彼女の秘密
野球楽しもう
第十二話 高橋美咲――彼女の秘密
高橋美咲には、誰にも話していない秘密がある。
普段の美咲を知っている人間なら、きっと信じないだろう。
今の彼女は、面倒見がよく、選手のことを誰よりも気にかけるマネージャー。
練習道具を準備し、選手の体調を確認し、試合でよりも大きな声で応援する。
悠真にとっては――。
大切な彼女。
そして、チームにとっては欠かせないマネージャー。
しかし。
中学時代の美咲は、今とはまったく違っていた。
⸻
中学時代の美咲
「また美咲か」
教師たちは、何度その名前を聞いたか分からなかった。
授業を抜け出す。
学校で問題を起こす。
教師に反発する。
友達と騒ぐ。
注意されても聞かない。
家に帰っても、家族の言うことを聞かなかった。
「もう、どうしたらいいの……」
母親が泣いたこともあった。
父親が怒鳴ったこともあった。
学校も家族も、美咲をどう扱えばいいのか分からなくなっていた。
周囲からは、
「手に負えない」
そう言われていた。
美咲自身も、それでいいと思っていた。
どうせ誰も自分のことなんて分からない。
誰に何を言われても関係ない。
そんなふうに心を閉ざしていた。
――ただ一人を除いて。
⸻
隼人
名前は、隼人。
美咲より年上の高校生だった。
不思議な男だった。
美咲がどれだけ荒れていても、怒鳴らなかった。
説教もしなかった。
ただ、美咲の隣にいた。
「美咲」
「何?」
「今日は何があった?」
「別に」
「そっか」
「……それだけ?」
「話したくなったら話せばいい」
その言葉が、美咲には不思議だった。
誰もが、
「なんでそんなことするんだ」
「いい加減にしろ」
「ちゃんとしろ」
と言ってくる。
でも隼人だけは違った。
無理に聞こうとしなかった。
だからこそ――。
美咲は、隼人にだけすべてを話した。
家族に言えなかったこと。
学校で嫌だったこと。
自分が何に腹を立てているのか。
本当は寂しいこと。
本当は誰かに分かってほしいこと。
全部。
隼人だけには話せた。
⸻
隼人には好きなものが二つあった。
野球。
そしてバイク。
「野球、好きなんだ」
「めちゃくちゃ好きやで」
「意外」
「なんでや」
「なんとなく」
隼人は笑った。
「俺は野球で怪我したくないから、バイクも気をつけてる」
「バイク、乗るの?」
「乗るけど、安全第一や」
「じゃあ、無茶しないでよ」
「分かっとる」
美咲はいつもそう言っていた。
「バイクで事故なんか起こしたら、野球できなくなるよ」
「大丈夫やって」
「本当に?」
「本当」
隼人は笑った。
でも――。
その約束は守られなかった。
⸻
あの日
突然だった。
バイク事故。
隼人は帰ってこなかった。
電話も鳴らない。
メッセージも返ってこない。
何度連絡しても――。
返事はなかった。
そして、美咲は知った。
隼人が事故で亡くなったことを。
「……嘘」
信じられなかった。
「隼人……?」
返事はない。
「ねえ……」
当然、返事はない。
「隼人……」
美咲の世界から、突然音が消えた。
⸻
それからの美咲は、さらに荒れた。
もともと荒れていた。
それが、もっとひどくなった。
学校でも家でも、誰の言葉も聞かなくなった。
何を言われても、
「うるさい」
それだけ。
家族もどうすることもできなかった。
学校も手を焼いた。
美咲自身も、どうしたらいいのか分からなかった。
ただ――。
隼人がいない。
その事実だけが残っていた。
⸻
それでも。
美咲には、好きなものが残っていた。
野球だった。
隼人が好きだったから。
一緒に野球の話をしたから。
試合を見に行ったこともある。
隼人がプレーする姿を見るのが好きだった。
だから美咲は――。
高校に入ったら、野球に関わろうと思った。
選手になることは難しい。
なら、マネージャーでもいい。
隼人が好きだった野球のそばにいたかった。
しかし――。
高校受験で、選択肢はほとんどなかった。
これまでの問題行動。
学校での評価。
周囲とのトラブル。
美咲が入れる高校は限られていた。
そして、ようやく入った高校。
そこには――。
軟式野球部があった。
「……野球部」
美咲はグラウンドを見つめた。
少しだけ胸が動いた。
「隼人……」
これなら。
ここなら。
もう一度、野球の近くにいられる。
そう思った。
⸻
しかし。
美咲はマネージャーを辞めようとしていた。
「私なんかがいても……」
自分に自信がなかった。
過去の自分を知っている人間もいる。
また問題を起こすかもしれない。
そう思っていた。
そんなとき――。
一人の新入生が入ってきた。
神谷悠真。
左投げ左打ち。
中学時代は特別目立っていたわけではない。
名門校から声がかかったわけでもない。
それでも――。
誰よりも真面目だった。
練習にも真剣に取り組む。
先輩の話を聞く。
道具を大切にする。
仲間を気遣う。
そして何より――。
野球が好きだった。
美咲は、最初はただの新入部員だと思っていた。
しかし。
少しずつ気になるようになった。
「神谷くん、今日も残るの?」
「はい」
「もう練習終わったよ?」
「もう少しだけやりたいんです」
「疲れてない?」
「疲れてます」
「じゃあ帰ればいいのに」
「でも、上手くなりたいから」
その言葉を聞いた瞬間。
美咲の胸が少しだけ苦しくなった。
――似てる。
何が似ているのかは分からない。
顔がそっくりなわけじゃない。
声も違う。
性格も違う。
でも――。
野球に向き合う姿勢。
人に対する優しさ。
真面目さ。
どこか不器用なところ。
そして、笑ったときの雰囲気。
ほんの少しだけ。
隼人を思い出した。
⸻
「美咲先輩」
「何?」
「先輩って、なんでマネージャーやってるんですか?」
「……」
美咲は答えられなかった。
「野球、好きだから」
それだけ答えた。
「そうなんですね」
悠真は笑った。
「俺も野球好きです」
「知ってる」
「ですよね」
二人で笑った。
その瞬間、美咲は思った。
――隼人とは違う。
悠真は隼人じゃない。
隼人の代わりなんかじゃない。
それは分かっている。
でも――。
悠真と一緒にいると、不思議と心が落ち着いた。
いつの間にか、美咲はマネージャーを辞めることをやめていた。
そして、悠真を応援するようになった。
最初はただの後輩だった。
それが――。
大切な人になった。
⸻
現在。
美咲はグラウンドに立っている。
悠真が練習している。
その姿を見ながら、美咲は心の中で呟く。
「隼人……」
少しだけ空を見上げる。
「私、ちゃんと笑えるようになったよ」
そして、悠真を見る。
「今は……大切な人がいる」
隼人の代わりではない。
隼人を忘れたわけでもない。
ただ――。
あの日から止まっていた美咲の時間を、悠真がもう一度動かしてくれた。
だから美咲は思う。
悠真には、全国へ行ってほしい。
隼人が好きだった野球で。
自分も大好きになった野球で。
そしていつか――。
悠真と一緒に、あの場所へ行きたい。
全国の舞台へ。
「頑張って、悠真」
美咲は笑った。
その笑顔は――。
中学時代の美咲からは、想像もできないほど優しいものだった。
野球はすきですか?




