じゃあ」
「大丈夫」
「ぼく」
「また見つけてもらうから」
その言葉に、全員が息を呑む。
あまりにまっすぐで。
あまりに幼くて。
あまりに優しかった。
カクリは、子供の前にしゃがんだ。
「見つける」
「何回でも」
「ほんと?」
「ほんと」
「約束」
「うん」
子供は少しだけ安心した顔をした。
そして。
小さな手を差し出す。
「……じゃあ」
「いっしょに」
「ここ、ほどいて」
カクリはその手を握った。
暖かかった。
夜にしては、驚くほど。
白い梟が大きく翼を広げる。
『起点分離、開始』
『最初の頁、再封印』
『病院夜域、起源修正』
その瞬間。
地面の杭が、一本ずつ抜け始めた。
ここまで読んでくれてありがとうございます。
次回もお楽しみに




