第18話 紺のショールと、今度は照れなかった「はい」
美容室を始めて、二週間がたった。
今日は、ヒルダさんの前下がりの二回目の手入れの日だ。店の奥に置いた丸椅子で、ヒルダさんの襟足を整えながら、俺はカウンターの横にぶら下げた木札の束を眺めた。予約札は、もう十日先までほとんど埋まっている。
合間に、脱毛と化粧の仕事もちらほら入るようになった。ただ、脱毛は店先じゃできないから、客の家まで出向いてやっている。手足を人前に出すのは、この街の女の人にはまだ恥ずかしいことなんだよね。
「はい、終わりです。今日もばっちりですよ」
「当たり前だよ。あたしは看板なんだからね」
ヒルダさんが手鏡で斜めの線を確かめていると、店の入り口のあたりで、客たちがざわっとした。
リーネさんが立っていた。今日はギルドが休みの日で、約束の布を受け取りに来たんだ。前髪をかき上げて、額を出して、黒いふちの眼鏡がくっきり見えている。棚の前で布を選んでいた客たちが、ちらちらとリーネさんを振り返った。
「いらっしゃい、リーネさん。うちの人が約束した布だね。さあ、どれで仕立てるかね。ドレス一着分なら、この辺りが……」
ヒルダさんが、上等な布を何本も棚から引き出しはじめた。リーネさんは、どれにも手を出せずに、眼鏡を押し上げている。
「ヒルダさん、ちょっといいですか。ドレスを一着仕立てても、着替えがないと毎日は着られないですよね。リーネさんは、毎日受付に立つんだし」
「……何が言いたいんだい」
「ショールにしませんか。普段のブラウスの上から、肩に羽織るだけのやつ。ただ、ふわっと巻くんじゃなくて、肩の線にかっちり沿うように形をつけて、首元をブローチで留めるんです」
俺は指で、自分の肩から首元に線を引いてみせた。向こうの世界で、昔の飛行機の客室乗務員がつけていたような、きりっとした形だ。
「夏は薄い麻で、冬は毛織りにすれば、一年中使えます。それに、受付って足元から冷えるでしょ? 肩にこれがあるだけで、だいぶ違いますよ」
「……冬の受付は、本当に寒いんです。インクが固まるくらい」
リーネさんが、ぽつりと言った。
でも、ヒルダさんは腕を組んで、俺をにらんだ。
「あんた、うちの売り上げを減らす気かい。ドレスとショールじゃ、布の量が倍は違うよ」
「でも、毎日同じショールを羽織って、同じブローチをつけてたら、『受付のあの人』って一目で分かるじゃないですか。俺の地元じゃ、制服っていうんです。仕事の顔ですね」
カウンターを叩いていたヒルダさんの指が、ぴたりと止まった。
「……リーネさん。ギルドの受付は、何人いるんだい」
「私を入れて、五人です」
「冬の毛織りと夏の麻、それぞれ洗い替えもいるから、一人四枚ですね」
「五人で、二十枚……」
『おい、ムサシ。おかみさんに言え。それを受付嬢に一枚ずつ売るのは下手くそだ。制服ってのは、働く人間が自分で買うもんじゃねえ。雇ってる側が揃えて出すもんだ。地球じゃ、銀行も航空会社も、みんな会社持ちだった』
「……ヒルダさん。うちの相棒が言うには、それ、受付の人に売るんじゃなくて、ギルドに売れって」
「ギルドに?」
『ショールの端に、天秤の刺繍を入れろ。そうすりゃ、ただの布じゃなくて「商業ギルドの顔」だ。払うのはギルドの金庫で、二十枚まとめて納めて終わり。……で、商業ギルドの受付がそれを着て並んでたら、冒険者ギルドも宿屋も黙っちゃいられねえ。次の客は、向こうから来る』
俺がそのまま伝えると、ヒルダさんは、帳面を持ったまま固まった。
「……あんたの相棒ってのは、どこにいるんだい」
「ここです」
俺は、自分のこめかみを指でとんとんと叩いた。
「地元にいた頃から、ずっと頭の中にいるんですよ。口は悪いけど物知りなんで、困ったら相談してるんです」
「……ふうん。まあ、二十枚がギルド持ちになるなら、頭の中に何が住んでても構わないよ」
ヒルダさんは、リーネさんのほうに向き直った。
「リーネさん。ギルド長に話を通せるかい。天秤の刺繍を入れるなら、ギルドの許しがいる」
「……私が、ギルド長に、ですか」
リーネさんは、少し迷ってから、こくりとうなずいた。
「それと、もう一つあるんです」
俺は、カウンターの横に並んでいる、蜜ろうの整髪料の小さな缶を手に取った。ネリーさんの頭のおかげで、今じゃよく売れている。
「これ、缶でばらばらに売るんじゃなくて、整髪料と、眉を描く墨と、紅。三つか四つ、一つの箱に入れて、一揃えで売りませんか。最初だけは箱の代金も入るから、ちょっと高くなります。でも、中身がなくなったら、箱ごと店に持ってきてもらって、ここで詰め直す。二回目からは中身の分だけです」
「……中身がなくなるたびに、うちに来るってことだね。来れば、布も見る。ショールも見る」
ヒルダさんは、帳面に何か書きつけると、顔を上げた。
「リーネさん、一揃えの最初の客になってくれるかい。箱はうちからのおまけだ。ギルドで毎日見せびらかしてくれるなら、安いもんさ」
それで、リーネさんが一揃えの最初の客になった。
仮縫いの紺のショールを肩に留めて、丸椅子に座ってもらう。俺は、箱に詰めたばかりの墨と紅だけを使って、リーネさんの顔に手を入れた。眉は、眼鏡のふちと喧嘩しないように、細く、なだらかに描く。紅は、唇の真ん中に指でほんの少しだけ置いて、なじませる。
「毎朝、これだけでいいですよ。眉を描いて、紅を少し。前髪はクリームでかき上げる。全部で、お茶を一杯飲むくらいの時間です」
手鏡をのぞいたリーネさんは、何も言わずに、何度も小さくうなずいていた。
◇
翌朝のギルドは、受付の前だけ妙に静かだった。
順番を待つ商人たちが、みんな同じほうを見ている。受付の一番前の席で、リーネが帳簿を開いていた。前髪をかき上げて額を出し、黒いふちの眼鏡をかけている。肩には紺の毛織りのショールがかっちりと沿っていて、首元に小さな銀のブローチが光っていた。唇には、ほんの少しだけ紅がさしてある。
「……あれ、リーネさんか?」
隣の席の受付嬢たちは、仕事の手を止めて、羨ましそうにそのショールを見ていた。
「ねえ、リーネ。それ、どこで……」
奥の扉が開いて、ギルド長が出てきた。書類の束を抱えたまま、受付の前で足を止める。
「……ショールの件は、聞いておる。天秤の刺繍、許す」
それから、しばらく黙ってリーネの顔を見ていた。咳払いをひとつする。
「……似合っておるな」
リーネは、もう耳を赤くしなかった。
「はい」
そう言って、リーネは笑った。




