第4話:不協和音の撃退と、特別な林檎パイ
夜の帳が下りる頃だった。ドンズ亭の重い木扉が、蹴り破られるような勢いで開く。
ずかずかと踏み込んできたのは三人の大男たちだ。革鎧を着込み、腰に粗悪な剣を下げている。
彼らは肩で風を切り、他の客を威圧するように食堂の中央に陣取った。
「おい親父! ボンド商会様からの『ご提案』、まだ返事聞いてねえぞ。まさかこの期に及んで首を縦に振らねえなんて言わねえよな?」
先頭の男が、近くの空きテーブルをブーツで蹴り飛ばした。
ガシャーンと鈍い音が響き、木製のテーブルが傾いて床に倒れる。
食事をしていた他の客たちは悲鳴を上げ、蜘蛛の子を散らすように……いや、怯えたネズミみたいに壁際へ逃げていった。
ドンズが厨房から飛び出した。血の気の引いた顔で男たちの前に立つ。
「ふ、ふざけるな! 誰がここを手放すか! ここは俺の……」
「うるせえ! なら店ごと叩き潰してやるよ!」
男の一人がドンズの胸ぐらを掴み、太い腕を振り上げる。
私はオカリナを握りしめ、厨房の奥から前に出ようとした。
その時。
「……五月蝿いぞ、下郎ども」
私の背後から響いたのは、底冷えのするような低い声だった。
間違いない、ジルだ。
彼は大きな肉切り包丁と血の滴る鶏肉を持ったまま、ゆっくりと歩み出て男たちの前に立った。
怒りで肩を震わせているが、血まみれの鶏肉と包丁を握りしめる大男の姿は、騎士というよりただの危ない猟奇的な肉屋だ。
「なんだテメェ……」
「神聖な厨房の前で騒ぐなと言っているのだ。貴様らのような下賎な輩の息がかかれば、空気が濁り、肉の鮮度が落ちる!」
ジルはバンッ! と手元の鶏肉を近くのテーブルに叩きつけ、肉切り包丁の峰でドンズを掴んでいた男の手首を鋭く打ち据えた。
「痛っ……!?」
「ドンズから手を離せ。それとも、その薄汚い腕を肩からスライスされたいか?」
料理人としての狂気と殺気を放つジルに、男は顔を引き攣らせて思わずドンズを放し、後ずさった。
「て、てめぇら! なにビビってんだ。ただのコックだぞ? おら、やっちまえ!」
後ろの二人が顔を真っ赤にして剣を抜こうとする。
私はすかさず、首から下げていたオカリナを口に当てた。
彼らの三半規管を狙って、思い切り息を吹き込む。
ピィーーーッ!
空気を切り裂くような高周波の音が、頭蓋骨を直接揺らす重低音となって彼らの耳を直撃した。
「な、なんだ!? 耳が……!」
「あたまが、割れ……っ!」
突然の目眩に襲われた三人の男たちは、両耳を押さえてふらつく。
先頭の男が平衡感覚を失い、前のめりに倒れ込んできた。
その顔面が、威嚇のためにジルが目の前に突き出していた肉切り包丁の柄尻に、信じられないほどの勢いで激突した。
ゴシャッ! という鈍い音がして、男が白目を剥いて床に崩れ落ちる。完全に偶然だが、完璧なカウンターだった。
「それで? まだ『ご提案』の話を続ける気はあるか?」
ジルは倒れた男を一瞥もせず、残る二人を冷ややかに見下ろした。
本人は何か技を決めたつもりなのか、胸を張ってドヤ顔をしている。
「……ヒッ!」
二人は気を失った仲間を引きずり、転がるように宿から逃げ出していく。
深夜。
倒れたテーブルを直した厨房に、ドンズが大きなお皿をドンッと置いた。
「……その、なんだ。今日はお前らに助けられた。感謝する」
ドンズは顔を真っ赤にしてそっぽを向くと、「それ、食っていいぞ」とだけ言い残し、奥の部屋へ引っ込んでしまった。
皿の上に乗っていたのは、焼き立ての林檎パイだ。たっぷりの蜂蜜とシナモンがかけられている。
私は大きく目を見開いた。
こんなにいい匂いがする「あまみ」は、ゴミ捨て場では絶対に見つからない。
「……ふん。素人の焼き菓子だな。火加減も甘いし、生地の折り込みも……」
ジルは腕を組んで難癖をつけていたが、視線は先ほどから林檎パイに釘付けだ。腹の虫もキュルルと鳴っている。
「……ジル。半分こ!」
「……」
肩をすくめながらジルは、腰の袋から愛用のペティナイフを取り出した。
私はテーブルに身を乗り出して、思わず足をバタバタさせてしまう。
サクッ、サクッ。
小気味良い音と共にパイが等分に切り分けられた。切り口がとても綺麗で美しい。こういう手先の器用さだけは流石だ。
「「いただき」」
「ます」とジルが言うより早く、私はサクッ、と音を立ててパイを齧った。
口いっぱいに林檎の酸味と蜂蜜の濃厚な甘さが広がる。
「……美味しい!」
「……」
隣を見ると、ジルも眉間の皺を完全に消し、幸せそうな顔でパイを頬張っている。
私と目が合うと、彼はハッとしてすぐにいつもの傲慢な顔を取り繕った。
「……ま、まぁ、悪くない。だが俺が作れば、この三倍は美味く……」
「ありがと。ジル」
「あ?」
「おいしいね!」
私が小さく笑って言うと、ジルはおどけたように深くため息をついた。
「……明日も厨房の掃除を忘れるなよ、オルフェ」
口の中には、林檎パイの甘い香りがずっと残っていた。




