マネージャーと秘密の約束
前書き
第五話は、これまでとは少し違った一面を描きます。
軟式野球部の全国制覇を目指す戦いは、もちろん続いていきます。
しかし、高校生活は野球だけではありません。
毎日の練習。
仲間との会話。
試合への緊張。
そして――恋。
主人公・神谷悠真と、マネージャーの高橋美咲。
これまで先輩と後輩、選手とマネージャーとして接してきた二人ですが、少しずつ距離が近づいてきました。
練習後に二人で話したり、一緒に帰ったり。
「全国大会に行こう」
そんな約束を交わすうちに、二人の気持ちにも少しずつ変化が生まれていきます。
まだ告白したわけではありません。
まだ付き合っているわけでもありません。
でも――。
お互いに相手のことが気になる。
そんな、青春らしい関係です。
そして今回、大きな問いが生まれます。
「付き合う?」
果たして悠真と美咲は、先輩と後輩という関係から一歩踏み出すのでしょうか。
野球部の仲間たちも、二人の関係に気づき始めます。
全国制覇を目指す青春の中で生まれた、小さな恋。
野球と恋。
どちらも簡単ではありません。
けれど、二人には一つの共通する目標があります。
「一緒に全国大会へ行く」
その約束が、二人の距離をさらに近づけていきます。
そして――。
悠真の高校生活は、野球だけではなく、恋という新しい舞台にも踏み出していくことになります。
第五話 マネージャーと秘密の約束――恋より先に、全国へ
強豪校との練習試合に敗れてから、一週間。
俺たちの練習は、それまでとは明らかに変わっていた。
「もっと走れ!」
「声!」
「最後まで振り切れ!」
グラウンドが使えない日でも関係ない。
体育館裏。
校舎横。
中庭の端。
使える場所があれば、そこを練習場所にする。
俺たちは、とにかく練習した。
「全国に行くんだろ!」
佐伯先輩の声が響く。
「はい!」
全員が返事をする。
黒田も黙々とバットを振っている。
俺も負けたくなかった。
あの強豪校との試合。
0対4。
負けた。
それが悔しかった。
でも、それ以上に悔しかったのは――。
「あと少しだった」
そう思ってしまったことだった。
完全に手も足も出なかったわけじゃない。
守れた。
抑えられた。
黒田も打った。
俺も守備で貢献できた。
だからこそ、もっと悔しい。
「勝てたかもしれない」
その感覚が残っていた。
だから俺は、毎日練習した。
朝も。
放課後も。
そして――。
その練習を、一番近くで見ていたのがマネージャーたちだった。
⸻
「神谷くん!」
放課後。
俺がグラウンドへ向かおうとしたとき、後ろから声がした。
振り返る。
高橋美咲先輩だった。
「はい?」
「これ」
差し出されたのはスポーツドリンク。
「……俺に?」
「そう」
「ありがとうございます」
俺は受け取った。
「最近、飲む量増えたでしょ?」
「え?」
「前は一本で足りてたのに、今は二本飲んでる」
「見てたんですか?」
「マネージャーだからね」
美咲先輩は笑った。
「ちゃんと水分取らないと倒れるよ」
「気をつけます」
「あと」
「はい?」
「最近、練習終わってから一人で残ってるでしょ」
俺は固まった。
「……見てました?」
「見てるよ」
「すみません」
「なんで謝るの?」
「勝手に残ってるから」
「別にいいけど」
美咲先輩は少し考えてから言った。
「一人で残るなら、私も残る」
「え?」
「ボール拾ったり、記録つけたりできるし」
「でも先輩、帰る時間……」
「大丈夫」
そう言って笑った。
「全国目指すんでしょ?」
「はい」
「だったら、私も付き合う」
胸が少し熱くなった。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
⸻
その日の練習。
俺はいつも以上に気合が入った。
キャッチボール。
守備。
打撃。
走塁。
何度も繰り返す。
「神谷!」
先生が声をかける。
「はい!」
「外野守備!」
俺は走った。
ノック。
一球目。
右中間。
捕球。
二球目。
左中間。
捕球。
三球目。
頭上。
走る。
ジャンプ。
捕球。
「ナイス!」
美咲先輩の声が聞こえた。
俺は振り返る。
美咲先輩がスコアブックを持ちながら笑っている。
なぜだか、それだけで嬉しかった。
「もう一本!」
先生が叫ぶ。
「はい!」
俺はまた走った。
⸻
練習が終わった。
部員たちは次々と帰っていく。
佐伯先輩も黒田も帰った。
グラウンドに残ったのは、俺と美咲先輩だけ。
「本当に残るんですか?」
「残るって言ったでしょ」
美咲先輩はベンチに座った。
俺はバットを持つ。
「何本振るの?」
「百本」
「また?」
「はい」
「昨日も百本だったよね」
「昨日は百二十本です」
「増えてるじゃん」
美咲先輩が笑う。
「じゃあ、今日は百五十本」
「えっ?」
「冗談」
「びっくりしました」
