第2話:盗っ人の足音と、不器用な連携
翌朝。ドンズ亭の1階は、朝食のスープを求める宿泊客の喧騒に包まれていた。
厨房からは、規則正しく小気味よい音が響いている。
「おい、新入り! スープの鍋が空だぞ!」
「やかましい! 煮込みのタイミングというものがある。下界の者どもは少しは待つということを覚えろ!」
文句を言いながらも、ジルは手首のスナップを効かせて巨大な木べらを操り、鍋の中の野菜を焦がすことなく完璧に炒めていた。無駄のない動きは、まるで戦場を駆け回る将軍のようだ。
私は厨房の隅っこに座り、木皿についたスープの残りをパンで綺麗に拭き取って口に放り込んだ。ドンズの適当な塩味とは違う、丁寧に引き出された野菜の味がする。
その時だった。
ドタバタという荒々しい足音とともに、宿の階段を転がり落ちるように一人の行商人が駆け込んでくる。
「盗まれた! 俺の荷物が!」
行商人は頭を抱えて床に膝をついた。商売道具である銀の匙がなくなったらしい。
奥からドンズが顔面を蒼白にして飛び込んでくる。
「ほら見ろ! まただ。最近うちじゃコソ泥騒ぎばかりで客足が遠のいてるってのに……!」
私は騒ぎの中心に目を向けた。泣き叫ぶ行商人の横で、その肩を叩き、「災難だったな」と慰めている男がいる。
その男からは、二種類の音が聞こえた。一つは姑息な嘘をつくときの心音。もう一つは、右のブーツの中でカチャカチャと鳴る、硬い金属の響きだ。
「ジルジル。チャンスだよ」
私は厨房から身を乗り出し、ジルのマントの裾を引っ張った。
「あの慰めてるやつ、嘘ついてる。右のブーツに銀のスプーンを隠してる音がする。あれ解決したら、ドンズ、あんたの家賃をタダにしてくれるかも」
ジルは私の耳元で不快そうに小声で囁いた。
「……騎士にコソ泥の詮索などさせる気か」
「そお。じゃあ、今夜からまたゴミ捨て場だね」
ジルはひどく嫌そうな顔をした。
でも、舌打ちをしながらも一歩踏み出すその後ろ姿は、妙に堂に入っている。
ジルは洗って綺麗になったブーツの踵を鳴らして、騒ぎの中心へ歩み出た。
「騒ぐな、平民ども。この俺が来たからには、事件はすでに解決したも同然だ」
突然しゃしゃり出てきた大男に、食堂の客たちがぽかんと口を開けた。
彼は慰め役の男の前に立ち、長い指でビシッとその鼻先を指差す。
「盗っ人は……行商人、貴様を慰めているそこの男だ!」
「な、なんだと!? ふざけるな、証拠はあるのか!」
「証拠? 貴様の右ブーツから聞こえる金属音だ。さあ、脱いで調べさせてもらおうか」
男の顔から、サッと血の気が引いた。
「……っ! なんなんだお前は!」
男は隠し持っていたナイフを抜き、ジルに向かって振りかざす。
「ぬっ!?」
腕組みをして見下ろしていたジルは、完全に不意を突かれた。
慌てて後ずさるが長い足がもつれ、バランスを取ろうと両腕をクルクルと空中で振り回す。
男はその隙に体勢を崩したジルの脇をすり抜け、宿の扉を蹴り開けて外へと逃げ出していった。
「イテテ……チッ! 小悪党め……!」
しりもちをついたジルは、腰をさすりながら悪態をつく。
行商人が「ああ、俺の銀の匙が!」と嘆き、ドンズが頭を抱えていた。
「……右の路地へ。石畳みを蹴ってる。東」
私が耳を澄まして呟くと、ジルがこちらを見た。
「おい小娘。お前は奴をそのまま追え」
ジルは立ち上がり、マントの埃を払う。
「俺は逆の西から回り込んで挟み撃ちにしてやる!」
いや、東に向かってる相手を西から追ったらただの逆走なんだけど。
止める間もなく、ジルは反対方向の路地へ全速力で駆け出していった。
仕方なく、私は言われた通り東へ向かう。
三十番倉庫の裏路地。冷たい潮風が吹き抜けている。
男はレンガ壁に背を預け、荒い息を吐きながらブーツの裏から銀の匙を取り出していた。
私が歩み出ると、男はすぐにナイフを向けてくる。
「女が……! 追ってきたのか。痛い目見ないうちに失せろ!」
私は何も言わず、首から下げていたオカリナをゆっくりと口に当てた。
ピィーーーッ!
空気が鋭く震え、男の三半規管を直接殴りつけるような高周波の音が響く。
男は突然ひどい目眩に襲われたようにふらつき、平衡感覚を失って派手に転倒した。レンガの地面に頭を打ち付ける、ゴツッという鈍い音が鳴る。
「な、なんだ……!? 足がもつれ……」
男が這い上がろうとした、その時だ。
「ゼェ、ハァ……! 逃がさんぞ、悪党め!」
小道の奥から、信じられないほど息を切らしたジルが現れた。
完全に迷子になっていたのだろう。顔面を真っ赤にしながら、たまたま男の逃走ルートの先回りに成功したらしい。
ジルは男の背中をブーツで無造作に踏みつけ、その手から銀の匙を取り上げた。
「……大人しく縛られてしまえ」
「ねぇジル。ロープなんてないけど?」
私が見上げると、ジルはチッと舌打ちをした。
自身のズボンのベルトに手をかけ、少し顔を赤くして「……小娘、背を向けろ」と唸る。
その日の午後。
私たちは衛兵の詰め所へ、ジルのベルトで縛り上げたコソ泥を突き出した。騒ぎが落ち着くと、ドンズは「しばらく厨房と警備を任せる」と言って、私たちの滞在を正式に認めてくれた。
夜の厨房の隅。
ジルはかまどの前で膝を抱え、不機嫌そうに鍋を睨みつけていた。
あの後、ベルトを外したせいでズボンがずり落ちそうになり、衛兵の前で無様な姿を晒したのだ。
彼は腕を組んだまま、面白くなさそうにそっぽを向いている。
私は無言で彼の隣に座り込んだ。
空の木杯を、コトン、と床に置く。
「……なんだ」
「……」
私が無言で杯を指差すと、ジルは大きなため息をついた。
「……ふん。俺の完璧な包囲網がなければ、あの小悪党は逃げおおせていたのだ。貴様の奇妙な笛の音など、ほんの目眩ましに過ぎん」
分かりやすい強がりを呟きながら、ジルはゆっくりと立ち上がってお玉を手にする。
かまどの火を細めに入れ直し、鍋の底に残っていた少しばかりのスープを温め直した。
心地よい火の音がする。とても静かだ。
ジルは口元をわずかに緩め、真剣な眼差しで鍋の灰汁を掬い始めた。
やがて、コトン、と温かい杯が私の前に置かれる。
「……飲め」
「……うん」
私が小さく呟くと、ジルはほんの少しだけ口角を上げた。再びマントを被り、壁に寄りかかる。




