第1話:美味しい料理と、ゴミ捨て場の騎士
世界は、やたらとうるさい。
水路を這う濁り水の音。遠くの駅が吐き出す蒸気の轟音。それから、人間たちが喉の奥で鳴らす「嘘」の響き。
私の耳はちょっと良すぎるせいで、そんなものが全部鼓膜を叩いてくる。
土と潮の匂いが入り混じる路地裏で、私は今日も「あまみ」を探していた。要するに、食べ物だ。
雨上がりのゴミ捨て場。
生魚の骨と腐ったキャベツの山に、大きなブーツが突き刺さっていた。
呼吸の音は……微かにある。生きてはいるらしい。
私はゴミの山を見下ろし、汚れたブーツの踵を爪先で軽く小突いた。
「……ねえ、ゴミさん。もうすぐ回収の荷車が来るよ。一緒に捨てられるつもりなら、そのブーツだけ私にちょうだい」
ビクン、とブーツの主が跳ねた。
生ゴミの雪崩と共に、山の中から大柄な男が這い出してくる。
「……っ、げほっ! 誰がゴミだ!」
頭にキャベツの葉を乗せた男は、立ち上がろうとして足元の水っぽいゴミで滑り、派手に尻餅をついた。
だが、その手にはひどく汚れた空き缶が握られている。彼はそれを胸に押し当て、何かの勲章であるかのように必死に袖で磨き始めた。
しかし、汚れが落ちてただのトマト缶だと露わになった途端、男の広い肩がガクンと落ちた。
「……奪われた。俺の領地、俺の剣、俺の……勲章……」
男はトマト缶をそっとゴミ山に戻し、自分のコートの裾を力なく握りしめる。
薄汚れで、どっちが表かも分からない。なのに、その生地の滑らかさだけは不思議と損なわれていなかった。
すんっ。
私が屈み込んで、その極上のウール生地に顔を近づけて鼻を鳴らすと、男はビクッと飛び退いた。
「き、貴様! 人のマントで鼻をかもうとするな!」
「あ、ごめん。すごくいい生地だったから、つい」
「当然だ! これは由緒正しき……いや、気安く触るな!」
男はひったくるようにマントを奪い返し、宝物のように抱きしめる。
彼の胸の奥から、ドッドッと激しい音が聞こえた。無駄に元気な心音だ。
ぐー。
不意に、私の耳元で汽笛のような音が鳴った。
男が真っ赤な顔をして腹を押さえる。
「……お腹、鳴ってるよ?」
「ち、違う! これは俺の腹の虫が、下界の腐敗に対する怒りを表明しているのだ!」
見栄っ張りなやつ。
あまみの欠片を分けてやるほど、私はお人好しじゃない。
背を向けて立ち去ろうとしたその時、ゴミ山の影から野良犬が唸り声を上げて男に近づいてきた。
シャッ。
男の右手が、反射的に腰の袋へ伸びる。
鞘から半分だけ覗いたのは、騎士の剣なんかじゃない。使い込まれ、柄の木目が滑らかにすり減った、ただのペティナイフだ。
玉ねぎのツンとした匂いと、動物の脂の香ばしい匂いが、ふわりと漂った。
野良犬は男の気迫に怯んだわけではなく、単にペティナイフから漂う玉ねぎの匂いを嫌がったのか、くしゃみを一つして去って行った。
男は素早くナイフを袋の奥に押し込んだ。
「……ついてきて」
「なんだと?」
私は振り返り、野良犬を見送った男を見上げた。
「私がいつもご飯をもらってる安宿があるの。あんたの腰のやつで、厨房の仕事でも手伝えば、ご飯くらい食べさせてくれるかも」
「……はっ!? なぜ俺が料理用の……い、いや、これは由緒正しき護身用の短剣だぞ!」
「玉ねぎとニンニクの匂いが染み付いた短剣なんてないよ。すごく大事に手入れしてるんでしょ」
図星を突かれた男は、気まずそうに顔を背けた。
やがて、彼は大袈裟に咳払いを一つする。
「……ほう。この俺に厨房の指揮を執れと言うのだな。よかろう、案内しろ」
* * *
安宿へ向かう道すがら、水路の橋に差し掛かったところで、男は立ち止まった。
