第14話 布屋のおかみさんと、八十枚の賭け
天秤の建物を出ると、通りの向こうの肉屋から、マルタさんが手を振っていた。
「兄さーん! どうだったー?」
「なんか、新しい商売でいけそうです! ベルモンドさんのところに行ってきますねー!」
「旦那んとこは、おかみさんが財布握ってるからねー! 先におかみさんを落としなー!」
通りの人が、みんな一斉にこっちを振り返った。俺は「は、はーい!」と手を振りながら、逃げるように歩き出した。
港のほうへ通りを下っていくと、噴水のある広場に出た。その角に、糸巻きの絵が描かれた大きな青い看板がかかっている。『ベルモンド布店』だ。
店先には色とりどりの布が棚いっぱいに並んでいて、女の客が何人も、布を手に取っては品定めしていた。奥のカウンターでは、ふくよかな女の人が帳面をつけながら、てきぱきと奉公人たちに指示を飛ばしている。
『客は女ばかりだな。で、カウンターのが噂のおかみさんだ。目つきが、完全に財布を握ってる人間のそれだぞ』
ベルモンドさんの姿は見当たらない。でも、ああいう人は町の噂に強いはずだ。マルタさんの髪のことも、もう知ってるんじゃないかな。
カウンターに近づくと、おかみさんが帳面から顔を上げて、俺を上から下まで値踏みするように眺めた。
「いらっしゃい。……布をお探し、じゃなさそうだねえ。待ちな。その腰の革の入れ物。あんた、昨日うちの人の服を新品みたいにして、ヒゲまで整えたっていう床屋かい? それに今朝、肉屋のマルタが変な頭で走り回ってたけど、あれもあんたの仕業だろ」
「はい。床屋をやっておりましたが、この街では『美容室』という商売をさせていただこうと思っております。松本武蔵と申します」
俺は、店で叩き込まれたとおりに、深く頭を下げた。この辺りのお辞儀とは違うだろうけど、ちゃんと仕込まれた礼だってことは伝わったらしい。おかみさんが、少しだけ眉を上げた。
「……ふうん。家名持ちが床屋ねえ。まあいいさ、挨拶もうちの若いのに見習わせたいくらいだよ。あたしはヒルダ。この店の帳面は、全部あたしが見てる。で、その『ビヨウシツ』ってのは、マルタのあの頭のことかい?」
「マルタさんに昨日したのは、美容室の半分です。眉を整えて、顔の産毛を取る。そこまでが一人前の基本で、今朝、麦穂亭のエマさんとマルタさんにさせてもらいました。手足の脱毛や化粧は、別料金で承ります」
「手足の……脱毛? 剃るんじゃなくて?」
ヒルダさんの声が、少しだけ裏返った。後ろで布を選んでいた女の客が、思わずといった感じで自分の腕をさすっている。
『……脱毛は刺さりすぎだ。ここにいる女、全員が今、自分の腕を見てるぞ』
「場所がないので、今はまだ首から上だけなんです。……あ、エマさんをご覧になりたいなら、麦穂亭でぜひお食事もどうぞ」
「あっはっは! 自分の宿の宣伝まで入れてくるのかい。抜け目のない男だねえ」
ヒルダさんは笑ってから、カウンターを指でとんとんと叩いた。
「……『場所がない』、ねえ。つまり、うちの店先を貸せってことだろ。回りくどい言い方はいらないよ。うちに何の得があるのか、そこだけ言いな」
「逆に聞きますけど、俺がこちらの店先で美容室を構えたら、どうなると思います?」
ヒルダさんは、きょとんとしてから、くっと喉の奥で笑った。
「あたしに言わせる気かい。いいよ、乗ってやる」
カウンターに肘をついて、指を一本ずつ折っていく。
「まず、女どもが髪をやりに来る。順番を待つ間、暇だから布を見る。次に、髪がきれいになったら、着てる服がみすぼらしく見えてくる。新しい服が欲しくなる。……で、その布は、ここにある」
三本目の指を折って、にやりと笑った。
「それに、よその布屋の客まで、髪をやりにうちへ来る。来たついでに、うちで布を買っていく。……あんたが客を連れてきて、あたしが売る。そういうことだね」
「はい。場所代はただでお願いします。最初に使う化粧品や備品、ギルドの登録料もそちら持ちで。その代わり、こちらで買い物をして木札をもらったお客さんは、二割引きにします。宣伝費もかからずに町中の女の人が寄ってくるなら、安いと思いますよ」
ヒルダさんは、しばらく指でカウンターを叩いていた。
「銀貨二枚なんて、安いもんさ。客が二、三人座ればすぐ取り返せる。登録料はうちが出してやるよ。備品と化粧品も、うち持ちでいい。どうせうちで扱ってる品もあるしね。……で、肝心の値段は?」
「髪と眉と、首から上の基本で、銅貨二百枚です。割引なら百六十枚」
「二百は高いね。うちの客は商人のおかみさんが多いけど、それでもひと月の小遣いが飛ぶ額だよ。最初から二百じゃ、誰も試さない」
二百は、俺のプライドだった。向こうの店で、ちゃんと技術を積んできた値段だ。それに、一回来てくれた人が、三月に一度通ってくれればいい。
「俺は高いとは思いません。ただ、最初に試すには高いのも分かります。だから、最初の二月は百枚、割引なら八十枚でどうでしょう」
『……プライドか。嫌いじゃねえ。三月に一回なら、ひと月あたり七十枚もいかねえ。高いんじゃなくて長持ちするってことだ。その言い方なら、商売人には通じる』
ヒルダさんは、しばらく黙って俺の顔を見ていた。それから、ゆっくりうなずいた。
「……最初の二月は百、うちで買えば八十。いいだろう。ただし、二月たって誰も来なくなったら、この話はなしだ」
「はい、それで構いません」
ヒルダさんは、棚の陰でさっきから腕をさすっていた客のほうへ顔を向けた。
「ネリーさん、聞いてたろ。今なら八十枚だってさ。あたしが立て替えてやるから、試しに座ってみな。気に入らなきゃ、払わなくていいよ」
「え、ええっ? あたしが?」
ネリーさんと呼ばれた女の人が、おずおずと前に出てきた。三十くらいだろうか。くすんだ茶色の髪を、無造作にひとつにまとめている。
奉公人が、店の奥から丸椅子を運んできた。ネリーさんは、緊張した顔でそこに腰を下ろした。
ヒルダさんが、腕を組んで俺を見る。自分の金で、一人目を座らせたんだ。俺の腕に賭けたってことだ。
俺は、シザーケースを開いた。




