第19話 嫁入り箱の焼き印と、包丁の光る夜
美容室を始めて、ひと月になる。
その日の昼下がり、恰幅のいいおかみさんが、娘さんの手を引いて店先にやってきた。通りの角にある酒屋のおかみさんで、マーレさんという人なんだよね。
「ムサシさん、あんたに頼みがあるんだよ。この子、シーレが、今度隣の町に嫁ぐことになってね。その前に、髪と化粧を何とかしてやってほしいんだ。……それと、その、手足の毛のことも」
シーレさんは、真っ赤になってうつむいている。
聞けば十八になったばかりで、相手は隣町の粉屋の跡取りらしい。市の日に粉を卸しに来ていて、それで知り合ったんだって。
「向こうのお姑さんが、なかなかうるさい人らしくてね。田舎の酒屋の娘だって、なめられたくないんだよ。せめて嫁入りの日くらい、誰にも文句を言わせない顔で送り出してやりたいのさ」
マーレさんは、そう言いながら、シーレさんのひとつ結びの髪をごつごつした指でなでている。
「もちろんです。脱毛は、お母さんが立ち会ってくれるなら、お家に伺いますよ」
『やるなら、式の三日前にしろ。当日にいきなりじゃ、娘も母親も落ち着かねえ。試し化粧も一緒にやれる。それと、部屋は昼間の窓際だ。お前のは撫でたところしか取れねえから、明るくねえと取り残しが見えねえぞ。外からは布で隠しとけ』
それで式の三日前、俺は酒屋の奥の部屋にお邪魔することになった。窓に布をかけて、明るさだけを入れる。シーレさんには大きな布を体にかけてもらって、施術するところだけを出してもらう。
まずは腕に手のひらを当てて、肌の汚れと脂を抜き取ってみる。
「ひゃっ……!」
シーレさんが、思わず腕を引っこめる。自分の声に驚いたみたいで、ぱっと顔を赤くしてうつむいてしまった。
「あ、ごめんね。冷たかった?」
「い、いえ……なんか、すうっとして……」
おそるおそる自分の腕をなでて、目を丸くしている。
「……肌が、つるつる」
「どれどれ……あら、ほんとだ。あたしのより、よっぽどきれいじゃないか」
その時、部屋の戸ががらりと開いて、酒屋の親父さんが顔を真っ赤にして仁王立ちしていた。
「許さん! 嫁入り前の娘の手足を、男がいじるなんて許さんぞ!」
「あんたは黙ってな! あたしが立ち会ってるんだよ! 店番でもしてな!」
マーレさんに背中を押されて、親父さんは戸の向こうへ追い出されていく。ぴしゃりと戸が閉まったとたん、シーレさんがこらえきれずにくすくす笑い出すもんだから、俺までつられそうになったんだよね。さっきまで石みたいに固まっていた肩から、すっかり力が抜けている。
「次は、膝から下にいきますね。いいですか?」
「……はい」
声をかけてから、手のひらで撫でていく。撫でたところから、毛がすっと消えていくんだよね。マーレさんは最初こそ腕を組んで見張っていたのに、途中から自分の腕をさすりはじめている。
脱毛が済んだら髪を整えて、手入れの仕方を教えることにした。伸びてきたら前髪のどこを切ればいいか、毛先が傷んだらどう切りそろえるか。
「隣の町には、ムサシさんはいないんですよね」
「うん。だから、自分でできるように、全部教えとくね」
整髪料がなくなった時のために、蜜ろうとオリーブ油を温めて混ぜる作り方も、紙に書いて渡しておく。蜜ろうが一に、油が四。夏は少し蜜ろうを多めに、冬は油を多めにすればいい。シーレさんは紙を両手で持って、何度も口の中で読み上げていた。
それから試しに化粧をして、手鏡を渡してみる。シーレさんは鏡の中の自分をじっと見てから、マーレさんの顔を見上げた。
「……お母さん。あたし、ちゃんとお嫁さんに見える?」
「見えるよ。見えるに決まってるじゃないか」
そう言いながら、マーレさんは前掛けで目元をごしごしこすっている。
