第99夜 「隠し頁の向こう」
今日も少女は夜を歩く。
『まだ』
『終わっていない』
その一行が、記録庫の最奥で静かに脈打っていた。
白い梟が翼を強く震わせる。
『隠し頁反応』
『未捕捉』
冬華が刀を構えたまま、ゆっくりとその文字を見つめる。
「……誰が書いたのです」
白面の医師は答えない。
答えられない、という顔だった。
カクリの姉も、ユイも、ユウも、皆その一行を見ていた。
終わったはずの記録庫。
空白は埋まり、名前は戻り、最終頁保持者も消えた。
それなのに。
まだ。
終わっていない。
ユウが小さく震える。
「……ぼく」
「なにか」
「見たことある」
「どこで?」
ユイが尋ねると、ユウは記録庫の棚の上を見上げた。
「もっと前」
「もっと……暗いところ」
「誰かが」
「ページをめくる音」
「……」
白面の医師の瞳が細くなる。
「記憶の深層に触れていますね」
「いけません」
「それ以上は」
だが遅かった。
その瞬間、記録庫の床が静かに割れた。
パキ……。
音は小さい。
けれど、そこから広がる気配はとてつもなく重い。
白い紙の隙間。
そこに、もう一枚。
もっと古い頁がのぞいていた。
黄ばんだ紙。
縁が焦げている。
一見して、病院の記録とは違う。
もっと個人的で。
もっと秘密めいている。
白い梟が低く鳴く。
『隠し頁、開放』
『病院記録外文書、検知』
総長が険しい顔をする。
「病院の記録の外に、まだ何かあるのか」
白面の医師はようやく口を開いた。
「……あります」
「何です」
冬華の問いに、医師はごく静かに答えた。
「病院を作った者の記録です」
一瞬、空気が凍る。
れいなが小さく呟いた。
「……病院を、作った人?」
「はい」
「この病院は、ただ建てられたのではありません」
「ある“意志”をもって」
「最初の設計が始まった」
「その記録が、隠し頁です」
姉が眉をひそめる。
「じゃあ、最初から変だったの?」
「ええ」
「病院の夜は」
「建物が古くなってから生まれたのではありません」
「最初から」
「夜を抱く構造だった」
カクリはその言葉を聞きながら、ずっと黄ばんだ紙を見ていた。
不思議だった。
見ていると。
胸の奥がざわざわする。
その感覚に気付いたのか、白面の医師が静かに言う。
「あなたは見えているのですね」
「……何が?」
「隠し頁を読む資格がある者です」
「資格?」
「この病院に“呼ばれた”者だけ」
カクリが少しだけ目を丸くする。
「呼ばれた……?」
その言葉に、白面の医師は一度だけ頷いた。
「ええ」
「あなたのお姉さんもそうですが」
「この病院は、時々“夜を歩く者”を呼びます」
「迷子」
「あるいは」
「夜を見ても壊れない者」
その時、ユイが小さく手を挙げた。
「……わたしも?」
医師は彼女を見る。
「あなたは少し違います」
「あなたは、消された側に立ちながら」
「なお記録を残そうとした」
「だから、記録庫があなたを覚えています」
ユイは胸の名札を抱きしめた。
「……よかった」
そんなふうに笑った。
その笑顔を見て、カクリはふと気付く。
この場所には。
もう、怖いだけのものは少なかった。
怖さの奥に。
悲しみや、忘れられた記憶や、行き場のない想いがある。
それを知ってから。
夜は、少しだけ違って見える。
白面の医師が前へ出る。
「隠し頁を開きます」
「ですが」
「中にいるものに、触れてはいけません」
「触れたらどうなるの」
れいなが尋ねると、医師は少しだけ目を伏せた。
「病院の“最初の夜”が戻ってきます」
「……最初の夜?」
「はい」
「病院が病院になる前」
「病室が病室になる前」
「患者が患者になる前」
「そこにいたものが、出てくる」
総長が低く唸る。
「つまり、始まりか」
「ええ」
白面の医師は黄ばんだ頁へ手を伸ばした。
「病院の夜は、終わりではありません」
「始まりを知らなければ」
「閉じることもできない」
そして。
