第16話 耳が赤いおかみさんと、市の頃を思う旦那
客たちに囲まれて、ネリーさんは照れくさそうに首筋をなでていた。ヒルダさんがぱんぱんと手を叩くと、店の中がすっと静かになる。
「はいはい、うちは布屋だよ。見物はそこまで。……ネリーさん、約束どおり八十枚はあたしが立て替えるよ。気に入らなかったら払わなくていいって言ったけど、どうする?」
「払う払う! 払うに決まってるだろ!」
その後ろから、さっき「十は若く見える」と言った若い客が、ずいっと前に出てきた。
「ねえ、次、あたしもやって! 短いのは無理だけど、その……眉のやつだけでも!」
『おい、行列ができかけてるぞ。……でもお前、おかみさんとまだ何も紙に書いてねえだろ。登録も保証人もこれからだ。ここで調子に乗っていいのか、少しは考えろ』
クロえもんの言うとおりなんだよね。俺は若い客に手を合わせた。
「ごめんねえ。これからヒルダさんと話して、ギルドに行かなきゃいけないんだよ。今日ここで買い物してくれたら木札がもらえるから、別の日に来ても二割引きにするよ。……木札、大丈夫ですよね、ヒルダさん」
「大丈夫どころか、願ったりだよ」
ヒルダさんはカウンターの下から、焼き印の入った木札の束を出して、どんと置いた。
「聞いたね、みんな。今日うちで布を買った人には木札を出す。それを持ってくりゃ、ビヨウシツが二割引きだ。ただし、木札は今日の分だけだよ。明日から出すかどうかは、あたしの気分次第さ」
「えー、ずるい! じゃあ、あたしこの水色のをひと巻き!」
「あたしも、さっき取っといてもらった生成りの!」
ネリーさんを囲んでいた輪が、そのまま棚のほうへ流れていった。奉公人の子たちが、物差しとはさみを持ってばたばたと走り回りはじめる。
『……お前が「別の日に」って言っただけで、待ってた客が全員、布を買う客に変わった。急がせたのはおかみさんだがな。お前ら、組ませると危ねえぞ』
ヒルダさんは奉公人に「港の倉庫まで走って、うちの人を呼んできな」と言いつけると、俺を奥の帳場に通した。布の匂いがこもった小さな部屋で、出された茶は、麦を炒ったみたいな香ばしい味がした。
「さて、うちの人が戻るまでに話を詰めとこうか。いつから、どこに椅子を置くか。あんたのビヨウシツの決まりごと、全部聞かせてもらうよ」
「じゃあ先に、一番忙しい日と、一番暇な日を教えてください」
「忙しいのは市の立つ日だね。五日に一度、噴水の広場に市が出る。村からも人が来るし、昼過ぎまでは息つく暇もないよ。暇なのは市の次の日。みんな前の日に使っちまってるからね。それと雨の日」
そこまで言って、ヒルダさんは目を細めた。
「で、それを聞いてどうするんだい。忙しい日に客を取れば、ついでに布も売れる。普通はそう考えるけどね」
『……試してるぞ。ここでの返事で、お前が商売人かどうか見る気だ』
「忙しい日は、もちろん来ますよ。ここに住んでなくて、その日しか来られない人もいますからね」
「……村の女か。そいつは考えてなかったね」
ヒルダさんは、指でとんとんと卓を叩いた。
「村の女は、町の女よりよっぽど髪をほったらかしだ。村に帰ったら、隣近所に見せびらかすだろうね。五日に一度、村の数だけ看板が歩いて帰ってくってわけだ。……じゃあ、暇な日は?」
「町の人には、割引が終わっても『予約札』を出します。前もって日にちを決めておいて、町の人には暇な日に来てもらう。そうすれば、市の日は町にいない人の相手ができます」
卓を叩いていた指が、ぴたりと止まった。
「あんた、忙しい日と暇な日を、ならしちまう気だね。……ただ、札を受け取っといて来ないやつがいたらどうするんだい。町の女なんて、亭主の機嫌ひとつで約束を忘れるもんさ」
