第17話 隠してきた眼鏡と、十年目の「きれいだぞ」
布屋を出る前に、ヒルダさんが小さな革袋を二つ、帳場の卓に置いた。
「こっちはネリーさんの八十枚。あんたの初めての稼ぎだよ。で、こっちが登録料の銀貨二枚。……落とすんじゃないよ」
ベルモンドさんは、署名したばかりの紙を、大事そうに丸めて胸に抱えている。
「さあ、ムサシ殿、行こう! ギルドの連中に、わしが保証人だと胸を張って言ってやる」
「あんたが張るのは胸じゃなくて、口を閉じとくほうだよ。余計なことを言って、手数料を上げられたらたまらないからね」
通りに出ると、日はもう少し西に傾いていた。広場を抜けて天秤の看板の建物に入ると、受付の奥で、眼鏡をかけたリーネさんが顔を上げた。俺の後ろに立つベルモンドさんを見て、眼鏡を指で押し上げる。
「……本当に、保証人を連れてこられたんですね。しかも、ベルモンド布店の旦那様を」
『懐が重くなったぞ。銅貨百九十五枚だ。……で、受付の眼鏡、前髪が今日もガタガタだ。見るなよ。見たら絶対に口が滑る』
「うん、場所も決まったよ。ベルモンドさんの店の中。値段はね、カットと眉毛、首から上の脱毛で、銅貨二百枚。手足の脱毛は銅貨五十枚から銀貨三枚まで、化粧は銅貨三百枚」
リーネさんが、さらさらと書きつけていく。
「で、さ。俺の地元じゃ、カットモデルってのがあるのよ」
「カットモデル……ですか?」
「うん。切った人を見て『ああいう髪にしたいなあ』って思ってもらうために、髪を切らせてもらうんだよね。ベルモンドさんの店は、奥さんがカットモデルになって立ってくれてるんだけど、街の人には店に来ない人もいると思うから。リーネさん、カットモデルやらない?」
リーネさんは、ペンを持ったまま固まった。それから、ゆっくりと自分の前髪に手をやって、ガタガタの毛先を指の先でそっとなぞった。
「わ、私が……ですか?」
「おお、それはいい! ギルドの受付には、街中の商人が毎日顔を出すからな。わしだって、月に何度来ることか」
「ベルモンド様は黙っていてください」
ぴしゃりと言ってから、リーネさんは小さく咳払いをした。
「……ギルドの職員が、登録したばかりの一つの商売の看板になるのは、公平さに欠けるといいますか。ほかの商人から苦情が出るかもしれません。それに、私はこの前髪も自分で切っているくらいで、人前に出せるような髪じゃ……」
そう言いながら、目は書類じゃなくて、俺のシザーケースに向いている。
『見るなって言っただろうが。見たうえに、口説きにかかりやがった。……だが、断る理由を並べてるわりに、さっきからハサミしか見てねえぞ』
俺はシザーケースからハサミを出して、無駄にシャキシャキと指で回しながら言った。
「じゃあ、そいつらに服とかバッグとか、いろんなものを買ってもらえばいいじゃないですか。俺が髪を切って、そういう商人たちの品物でリーネさんがきれいになるなら、いいじゃないですか。自分たちは何もしないで、人の商売に口を出すなってことです」
シャキ、シャキとハサミが鳴るたびに、眼鏡の奥の目が右へ左へと動いた。しばらく黙ってから、リーネさんは、ふっと小さく笑った。
「確かに、苦情を言いに来る人に限って、自分では何もしないんですよね。……ベルモンド様、もし私がカットモデルになったら、布を一着、見立てていただけますか」
「も、もちろんだとも! ……いや待て、ヒルダに聞いてからでないと」
「保証人の書類に、名前を書いてこられたんですよね?」
「……見立てさせていただきます」