彼は無言でマントを脱ぐと、石段を降りて冷たい水路の水に両手を突っ込んだ。
「……なにしてるの?」
「馬鹿者。厨房に立つ前に身を清めるのは鉄則だ!」
男は真っ赤に凍えた手で、狂ったようにゴシゴシと汚れを洗い落とし始めた。手だけならともかく、薄汚れのマントまで水路の水で洗っている。
数分後。水をたっぷり吸ってさらに重くなったマントを羽織り直すその後ろ姿からは、ボタボタと水滴の落ちる鈍い音が鳴っていた。
日が落ちた海都の街はずれ。安宿「ドンズ亭」。
勝手口から顔を出した店主のドンズは、ずぶ濡れの男を見て顔をしかめた。
「おいオルフェ! うちは行き倒れの収容所じゃねえぞ!」
「待て。俺はただの行き倒れではない。ジルだ」
名乗った男は、ドンズが扉を閉めるより早く、半ば強引に厨房へ滑り込んだ。
そして迷わず野菜籠から芽の出た古いジャガイモを幾つか掴むと、腰の袋からあのペティナイフを抜いた。
トン、トトン、トン。
流れるような手首の返し。皮は途切れることなく剥かれ、まな板の上で等間隔に刻まれていく。
怒鳴ろうとしていたドンズの口が、ぽかんと開いた。
「……素材の悪さに甘えるのは二流だ。ドンズと言ったな」
ジルと名乗った男は刃先を布巾で拭いながら、不敵に笑う。
「貴様の厨房を借りる。代金は、俺が作るスープを一杯、貴様の腹に収めることで手を打て」
ドンズ亭の厨房で、ジルの音が変わった。
さっきまでの頼りない背筋が伸び、研ぎ澄まされた刃物のようなリズムが刻まれ始める。
脂の焼ける音、煮汁の弾ける音。
ドンズの強火一辺倒な乱暴な音とは違う。ジルの操る火の音はまるで暖炉の薪が静かに爆ぜるように穏やかで、鍋の中の食材が小気味よく跳ねているように聞こえた。
やがて、木皿から立ち上る温かな湯気が、私の冷え切った頬を撫でる。
私はドンズと並んで、無言でスプーンを口に運んだ。
ジルは腕を組んだまま、固唾を飲んで私の顔を見つめている。
「……あまっ」
野菜の切れ端から出た出汁のコクと、微かな香草の香り。塩気はほんの僅かなのに、古いジャガイモの甘みが舌の上にふわりと広がる。
「なんで? これ、ドンズのまっずいジャガイモだったのに」
「ふん。素材の底力を引き出し、それを救済するのが……俺の務めだ」
ジルは濡れたマントを揺らしながら、誇らしげに胸を張った。
その横で、空になった自分の皿を見つめていたドンズが、頭を掻きむしった。
「……あー、くそっ。腕は悪くねえ。だが、これだけで毎日の宿代になると思ったら大間違いだぞ。今夜は特別に、そこの隅っこの藁の上を使わせてやる」
* * *
深夜。厨房の隅。
かまどの残り火だけが、うっすらと暗がりを照らしている。
世界は相変わらず不快な音で溢れているけれど、今の私の胃の奥は、ほんの少しだけ温かい。
隣では、ジルが大きな体を丸め、重いブーツを履いたまま壁に寄りかかっていた。
彼はゆっくりと目を開け、鍋の底に残っていたお玉半分のスープを、小さな木杯に注いだ。
「……ほら」
無言で差し出された杯。
「……いいの?」
「俺はもう十分だ。腹が鳴って眠れんのだろう、小娘」
「オルフェだよ」
私は杯を受け取り、両手で包み込んだ。
指先から伝わる温もりが、あまみを帯びている。
「私の名前。オルフェ。明日からはちゃんとそう呼んでよね」
「……ふん。よかろう、オルフ。明日も俺のスープを食いたければ、せいぜいこの厨房の掃除でもしておくことだな」
「オルフェだってば」
ジルはそう言って、再びマントを深く被り直した。
彼の寝息が、かまどの火の爆ぜる音と混ざり合う。
明日もあの美味しい「あまみ」がもらえるなら。
このうるさい街の片隅も、悪くないかもしれない。




