第10話 麦穂亭と、悪そうな親父
二つ目の角を右に曲がると、軒先に麦の穂を束ねた看板がぶら下がった、二階建ての宿があった。窓から明かりが漏れていて、中から肉の焼けるいい匂いがする。
『ここだな。入ったら、まずマルタさんの紹介だと言え。身内の紹介ってのは、こういう店じゃ一番効く。それと、宿の娘を見ても、口を開く前に一回考えろ。包丁を持った親父がいる店だぞ』
扉を開けると、カウンターの奥から、熊みたいにでかい腕をしたおやじが顔を上げた。
「いらっしゃい。泊まりか、メシか?」
「泊まりですよ。お姉さんのマルタさんから、飯がうまくて、愛想がよくって、かわいい娘さんもいるって聞いてね」
おやじの太い眉が、ぴくりと動いた。
「……姉貴の紹介か。メシがうまいのは本当だ。愛想がいいのも、まあ本当だ」
そう言いながら、おやじはカウンターの下から肉切り包丁を一本出して、どんと台の上に置いた。刃渡りは俺の腕くらいある。
「で、かわいい娘がどうしたって?」
『……バカが。言ったそばからか』
そこへ、奥の厨房から、エプロン姿の女の子が顔を出した。十六、七くらいで、栗色の髪を後ろでひとつに結んでいる。
「お父さん、またお客さん脅してるの? ……あ、いらっしゃいませ! 泊まりですか?」
『いいか、泊まれるかどうかは、お前の次の一言にかかってるぞ』
「あら、おばさんに似て美人さんだねぇ。俺、武蔵って言うんだ。よろしくね」
女の子は、きょとんとしてから、ぷっと吹き出した。
「おばさんって、マルタおばさんのこと? やだ、似てるなんて初めて言われた。……あたし、エマです。よろしくね、武蔵さん」
おやじは包丁を握ったまま、ふん、と鼻を鳴らした。
「……『姉貴に似て』か。俺に似て、とは言わねえんだな」
「お父さんに似てたら困るでしょ」
「うるせえ」
おやじは、ようやく包丁をカウンターの下にしまった。
「俺はガルドだ。一晩三十枚、晩と朝のメシつきで、前払いだ。……娘に妙な真似をしたら、さっきの包丁で三枚におろすからな」
『娘を褒めずに、おばさんを褒めたのか。それなら親父も怒れねえし、姉貴の顔も立つ。まぐれだろうが、今のは悪くなかった』
「じゃあ、三泊で! 商売がうまく行けば、長逗留するかもです」
ガルドさんは、俺が出した銅貨九十枚を、太い指で一枚ずつ数えてからうなずいた。
「お兄さん、何のお仕事ですか? 冒険者や商人には見えないですけど」
「俺はね、床屋さんなの。しかも俺のいた所じゃ、女のお客さんも多くてね。さっきマルタさんも切ったんだよ」
「マルタおばさんの髪を? ……おばさん、明日絶対うちに見せに来るよ。あの人、新しい物はすぐ自慢しに来るから」
エマちゃんは、自分の結んだ髪の先をつまんで、ちらっとこっちを見た。
「……ねえ、それって、あたしも切ってもらえたりする?」
その瞬間、ガルドさんの眉間に深いしわが寄った。
「エマ。床屋ってのは、男が行くとこだ」
「おばさんは切ってもらったんでしょ」
「姉貴は姉貴だ」
『おい、武蔵。娘の髪を触るってのは、この親父からすりゃ娘に手を出すのと変わらねえ。ここで調子に乗ったら、本当に三枚におろされるぞ。今の手持ちは百十五枚だ。宿を追い出されるような真似はするなよ』
俺は、クロえもんの声が聞こえないふりをした。
向こうの店では、女のお客さんもたくさん来ていた。髪型が変わって、鏡を見て顔をぱっと明るくする。そういう顔を見るのが、俺は一番好きだった。
だから、この世界じゃ女の人が髪を切ってもらえないって聞いて、驚いたし、正直ちょっと腹も立っていた。
俺は頭がいいわけじゃないし、大それたことができるとも思ってない。