『その化粧の一揃えの箱、嫁入り道具にしちまえ。で、蓋にはおかみさんの店の焼き印を押させろ。隣町で「その箱どこの?」って聞かれたら、この街の名前が出る。花嫁が看板を背負って嫁に行くんだ』
ヒルダさんに話したら二つ返事で、蓋に糸巻きの焼き印を押した箱を用意してくれることになった。
式の当日は、酒屋の奥でシーレさんに化粧をする。眉はやわらかく、頬にほんのり赤みを足して、紅は三日前より少しだけ濃くしておく。ヒルダさんが見立てた生成りの花嫁衣装を着せて、髪には白い花を挿した。
酒屋の前には、いつの間にか近所の人たちが集まってきている。
「……あれ、酒屋のシーレちゃんかい。あんなにきれいだったっけ」
「髪と化粧はムサシさん、衣装はヒルダさんのとこだってさ」
「ほら、あの箱。ヒルダさんとこの焼き印じゃないか」
「嫁入りに、化粧の箱を持たせるのかい。いいねえ、あたしの時にもあったらよかったよ」
シーレさんはマーレさんにぎゅっと抱きしめられてから、嫁入り箱を胸に抱えて、隣町へ向かう馬車に乗りこんだ。動き出す前に窓から身を乗り出して、俺に小さく頭を下げてくれる。
戸口の陰では、あれだけ「許さん」と怒っていた親父さんが、袖で顔をごしごしこすっていた。
その日から、通りのおかみさんたちの間では、「嫁入りの時は、ベルモンド布店とムサシさん」なんて話が広まっているらしい。
◇
それから何日かたった夜のことだ。麦穂亭の食堂で晩飯を食べていると、一人の女の人が、周りをうかがいながら近づいてくる。
「あの……ムサシさん。ナナシーといいます。脱毛のことで、相談があって……。うちの人には、内緒で」
『おい、宿の部屋で人妻と二人きりはまずい。女を一人つけろ。……下にいる看板娘でいいだろ』
それでエマに頼んで、部屋で立ち会ってもらうことにした。ナナシーさんは、旦那さんに毛深いと言われたことを、ぽつぽつと話してくれる。
「本当に、全部でいいんですか? 無理しなくても……」
「……はい。あの人に、きれいって言ってほしいんです」
手足から背中まで、全部。ナナシーさんは最後まで、ぎゅっと目をつぶって我慢していたんだよね。
次の日の夕方、麦穂亭の扉が乱暴に開いた。
「ムサシってのはどこだ! 人の女房の体を、隅から隅までいじりやがって!」
ナナシーさんの旦那さんの、ザボンさんだ。食堂の客たちが一斉に振り返るなか、俺は匙を置いて立ち上がる。
「……奥さんが、わざわざ俺のところに来た理由、知ってんの?」
「ああ?」
「お前に好かれたいからだよ。気にして来たんだ。俺は大丈夫かって何度も聞いた。それでも、お前にきれいって言ってほしいって、恥ずかしいのを我慢して来たんだぞ。だから俺は、一生懸命やらせてもらったんだ。それを何だ、お前。きれいになったって褒める前に、俺のとこに怒鳴りこんでくるような野郎が、あんないい奥さんと一緒にいる価値なんかねえよ。別れちまえ」
食堂の中が、しんと静まりかえる。
「あたし、ずっと立ち会ってました! ムサシさん、変なことなんて一つもしてません!」
盆を抱えたまま叫んだのはエマだった。ザボンさんの後ろの戸口には、いつの間にかナナシーさんが立っている。追いかけてきたらしい。
「……あんたが、毛深いって言ったからじゃないか。あたしは、あんたに……」
ザボンさんは、ナナシーさんの袖からのぞく肌を、しばらく黙って見ている。それから、うつむいて、ぼそっと言った。
「……悪かった。……きれいだ」
ザボンさんがナナシーさんの手を引いて帰っていくのを見送って、俺はふうっと息をつきながら椅子に座りこむ。
その肩を、後ろからぽんと叩く手があった。振り向くと、ガルドさんが包丁を片手に立っている。
「お前も、なかなかやるようだな。……だが、うちの娘に触りやがったら、分かってるな」
包丁の刃が、ランプの明かりでぎらりと光っていた。




