38、ヴェルスの印象
イグナルスが家の窓から庭を眺めていると、後ろから声をかけられた。
「先生に怒られたんだって?」
「グラキエスお兄様」
兄の声に、イグナルスはぱっと振り返った。彼は咎めに来たかと思ったが、そうではない。むしろ表情は柔らかい。
「あー、そうです」
イグナルスが気まずげに頷くと、グラキエスは楽しげに笑った。
「はは、イグナルスにしては珍しいな」
「えっと……」
グラキエスはどこまで知っているのだろうか。2歳年上のグラキエスだが、彼は情報収集を通常時から行っている。全部知っているかもしれない。
イグナルスが伝える内容を迷っていると、そんなイグナルスを見てグラキエスが笑う。その表情は、どこか呆れているようだが、それでも彼の紫色の瞳には慈愛が宿っていた。
「あいつに付き合うこともなかったのに」
やはり知っていたようだ。イグナルスが気まずげに下を向くが、彼は怒っているわけではないようだ。ただ、イグナルスのことを心配してくれている。
「お前がそうしたいのなら、止めないが」
グラキエスがイグナルスの顔を覗き込み、ふっと笑った。彼はイグナルスの髪に手を伸ばし、くしゃりと撫でる。
「別に怒られるくらいどうだって良い。学生時代なんて、好き勝手したら良いんだ」
「あはは……」
グラキエスが好き勝手やっているのは、イグナルスの耳にも入ってきている。そうは言っても、彼は悪いことをしているわけではなく、規則の穴をつくようなことばかりだが。
グラキエスみたいになりたいという気持ちと、彼みたいにはなれないという気持ちがどちらもある。
そう考えていると、グラキエスがこちらをじっと見つめていることに気がついた。イグナルスが首を傾げると、彼は表情を和らげてゆっくりと尋ねた。
「ヴェルス・アルバントのことはどう思った?」
「……えっと」
彼のことをどう伝えれば良いか分からなくて、イグナルスは言葉を詰まらせた。グラキエスは、それを急かすこともなく待ってくれている。
逡巡の末、イグナルスはゆっくりと言葉を発した。
「王太子として、苦しいのかなって思いました」
「なるほどな」
グラキエスの相槌にイグナルスはこくりと頷いた。そしてもう一度ヴェルスのことを考える。
「口が悪いな、と思うこともあります。でも、なんというか……」
彼がアデルバートに暴言を吐いていたことを忘れてはいない。それは良くないことだ、とはっきりと言える。
それでも、彼はそれだけの人ではないことも知った。
「人との関わり方を探っている、というか。どこか幼さを感じました」
彼は能力は高いし、最高峰の教育を受けてきたのだろう。だが、その点で彼を幼いという気は全くない。
ただ、人間関係という面ではどこか慣れていないという印象だった。
そんなイグナルスの言葉に、グラキエスはゆっくりと口角を上げた。
「いい見立てじゃねえか」
「えっと、ありがとうございます」
これは褒められている、と捉えて良いのだろうか。じっとグラキエスを見上げると、彼はゆっくりとイグナルスの頭をなでた。
「あいつはただの餓鬼だ。それ以上もそれ以下もない」
そう言ったグラキエスの表情を、イグナルスは覗き見る。グラキエスは何か苦いものを飲み込んだような表情をしている。
「お兄様、ヴェルス様と面識ありますか?」
「面識はある、が。別にそんなに親しくはない」
そう言ったグラキエスは先ほどの苦々しい表情を消し去っていたが、やはり表情は明るくない。
「でも、あんまり好きじゃないですか?」
グラキエスは自身の心の内を見透かされたことに驚いたのか、少し目を見開いた。その後、バツが悪そうに目を伏せる。
「理由はない。だが、あいつは気に食わない」
イグナルスは苦笑した。人の好き嫌いまで口を挟むつもりはない。それにヴェルスも態度があまりよろしくないことが多かったのだから、ヴェルスにも悪い所がある。
そんなイグナルスをじっと見つめていたグラキエスがゆっくりとこちらに近づき、耳元で囁いた。
「お前が望むのなら、お前に王位をすげ替える準備はいつでもできている」
「もう、グラキエスお兄様」
冗談と捉えたイグナルスは笑うが、グラキエスはゆっくりと口角を上げただけだった。もしかして、本気だろうか。イグナルスは頬を引きつらせた。
「もちろん、本気だ」
「……ええ?」
あまりにもグラキエスの目が真剣だったから、イグナルスも少し考えてみる。
自分が、この国のトップになる? そんなことが可能なのか?
すぐに答えは出た。イグナルスはゆっくりと首を振る。
「ヴェルス様はきっと、いろいろ努力してきました。きっと僕には無理です。力不足です」
ヴェルスは努力をしてきたことは想像に難くない。彼の幼少期を知っているわけではない。それでも、彼は授業を真剣に受けているし、勉強をしている姿もたまに見かける。彼は努力をしてきた人であり、それを続けられる人でもあるのだなと思っていた。
そんな彼の立場を奪ってやろう、なんて。イグナルスは思えない。
「イグナルス。お前は自分を過小評価しなくても良い」
「いや、あの、本当に無理です」
イグナルスが即答すると、グラキエスはふっと表情を和らげた。
「まあ、そうか。わざわざ外れくじを引きにいく必要もない……そういう意味では、あいつは不憫だな」
「……」
外れくじという例えに、イグナルスは頬を引きつらせた。確かに、楽しいことよりも大変なことが多そうな立ち位置ではある。
それなのに、なぜ世界ではどろどろの王位継承争いが起きるのだろう、と不思議に思う。
イグナルスを優しい目で見つめていたグラキエスがふわりと微笑んだ。
「それに、お前はずっと俺の弟だもんな」
「はい!」
イグナルスはアクワーリオ侯爵家の次男。それ以上のことは何ないし、望まない。
イグナルスもグラキエスに笑みを返した。