「ただし、条件があります。ギルドが閉まって、鐘が鳴ってからにしてください。勤め中に髪を切られていたら、それこそ苦情が来ますから。それと、眼鏡は外せません。外すと、ムサシさんの顔も見えないので」
『おい、ハサミを回すのをやめろ。客の前で見せびらかすのは、向こうの店でも先輩に怒られてただろうが』
「そういうのも含めて切るのが、俺たち美容師の仕事だから。たぶん、そんなに頻繁に手入れする時間はないでしょ? そういうのも全部含めて、眼鏡によく似合う、受付に立ってもおかしくない、リーネさんらしい髪にするよ。任せて」
リーネさんはこくりとうなずくと、ベルモンドさんの署名した紙を広げた。銀貨二枚を天秤で量り、帳簿に書き込んで、最後に木の柄の印を紙の端にとん、と押す。
「商いの種類、美容室。商い主、ムサシ・マツモト。保証人、ベルモンド。……これで、ムサシさんはこの街の商人です」
「おお……! ムサシ殿、おめでとう!」
ベルモンドさんが、自分のことみたいに俺の肩をばんばん叩いた。
ちょうどその時、外から、ごおん、ごおん、と鐘の音が響いてきた。リーネさんはカウンターから出てきて、窓際の椅子に腰を下ろした。夕日が差し込んで、眼鏡のふちが赤く光っている。
その奥の扉のそばで、白髪まじりの大柄な男が、腕を組んで壁にもたれていた。
「それじゃあ、ここで切りましょうか。ギルド長、今の話、聞いてましたよね。リーネさんをきれいな受付嬢にしますから、少しだけ時間をください」
「……鐘が鳴ってから、と言ったのはリーネだ。わしは何も聞いておらん。何も見ておらん」
そう言いながら、ギルド長は扉の前から一歩も動かなかった。
「まず、前髪を揃えます。長さは肩にかかるくらいの、ボブっていう髪型にします。前髪は、伸びたら分け目をつけるんですけど、それまでは、このクリームで毎朝かき上げてください。おでこを、あえて出します」
「……私が、おでこを出すんですか?」
「そうです。おでこを出して、眼鏡を見せる髪型にします。任せてください」
怒られたばかりなのに、俺はハサミをくるりと回してから、リーネさんの髪をコームですくい取った。
ガタガタだった前髪を一本の線に揃えて、後ろは肩に触れるくらいで切りそろえる。毛先にだけ少し段をつけて、内側にふわりと丸まるようにした。最後にクリームを指に取って、前髪をかき上げる。額がすっと出て、黒いふちの眼鏡が、顔の真ん中にくっきりと浮かんだ。
手鏡を渡すと、リーネさんは眼鏡を押し上げようとして、途中で手を止めた。
「……眼鏡が、邪魔じゃない。ずっと眼鏡を隠したくて、前髪を伸ばしては切ってたのに……これ、眼鏡があるほうが、ちゃんとして見えます」
「ほら、ギルド長。髪を切った女の人を見て『何も見ておらん』は駄目ですよ。きれいなものはきれい、似合うものは似合うって言わなきゃ。もう一回、リーネさんをちゃんと見てください」
ギルド長は、組んでいた腕をほどいた。のしのしと窓際まで歩いてきて、リーネさんの顔を見下ろす。リーネさんは膝の上で両手を握って、それでも目をそらさなかった。
「……似合っておる。十年、うちの受付に座らせてきたが、お前の額をちゃんと見たのは今日が初めてだ。……きれいだぞ、リーネ」
リーネさんの耳が、みるみる赤くなった。
「……ギ、ギルド長。仕事中です」
「鐘はもう鳴った」
ギルド長はふんと鼻を鳴らして、俺のほうを向いた。
「わしに言わせたからには、明日からここに来る商人どもが、みんなリーネの頭を見て、お前の名前を聞くことになる。下手な仕事をしたら、真っ先に登録を取り消してやるからな」
「ギルド長、それは保証人のわしも困るのだが……」
ギルド長は、それには答えずに、のしのしと奥の扉へ戻っていった。




