scene4
悲鳴を上げたのは雫だった。雫は言葉にならない声で何かを喚きながら駆け出し、少女が立っている入り口とは別の引き戸を開ける。教室から走り去っていく雫の姿を、少女はゆっくりと顔を動かして見送っていた。どうやら追いかける気はないようだ。
しかし、少女が獲物でないと判断したのは雫だけだった。にたにたと笑いながら、少女は教室へ入ってくる。懐中電灯の光に鉈が反射し、鈍い光を放っていた。
早く逃げろ。そんな声が千尋の脳裏に渦巻く。それがもう一人の自分が発したものであると気づく前に、千尋も雫の後を追うようにして走り出した。
* * *
「はぁっ……はぁっ……」
雫は足を止めて後ろを振り返る。息はすっかり上がっていた。ある程度闇に目が慣れたおかげか、前よりは空間の把握がしやすい。どうやらあの少女は追ってきていないようだ。
急に走ったせいか、心臓は痛いほど早く鳴っている。薄手のシャツにびっしょりと張りついた汗が不快だった。雫は額を拭い、壁に手をついて肩で息をする。
やっと人心地着いたおかげか、痛みに気を回す余裕ができた。痛いのは胸だけではない。膝やひじ、すねといった露出している部分はすり傷だらけだった。懐中電灯の灯りがないため視界が悪く、何度も転んでしまったせいだろう。
いつの間にかサンダルも脱げてしまっていた。柔らかい足の裏がひりひりと痛む。どうせ車で行くのだからとヒールの高いサンダルなんて履いてきたのは失敗だったようだ。
昇降口は何故か閉ざされていた。それを確認したあとに階段を昇った記憶があるので、ここは二階か三階だろう。だが、どこをどう走ったのかは自分でももうわからない。見知ったはずの校舎はまったく知らない場所のように思えた。
少女が立っていた、昴と尚忠が開けた引き戸を前の入り口と称するなら、雫が飛び出していった引き戸は後ろの入り口だ。そして後ろの入り口から廊下に出ると、昴達が京香の死体を発見した階段からは遠ざかる。しかし階段はそこ一つだけではない。昇降口により近い階段がある。雫は無意識のうちに最善だと思えるルートを使用して少女から遠ざかり、U字型の校舎を東へと進んでいた。
しかし雫にその自覚はないため、どういう道を辿れば『一年一組』に戻れるのかわからないのだ。三年間通っていたはずの中学校も、闇と恐怖のせいで間取りがもう思い出せなかった。
五人とはぐれるような行動を取ってしまったのは自分とはいえ、一人でいるのは何とも心細い。だけどあのままみんなと一緒にあそこにいたらきっと危険だった。だから私の判断は間違っていなかった。そう自分に言い聞かせ、雫は震える身体を抱きしめる。そう思わなければやっていられなかった。
あの少女は何者なのか。あのセーラー服に、あの鉈についていた血は一体誰のものなのか。彼女にまつわるすべてがわからない。わからないからこそ彼女が怖い。彼女が闊歩しているこの空間が怖い。水音一つ聞こえただけでも叫んでしまいそうだった。それぐらい、今の雫は追いつめられていた。
雫が使った階段は、ちょうど昴達が京香の死体を発見した階段の反対にある階段だった。そのおかげで彼女は京香の死体を見なかったが、仮に見ていたとしたら精神の糸はぷつんと切れていた事だろう。ただでさえ恐怖が限界に達しそうなのに、旧友の無残な姿など見てしまったらもう立ち直れない。
周囲を警戒するように見渡しながら、雫は背中に壁を添わせて壁伝いに移動を始める。闇に目が慣れてきたといってもまだ完全とは言えないし、何が起きるかわからないところで無防備な背中を晒したくはなかった。
「きゃっ!?」
しかし壁に背中を預けているという安心から、背後への注意が疎かになってしまった。気づかないうちに壁のない部分を通ってしまい、勢いよくひっくりかえってしまったのだ。思わずついた手のひらからは、廊下とはまた違う固くひんやりとした感触が伝わってきた。
勢いよく打ちつけた臀部と手のひらの痛みに顔をしかめつつ、雫は恐る恐る振り返る。どうやらここは女子トイレのようだ。そういえばトイレの入り口にドアの類はなかったと、今さらながらに思い出す。水道の前を通ればそのまま個室だ。
「……あ」
雫はぱっと目を輝かせて立ち上がった。そう、ここは女子トイレ。個室――――鍵のかけられる空間が目の前にある。あそこなら、あの謎の少女からも身を守れるはずだ。深く考えないままに雫は駆け出し、一番奥の個室のドアを開けた。
* * *
あの少女は何だったのか。他の五人はどうなったのか。彼らは無事に逃げられたのか。まっさきに教室を飛び出した雫と千尋はどこに行ったのか。京香は無残な姿が発見されたが、それなら一緒にいたはずの正輝はどうなったのか。疑問は尽きる事がない。うるさく鳴り響く心臓の音にも怯えながら、尚忠は息を殺して戸棚の中に潜んでいた。