俺たちは笑った。
俺は素振りを始める。
一回。
二回。
三回。
美咲先輩は黙って見ている。
十回。
二十回。
五十回。
腕が重くなる。
「大丈夫?」
「大丈夫です」
「無理しないで」
「はい」
八十回。
九十回。
百回。
最後の一振り。
俺は思い切り振った。
「終わった……」
バットを置く。
美咲先輩が拍手した。
「お疲れ様」
「ありがとうございます」
「最近、変わったね」
「俺が?」
「うん」
「どこが?」
「前はもっと自信なさそうだった」
俺は黙った。
「名門高校に行けなかったこと、まだ引きずってたでしょ?」
「……はい」
「今は?」
俺は少し考えた。
「今は、ここで良かったと思ってます」
美咲先輩が少し驚いた顔をした。
「本当に?」
「はい」
俺はグラウンドを見る。
「ここには、俺を必要としてくれる人がいるから」
美咲先輩は黙った。
「それに」
俺は続けた。
「全国制覇を目指すって言ったら、誰も笑わなかった」
「……」
「無理だって言われると思ってたんです」
美咲先輩は小さく笑った。
「私は笑わないよ」
「はい」
「だって――」
美咲先輩は俺を見る。
「私も全国に行きたいから」
俺は驚いた。
「マネージャーとして?」
「うん」
「……じゃあ」
俺は笑った。
「一緒に行きましょう」
「うん」
その瞬間。
少しだけ空気が変わった。
俺も美咲先輩も、なぜか黙ってしまった。
夕焼け。
誰もいないグラウンド。
二人だけ。
俺は少し照れながら、道具を片付け始めた。
「……帰りましょうか」
「うん」
二人で歩き出した。
⸻
校門を出る。
夕方の道。
俺と美咲先輩は並んで歩いていた。
「神谷くん」
「はい?」
「今日、楽しかった?」
「はい」
「練習?」
「それもあります」
「それも?」
「……先輩と話せたから」
美咲先輩が止まった。
俺も止まる。
「え?」
「いや……」
俺は慌てた。
「変な意味じゃなくて!」
「ふふっ」
美咲先輩が笑った。
「分かってる」
「……ですよね」
「でも」
「はい?」
「私も楽しかったよ」
俺は何も言えなくなった。
「じゃあ、また明日」
「はい」
美咲先輩は手を振って帰っていった。
俺はその背中を見ながら、なぜか顔が熱くなった。
「……何だこれ」
自分でも分からない。
ただ――。
明日が少し楽しみになった。
⸻
翌朝。
俺が教室に入ると、黒田がいた。
「おはよう」
「おはようございます」
「昨日、遅かったな」
「え?」
「体育館裏にいたろ」
「……見てたんですか?」
「たまたま」
黒田がニヤッと笑う。
「マネージャーと一緒に」
「……」
俺は固まった。
「何ですか?」
「いや」
黒田が肩を叩く。
「青春だな」
「違います!」
「顔赤いぞ」
「暑いだけです!」
「朝だぞ」
「……」
黒田が大笑いする。
「お前、分かりやすいな」
「先輩!」
「まあ、いいんじゃないか?」
黒田は笑いながら言った。
「ただし、野球は忘れるなよ」
「忘れません!」
「全国行くんだからな」
「はい!」
⸻
放課後。
部員全員が集まった。
先生がホワイトボードに文字を書く。
春季大会まで、あと三週間。
「三週間後、公式戦だ」
空気が変わった。
これまでの練習試合とは違う。
勝ち負けが記録として残る。
負ければ終わり。
勝てば次へ進める。
先生は続けた。
「まずは県大会で一勝」
佐伯先輩が言った。
「一勝じゃない」
先生が見る。
「優勝です」
全員が静かになる。
佐伯先輩は続けた。
「俺たちの目標は全国制覇です」
「……そうだな」
先生が頷く。
「なら、県大会優勝を目指す」
「はい!」
俺も声を出した。
そして練習が始まった。
しかし――。
その日の練習中。
俺は足を滑らせた。
「うわっ!」
転倒。
「神谷!」
美咲先輩が走ってくる。
「大丈夫!?」
「はい……」
立ち上がろうとする。
しかし――。
「痛っ」
足首に違和感があった。
「ちょっと待って」
美咲先輩がしゃがむ。
「無理に立たないで」
「でも練習が……」
「ダメ」
いつもより強い口調だった。
「怪我したら、全国どころじゃないよ」
「……はい」
美咲先輩は俺の足を見る。
「腫れてないけど、今日は休んで」
「分かりました」
俺はベンチに座った。
美咲先輩が隣にいる。
「先輩」
「何?」
「心配してくれたんですか?」
「当たり前でしょ」
「……ありがとうございます」
「選手が怪我したら、マネージャーは心配するの」
「それだけ?」
美咲先輩が俺を見る。
「……何が?」
「いや」
俺は慌てて目を逸らした。
「何でもないです」
美咲先輩は少し笑った。
「変なの」
⸻
その日の帰り。
俺は一人で帰ろうとしていた。
すると――。
「神谷くん」
美咲先輩が追いついてきた。
「一緒に帰ろ」
「はい」
俺たちは並んで歩いた。
「足、大丈夫?」
「大丈夫です」