でも、やると決めたことだけは、最後までやる。
「じゃあ、大将のひげと頭、やらせてよ。俺の腕を見てもらって、大丈夫ならエマちゃんの髪を切らせて? こんなにかわいいんだから、俺が髪を切ったら、いいとこの坊ちゃんから求婚されるよ?」
ガルドさんの眉が、ぴくぴくと二回動いた。
「……求婚だと? どこの坊ちゃんだ。連れてこい、三枚におろしてやる」
「お父さん!」
エマちゃんが真っ赤になって、父親の腕をばしばし叩く。ガルドさんは気にもせず、もじゃもじゃのあごひげを、ごつい手でざらりとなでた。
「……まあいい。メシの支度が済むまでなら、付き合ってやる。下手だったら、宿代は返さねえからな」
ガルドさんは、カウンターの横の樽を引き寄せて、どっかと腰を下ろした。樽が、みしっと鳴った。
『……聞こえねえふりか。まあいい。お前のそういう顔は初めて見た。なら、やり切れ』
『ただし、こいつのひげは門番の倍は硬そうだ。油はもうねえぞ。どうする、床屋』
「エマちゃん、お湯と布をもらえるかな?」
「湯だと? 何でだ?」
「大将のひげって、硬いんですよ。だから、お湯に浸した布で温めるんです。大将だって、風呂に入って温まったら柔らかくなるでしょ」
「……確かに、風呂上がりは俺も柔らかくなるな」
ガルドさんが真顔でそう返すと、エマちゃんは「お父さんは柔らかくならないでしょ」と笑いながら、湯気の立つ桶と布を持ってきてくれた。
熱い布を軽く絞って、ガルドさんのあごにぐるっと巻く。でかい肩から、すうっと力が抜けていくのが分かった。
「その間に、髪を整えときましょう。長さの希望はあります?」
「厨房で邪魔にならなきゃ、何でもいい。……前は、女房が切ってくれてたんだがな」
ガルドさんは、それだけ言って目を閉じた。エマちゃんが、一瞬だけ黙った。でも、すぐに「お父さん、変な頭にされても知らないからね」と、いつもの調子で笑ってみせた。
『蒸しタオルか。地球の床屋の基本だな。……それと、今の話は聞いたな。この家じゃ、髪を切るのは家族の仕事だったんだ。昔の女房の手みてえに、丁寧にやってみろ。娘は、そこを見てるぞ』
俺はまず、頭皮をもみほぐしながら、皮脂と髪の汚れを取っていった。それから、横をこの街じゃ見たことがないくらい短く刈り込んで、上だけ少し長さを残した。温まって柔らかくなったひげも、あごの線に沿って整える。
「どうですか?」
手鏡を渡すと、ガルドさんは鏡の中の自分を、しばらくにらみつけていた。
「……誰だ、こりゃ」
「お父さん……かっこいい」
エマちゃんが、目を見開いたまま言った。
「なんか、もっと悪そうになった。……でも、すっごく似合ってる」
「悪そうは余計だ」
ガルドさんは、短くなった横の髪を、何度もなでた。こわもての顔に、妙な色気まで出ている。
「大将、この長さならバンダナを巻けば、厨房でも髪が落ちないですよ」
「……そうか」
ガルドさんは鏡を置いて、エマちゃんのほうを見ないまま言った。
「女房が生きてたら、笑っただろうな。『あんた、誰だい』ってよ」
エマちゃんが、エプロンの裾をぎゅっと握った。
「……床屋。腕は分かった。エマの髪、やってやってくれ。ただ、今からは晩メシの客が入る。明日の朝メシのあと、ギルドに行く前にしろ。手が髪以外に行ったら、三枚におろす」
「約束だからね!」
エマちゃんが、その場で跳び上がった。
『……落としたな。今の親父の顔、よく見とけ。お前が欲しかったのは、こういう顔なんだろ』
「うん。俺はこういう顔が好きで床屋やってるんだよ」
俺は、ちょっと誇らしく胸を張ったんだ。