『地球の美容室でも一番の悩みだな。無断キャンセルってやつだ。一発で急所を突いてきやがった』
「別にいいですよ? 基本は予約で埋めたいですけど、空いたら、来た人を入れちゃいます。札を忘れた人は予約のし直し。三回やったら予約はできなくなって、空いてる時だけです」
「あっはっは! 三回で取り上げかい。掛け売りと同じだね。払わないやつには、次から現金でしか売らない。……あんた、床屋のくせに、商人の帳面のつけ方を知ってるよ」
ヒルダさんが帳面を開いて何か書きつけはじめた時、店のほうが騒がしくなった。
「おい、ヒルダ! 何事だ、倉庫まで小僧を走らせて!」
息を切らしたベルモンドさんが、帳場の戸口に顔を出した。俺に気づいて、ぱっと顔を明るくする。
「おお、ムサシ殿! ……いや待て、店先のあの騒ぎは何だ。パン屋のネリーさんがとんでもない頭で布を選んでいたぞ。客もみんな、水色の布を抱えて……」
「あんたが倉庫で樽を数えてる間に、うちは一日分の布を売ったよ。座りな。ギルドに出す紙に、保証人として名前を書いてもらう」
「ほ、保証人? いや、ムサシ殿のためなら喜んで……だが、何の保証人だ?」
『旦那、何も聞かされてねえのに、もう判子を押す側に回されてるぞ』
俺は立ち上がって、ベルモンドさんに深く頭を下げた。
「ベルモンドさんのおかげで、昨日は寝るためのお金をいただいて、今日はお名前のおかげでギルドでも話を聞いてもらえて、奥様にもお世話になりました。本当にありがとうございます。このご恩は忘れません」
「よ、よしてくれムサシ殿! あれは服とヒゲの礼だ。礼に礼を返されたら、わしはどこで止めればいいか分からなくなる」
そう言いながら、まんざらでもない顔でひげをなでている。昨日、俺が整えたひげだ。
「この人はね、頭を下げられるのに弱いんだよ」
ヒルダさんが、帳面から顔を上げた。
「あんたが恩を返すのは、この人にじゃない。うちの帳面にだよ。忘れないってんなら、二月たっても客が来てるようにしな。それが一番の礼さ。……さあ、これで話は済んだ。あとはギルドだね」
「いや、まだヒルダさんの髪を切ってませんよ?」
「……は?」
有無を言わさず丸椅子を持ってきて、ヒルダさんを座らせた。ベルモンドさんが紙に名前を書いている間に、俺はハサミを動かした。
後ろは襟足が見えるくらい短く、前に行くほどあごの線に沿って長くなる。横から見ると、すっと斜めに一本、線を引いたみたいな前下がりのショートボブだ。
「うーん、我ながらいい出来だな。ただこれ、二週間に一回は手を入れないと崩れる髪型なんで、お客さんに勧めるにはちょっと……」
「…………ヒルダ?」
ベルモンドさんが、書きかけの羽根ペンを持ったまま、ぽかんと口を開けていた。
「お前……若い頃、市で布を売ってた時の……いや、あの頃より……」
「余計なことは言わなくていいよ」
ぴしゃりと言ったヒルダさんの耳が、ほんのり赤い。それから、手鏡をくるりと回して、斜めの線を指でなぞった。
「つまり、あたしは毎日店先に立って、二週間ごとにあんたの椅子に座る。客はそのたびに、あたしの頭を見る。……勝手に人を看板にしたね」
ヒルダさんは、にやりと笑った。
「いいさ。看板代は、あんたの手間賃と相殺だよ」
『……旦那、「三日は気づかない」亭主とは大違いだな。一瞬で気づいたうえに、昔の話まで出かけたぞ』
「うん。……たださ、奥さんが眼の前で髪切ってるのに、何も言わなかったら、布と一緒に巻かれて倉庫行きだろうなあ」
『……違いねえ。この家で一番強いのは、帳面だ』