「本当に?」
「はい」
「明日は無理しないでね」
「はい」
少し沈黙。
そして美咲先輩が言った。
「ねえ」
「はい?」
「もし全国大会に行けたら」
「はい」
「そのとき、私のことも連れてってね」
俺は笑った。
「もちろんです」
「約束?」
「約束です」
美咲先輩が手を差し出した。
「じゃあ、約束」
俺はその手を見る。
そして――。
小指を差し出した。
「指切りですか?」
「そう」
俺たちは小指を絡めた。
「全国大会に行く」
「うん」
「一緒に行く」
「うん」
「絶対に諦めない」
「絶対に」
指を離す。
二人とも少し照れくさくなって、笑った。
まだ恋人ではない。
告白したわけでもない。
ただの先輩と後輩。
選手とマネージャー。
それでも――。
俺たちの間には、一つの約束ができた。
全国大会へ行く。
その約束が、俺の中で新しい力になった。
⸻
そして翌日。
練習前。
俺がグラウンドへ行くと、黒田が言った。
「神谷」
「はい?」
「聞いたぞ」
「何を?」
「全国大会の約束」
「……え?」
俺は固まった。
黒田がニヤニヤしている。
「美咲から聞いた」
「先輩!」
「青春だな」
「違います!」
「まあいい」
黒田はバットを肩に担ぐ。
「その約束、俺たちも守らないとな」
「……はい」
「全国行くぞ」
「はい!」
その日。
俺たちの練習は、いつもより厳しかった。
走る。
打つ。
投げる。
守る。
そして、最後に全員で円陣を組んだ。
佐伯先輩が叫ぶ。
「目標は?」
「全国制覇!」
「今年の夏?」
「全国制覇!」
「このチームで?」
「全国制覇!」
俺も叫んだ。
「全国制覇!」
その声は、グラウンドの端から学校中へ響いていった。
そして――。
その声を聞いていた一人の男子生徒がいた。
一年生。
野球部にはまだ入っていない。
彼は足を止める。
そして、グラウンドを見る。
「……軟式野球部か」
その目には、何かを決意したような光があった。
彼が次に口にする言葉は――。
まだ誰も知らない。
「俺も……入ろうかな」
全国制覇を目指すチームに。
新しい仲間が、もう一人加わろうとしていた。
後書き
第五話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
今回は、これまでの野球中心の物語から少し離れて、悠真と美咲の関係を中心に描きました。
悠真にとって、美咲は最初はただのマネージャーでした。
練習を支えてくれる先輩。
飲み物を用意してくれる人。
怪我をしたときに心配してくれる人。
しかし、毎日のように顔を合わせ、練習を一緒に乗り越えていくうちに、少しずつ意識が変わっていきます。
美咲にとっても、悠真は最初は一年生の部員の一人でした。
でも、誰よりも練習する姿。
名門高校に行けなかった悔しさを乗り越えようとする姿。
そして、「ここで全国を目指す」と決めた強い気持ち。
そんな悠真を一番近くで見ているうちに、美咲も少しずつ彼を特別な存在として意識するようになっていきます。
そして二人が交わした、
「全国大会に一緒に行く」
という約束。
これは、二人にとって大切な約束になりました。
ただし――。
まだ二人は付き合っていません。
だからこそ、これからが面白くなります。
「これって、付き合ってるの?」
「いや、付き合ってないよな?」
「でも、ほとんど付き合ってるみたいじゃない?」
そんな周囲の反応も出てくるかもしれません。
黒田あたりは、かなり面白がりそうです。
もちろん、悠真自身もまだ自分の気持ちを完全には理解していません。
野球なら、
「もっと練習すればいい」
「打てるようになればいい」
と努力の方向が分かります。
でも恋はそう簡単ではありません。
相手の気持ち。
自分の気持ち。
先輩と後輩という関係。
そして何より――。
全国制覇という大きな目標。
恋だけに夢中になるわけにもいきません。
だからこそ、悠真と美咲の関係は、ゆっくり進んでいきます。
そして、いつか二人の間で本当の言葉が出てくるのでしょう。
「付き合う?」
その一言が、二人の関係を変えることになります。
ただ、恋が始まったからといって、野球が終わるわけではありません。
むしろ二人は、互いに支え合いながら全国を目指すことになります。
選手とマネージャー。
先輩と後輩。
そして――。
もしかしたら恋人になる二人。
この三つの関係が、これからどう変わっていくのか。
一方、野球部では新入部員候補も現れました。
まだ名前も知られていない一年生。
彼が入部すれば、さらにレギュラー争いは激しくなります。
恋も。
野球も。
全国制覇への道も。
ここから一気に動き始めます。
そしていつか――。
全国大会の舞台で、悠真と美咲が交わした約束が現実になる日を目指して。
次の一球へ。
次の一勝へ。
そして、次の恋へ。
物語は続きます。




