第20話 割れた封蝋と、十年目の「アル」
ショールの受付嬢たちが評判になって、ひと月ほどたった頃のことだ。
店じまいをしていると、紺のショールのまま、リーネさんが駆けこんできた。いつもきっちりかき上げている前髪が、少しだけ乱れている。
「ムサシさん……。ギルド長に、ご実家から手紙が届いたんです。ロレーヌ家の紋章の封蝋で」
リーネさんは、ショールの端をぎゅっと握りしめている。
「縁談だそうです。王都の、子爵家のお嬢様と。『末子アルフォンソ、家に戻り、家名にふさわしい妻を迎えよ』って。使いの方が、受付で読み上げていったんです。みんなの前で」
「……で、あの人は何て返したんだい」
帳場から出てきたヒルダさんが聞くと、リーネさんは小さく首を振った。
「何も。手紙を受け取って、奥に引っこんだきりです」
『身分違いの話の、一番ありがちで、一番効くやつだな。……ムサシ、この眼鏡、自分が泣きそうなのに気づいてねえぞ』
「でもさ、ギルド長って、家名にこだわってないでしょ。ずっと『アル』としか呼ばせないくらいなんだから。だったら家名なんか捨てて、ギルド長のアルとして結婚しちゃえばいいのに。何か、できない理由でもあるのかな。リーネさん、何か聞いてる?」
リーネさんは、しばらく黙ってから口を開いた。
「家名を捨てるのは、あの人には簡単なんだと思います。でも、十年前にギルド長になった時の話を、一度だけ聞いたことがあって。前のギルド長が亡くなって、ギルドがつぶれかけていた時に、伯爵様にかけ合って立て直しのお金を出させたのは、ロレーヌ家の名前だったって」
「ああ、その話なら、うちの人も言ってたね。あの頃は、商人がみんな青くなってたよ」
「だから、家に逆らったら、ギルドに何をされるか分からないんです。あの人は、自分のことより、ギルドのことを先に考える人だから。……それに、あの人は、私に何か言ってくれたわけじゃありません。『似合っておる』って、それだけです。私が勝手に……」
そこで、リーネさんの声が詰まった。
ギルドを人質に取られてるようなもんなんだよね。俺は、店で髪を切りながら聞いた噂を思い出していた。
「そういえばヒルダさん、王都で貴族の奥さんたちが倒れてるって話、聞いてます?」
「ああ、呪いだの流行り病だのって噂だね。肌がただれて、髪が抜けて、しまいにはうわごとを言い出すんだとさ。教会が祈祷してるらしいよ」
『……貴族の女だけ、か。ムサシ、それは病気じゃねえ。白粉だ。真っ白に見せるための白粉に、鉛が入ってる。地球でも昔、同じことで貴族の女が何人も死んでる。肌が荒れるから、もっと厚く塗る。それでまた荒れるんだ』
なるほどね。俺の頭の中で、話が一本につながった。
「……いいわ。俺が、ギルド長に会いに行く」
ギルドの奥の部屋には、ランプが一つついているだけだった。
ギルド長は机に肘をついて、封蝋の割れた手紙を見下ろしている。俺がノックもせずに戸を開けても、顔を上げようとしない。
「ギルド長。そんなふうに自分を犠牲にして結婚して、泣く人のこと、考えてます? リーネさんだけじゃないですよ。結婚させられる相手のお嬢さんだって、愛してもらえないって分かってる人と、一生生きていかなきゃいけないんです。それ、ギルド長が思ってるほど、立派なことじゃないですよ」
ギルド長は、そこでようやく顔を上げた。怒っている顔じゃなかった。
「……床屋が、ずいぶんな口をきく。わしが断れば、ロレーヌ家はギルドの後ろ盾を引く。受付の五人も、帳場の者も、皆、路頭に迷うのだ。それにな、わしは四十を過ぎた、甘やかされた末っ子だ。家名から逃げて、ここでふんぞり返っておるだけの男が、若いリーネに何を言える」
しばらく黙ってから、ギルド長はぽつりと付け足した。
「……子爵家の娘のことまでは、考えておらなんだ。お前の言うとおりだな」
俺は机の前の椅子を引いて、勝手に座った。
「でも、ギルド長。それって、自分の事情を並べただけで、まだ誰も幸せになってないですよね。だから、俺から一つ、武器を渡します。それを持って、ギルド長が自分で戦って、自分の人生を取り返してきてください」
「今、王都で貴族の女の人が倒れてるの、呪いじゃないんです。白粉に入ってる毒のせいなんですよ。誰かがわざと仕込んだわけじゃなくて、少しでも白くきれいに見せたくて、その材料に鉛を使っちゃった。鉛って、体に入ると毒になるんです。王都の貴族ばかり倒れてるのは、その白粉が出てきたばかりで、まだ地方には広まってないのと、値段が高いからですね」
「俺はこの街なら、『その白粉は使っちゃ駄目ですよ』って言えます。でも、王都の貴族にまでは手が届かない。だから、これを持って王都の家に行ってください。ロレーヌ家から王家にご注進すれば、王家からの信頼も厚くなるし、陞爵だって狙えますよ。……その代わり、嫁は自分で決めるって言えばいい。どうです、できますか?」
ギルド長は、俺の顔と手紙を、何度か見比べていた。
「……なぜ、床屋がそんなことを知っておる」
「頭の中の相棒が、物知りなんですよ」
俺がこめかみをとんとんと叩くと、ギルド長は、初めて口の端をゆるめた。
「変わった床屋だという噂は、聞いておったがな」
それから手紙をつかんで、ゆっくりと立ち上がる。
「行こう、王都へ。ロレーヌの名を、一度だけ使ってやる。……最後に一度だけな」
その時、開けっぱなしの戸口で、小さな足音がした。
紺のショールを握りしめて、リーネさんが立っている。走ってきたのか、肩で息をしていて、眼鏡の奥の目が赤くなっていた。
「…………アル」
ギルド長の手から、手紙がぱさりと落ちた。
俺は何も言わずに椅子から立って、戸口のリーネさんの横をすり抜ける。すれ違いざまに、その背中をちょんと押してやってから、後ろ手に戸を閉めた。
『……おう。上出来だ』