頁をめくる。
ぱらり。
一枚だけの黄ばんだ紙。
そこには、たった数行しか書かれていなかった。
だが、その文字を見た瞬間。
姉が息を呑む。
「……これ」
「読めるの?」
ユイが震えながら問う。
姉は目を見開いたまま、かすかに頷いた。
「うん」
「たぶん」
「わたし……見たことある」
ページの一番上。
古い筆跡で、こう書かれていた。
『ここに病を留めよ』
『ここに夢を繋げよ』
『ここに帰れぬ者を集めよ』
『夜は、この病棟に宿る』
冬華の顔が険しくなる。
「……呪式?」
白面の医師は頷いた。
「設計図です」
「病院そのものを夜に寄せるための」
「最初の呪い」
白い梟が警告する。
『危険接近』
『ページ内生命反応』
『起動前個体、覚醒』
その時だった。
黄ばんだ頁の文字の下から、じわりと黒い染みが浮かび上がる。
インクではない。
何かが。
下にいる。
書かれる前から、ページの奥に潜んでいる。
カクリが一歩近付く。
「……なにかいる」
白面の医師が叫ぶ。
「触れないで!」
だが、カクリはもう見ていた。
頁の奥に、小さな人影がある。
子供。
とても小さい。
病院のものではない古い服。
顔は見えない。
いや。
見えないのではない。
読めない。
認識しようとすると、視線が紙の表面に滑ってしまう。
『ページ内生命反応』
『最古個体』
白い梟が静かに告げる。
『記録起点』
『最初の夜の住人』
冬華が息を呑む。
「最初の夜の住人……」
「そんなものが、まだいたのですか」
その小さな人影は、紙の上で静かに膝を抱えていた。
そして。
かすれた声で笑った。
「……やっと」
「みつけてくれた」
その声は。
白面の医師のものでも。
記録監のものでもない。
ユウもユイも、知らない。
けれど。
姉だけは。
その音を聞いた途端、身体を固くした。
「……この声」
「知ってる」
「え?」
カクリが振り返る。
姉はページを見つめたまま、蒼白な顔で呟く。
「夢の中で」
「ずっと」
「呼んでた声」
白面の医師の表情が一変する。
「まさか」
「それは」
「設計者ではありません」
「では?」
医師は黄ばんだ頁を見て、声を失った。
「……病院を最初に夜へ結びつけた者」
「病院の夜の“最初の患者”」
「そして」
「今も、記録庫の根っこにいるものです」
総長が低く唸る。
「患者、じゃと?」
白面の医師は、しばらく黙ってから言った。
「いいえ」
「患者ではありません」
「この病院に“預けられた”子です」
その一言で、場の空気が変わる。
ユウが首を傾げる。
「預けられた……?」
医師は頷いた。
「病院を夜に変えるために」
「最初に“置かれた”子供」
「それが」
「この頁の中にいる存在です」
姉がページを見つめる。
「……子供」
白い梟が沈黙する。
『文書外個体』
『深層起点』
『接触時、夜域変質』
冬華が刀を構えたまま聞く。
「つまり」
「この子が病院の夜の始まり、ということですか」
「ええ」
白面の医師の声は重かった。
「そして」
「最初に失われた名前を持つ者でもある」
ユイがびくりとした。
「……名前?」
「はい」
「奪われた名の、最初のひとつです」
姉の瞳が揺れる。
「じゃあ……」
「この子を戻せば」
「病院の夜も終わる?」
白面の医師は、ゆっくり首を振った。
「終わりません」
「ですが」
「始まりを変えれば」
「終わり方は変えられる」
その瞬間。
頁の中の小さな人影が、ゆっくりと立ち上がった。
顔は見えない。
けれど、こちらを見ている。
そして。
その声が、今度ははっきりと響いた。
「……お姉ちゃん」
全員が固まる。
姉は息を止めた。
「……いま」
「私を」
人影は、紙の向こうで静かに笑う。
「うん」
「ずっと」
「待ってた」
その言葉を聞いた瞬間。
姉の胸元で、眠っていた何かが。
静かに目を覚ました。
ここまで読んでくれてありがとうございます。
次回もお楽しみに