雫と千尋同様、尚忠も教室から逃げる事を選んだ。いや、素早く立ち上がった昴の口から発せられた、逃走を促す声に反応する事ができたといったほうが正しいだろうか。彼の背中を追うように、尚忠は不気味な少女から距離を取りたい一心でひたすらに走り出した。背後の洋祐と侑奈がどうだったのかは知らないが、多分二人も逃げ切れただろう。
先ほどまでは開いていたはずの昇降口、それが何故か固く閉ざされていると知り、尚忠はほかの脱出経路を探すよりまず少女と距離を置いて身を隠す事を選んだ。昇降口から一番近い階段を駆け上がったのだ。
二階に行くまで尚忠は昴と行動を共にしていたが、足の遅い自分と一緒に逃げていると昴まで危険に晒されるかもしれない。それを危惧した尚忠は単独行動する事にし、渋る昴を説得して彼と反対方向に逃げた。
潜伏先に理科室を選んだのは偶然だった。校舎を走り回ったすえに辿り着いたのが、U字型の校舎の西端にあった理科室だった。
もう使われていないはずの理科室には、薬品の臭いがまだ強く残っていた。しかし薬品棚にはなんの壜も残っていないし、実験器具の類もない。
だが、そのおかげで理科室には隠れるスペースが存分にあった。手ごろな棚の下段扉を開け、自分でも難なく入れそうだと判断して入り込む。元々は実験器具をしまうためにあったであろう収納棚は少し狭く息苦しいが、我慢できないほどではなかった。扉もガラス張りではないし、外からではここに自分が隠れている事などわからないだろう。
扉の隙間から光が漏れないよう、念のために懐中電灯を消してある。暗闇の中、尚忠は体育座りの体勢で時間が過ぎるのを待っていた。
一分が一時間にも感じられるほど時間が長い。本当は理科室に隠れてから十分も経っていなかったのだが、尚忠の体感時間ではすでに十時間以上も経過していた。
時間の感覚が麻痺していくにつれ、恐怖心も薄れていく。本当はあの少女は幻覚か何かだったのではないだろうか。京香の件にしたってそうだ。死体だと思ったのは誤りで、本当は京香が自分達を驚かせるためにあんな手の込んだ扮装をしたのでは――――そう思い始めたその時、理科室に変化が訪れた。引き戸を開ける音がしたのだ。
恐怖が一気に蘇ってきた。全身の毛穴から汗が噴き出てくる。ばくばくと心臓がより一層激しく自己主張を始めていた。思わず叫び出しそうになったのを口元を押さえる事で必死にこらえ、尚忠は全神経を耳に集中させる。心臓の音に紛れ、理科室の外からかつんかつんと響く足音が聞こえてきた。どうやら向こうは一人のようだ。
「誰!?」
女の鋭い声がする。先ほど理科室に入ってきた者だろう。
自分がいる事に感づかれた。そう思い、心臓がきゅっと縮まる。しかしよく考えてみると、その声は自分に対する呼びかけにしては方向がおかしい。なによりこの声は、知らない女などではなく千尋の声だ。どうやら彼女は無事だったらしい。
理科室にやってきたのが謎の少女などではなく旧友だったと理解し、安堵からか全身から力が抜けていった。だが、それなら千尋は誰に対して言葉をかけたのだろうか。
「はな、はなぶさ……?」
そんな疑問に答えるように、荒々しく引き戸を開けて走ってくる足音があった。それと同時に男の声が聞こえてくる。後からやってきた男が千尋に走り寄った、のだろうか。
「きょうっ、京香がっ! ああああいつに殺されっ!」
「お、落ち着いて! もう大丈夫だから落ち着いてよ!」
どうやら千尋は彼に対して恐怖を抱いていないらしい。男はひどい錯乱状態にあるようだが、旧知の仲なのだろうか。この場にいるという事は同窓会メンバーの中の一人であるはずだが、声に聞き覚えはない。洋祐あるいは昴ではなさそうだ。
「瑛士もずっと帰ってこない……! 俺達はもうおしまいなんだよ!」
「今野君もいるの?」
この男が瑛士でないとしたら、彼は悟朗か正輝だろう。京香について言及していた事を考えると、理科室にいるのは正輝なのかもしれない。
「昇降口も閉鎖されてて……もう逃げられない! みんな、みんなあいつに殺されるんだ!」
千尋と正輝は同じ高校に進学したと聞いている。中学校を卒業してから五年経ったが、高校卒業ならまだ二年だ。中学で別れたならともかく、高校で別れたなら相手の顔もなんとなく覚えているだろう。成長したといっても大した違いはないはずだ。
千尋も最初は男の事がわからなかったようだが、男の顔自体には見覚えがあったらしい。男も千尋の事を覚えていたようだし、彼が正輝である可能性は高かった。
「あいつ? あいつって?」
正輝をなだめながら千尋が尋ねる。京香を殺し、そして恐らくは瑛士を手にかけた『あいつ』が何者かは尚忠も気になった。
「……葛原」
意識を外に集中させ、正輝の声を逃さず拾う。声は少し遠かったが、その名前はやけにクリアに聞こえた。
「葛原萩乃……」
それは五年前に自殺した、クラスメイトの名前だった。




