0話:読み切りダイジェスト版
世界は、へんな音で溢れてる。
水路を流れる水の重たい音、遠くの駅で吐き出される蒸気の轟音。それから、人間たちが吐き出す「嘘」の……あの耳の奥を針で刺すような不快な響き。
嫌でもあらゆる音を拾ってしまう私の耳は、いつも痛みを抱えている。
何十年も変わらない土と潮の匂いの中で、私は今日も痛みを誤魔化すために、誰かが落とした「あまみ」の欠片を探していた。
「苦い」ものばかりの毎日の中で、胃の奥を少しだけ温めてくれる報酬や、誰かが不意に差し出してくれた飴玉。やさしい挨拶。
生きる苦痛をほんの一瞬だけ忘れさせてくれるそういう優しいものを、私はいつからか「あまみ」と呼ぶようになっていた。
私にとって、「あまみ」はこの世界で唯一信じられるものだ。
雨上がりのゴミ捨て場。
そこには、一足の「かつては輝いていたであろう高級な革ブーツ」が、ガラクタの山から空に向かって突き立っていた。
私は足を止めた。死体なら、音はしない。でも、そのブーツからは、バタバタと暴れる振動と、くぐもった声が聞こえてくる。
お酒の匂いもする。
「……ねえ。そこで逆さまになってる、足。もうすぐゴミ回収の荷車が来るよ。そのまま捨てられるつもりなら、その立派なブーツ、私にちょうだい。売れば『あまみ』がいっぱい買えそうだから」
私が声をかけると、ブーツがビクンと怒りで跳ねた。
「……黙れ! 俺はゴミではない! 俺は名門騎士団の、誇り高き分隊長、ヴァージル・グランツ……っ、げほっ! ぺっ、ぺっ! キャベツの芯が喉に……!」
ガラクタの山から這い出してきたのは、想像以上に汚い男だった。
鼻の頭にはバナナの皮が張り付き、かつては白かったであろう騎士のコートは、もうどっちが表か裏かも分からない。
* * *
話を聞けば、この男——ジルは、一週間前まで名門の騎士だったらしい。だが、信頼していた家令に騙され、家も、土地も、爵位さえもすべて奪われた。
今では自分の屋敷には家令の息子がふんぞり返り、自分は雨の中を彷徨う身。勲章と見間違えた空き缶を追ってゴミ山に転落した……というのが、この無様な姿の真相だった。
この男からは「負け犬」の不快な音がする。それなのに、胸の奥からはどうしようもなく場違いな「誇り」の音が聞こえてくるのだ。
「騎士様? 騎士様って、ゴミの山を逆さまに守るのが仕事なの?」
「……ふん、無知な浮浪者の小娘が。いいか、これは『偵察』だ。俺はあえて、この下界の腐敗を暴くために、騎士の身分を一時的に返上しただけだ……っ、おい、人のマントで鼻をかむな!」
私はさっきから気になっていた鼻を押さえて、彼のマントでかんだ。
……驚いた。
私の継ぎ接ぎだらけのボロ布とは次元が違う。泥や生ゴミの汁を吸っているというのに、ベースとなる生地の滑らかさが一切損なわれていない。
極細の羊毛を丁寧に手織りしたであろう最高級のウールだ。鼻腔を優しく包み込むような適度な保湿性に、鼻水を瞬時に吸い取る驚異的な吸水力。そして何度強く擦っても、荒れた小鼻の皮膚を決して傷つけない極上の肌触り。
没落したとはいえ、腐っても名門の騎士。この鼻かみ布一つで、屋台の肉串が五十本は買えるはずだ。
ふーむ、と感心しながら反対の鼻の穴でもう一度思い切りかむ。
ついでに彼の鼓動を聞く。ドッドッと、鳴っている。嘘をついている時の音なんだけど。
それでも、奥に隠れているのは、他人を傷つける悪意じゃなくて、自分を守るための、脆くて小さな、それでいて頑固なプライドの音。
これは少しだけ「苦くない」音だ。
ぐー
「ねえ、……お腹、鳴ってるよ。今の音、隣の通りの汽車の汽笛かと思ったよ」
「ははは……腹が減っては戦ができぬ。だが、俺にはもう一文の蓄えもない!騎士のプライドにかけて、施しを受けるわけにもいかぬしな……」
私は、少しだけ考える。
あまみの欠片を分けてやるほど、私はお人好しじゃない。でも、この男が腰の袋にしまっている「料理用のナイフ」だけは、ちょっと信じてもいいような気がした。
「……ついてきて。私がいつもあまみ(残飯)をもらいに行ってる安宿があるんだけど」
「騎士に向かって残飯を食えと言うのか! 侮辱するのも大概に……」
「違うってば。そこの店主、料理の音がすごく乱暴で苦いから……あんたの腰の袋に隠してる、そのよく研がれた『料理用ナイフ』があれば、厨房に潜り込めるかもって思ったの」
その瞬間、ジルは後ずさりしながら腰の袋を押さえた。
「なっ……!? なぜ俺が『料理用ナイフ』を持っていると分かった! これは由緒正しき騎士の……ご、護身用の短剣だぞ!」
「玉ねぎと油の匂いがするし、鞘のその細工、たしか八十年くらい前に流行った料理人ギルドの特注品じゃない? ……すごく大事に手入れしてるんでしょ」
「な、なぜお前のような小娘がそんな古い意匠を……ち、違う! これは短剣だ!」
図星を突かれて顔を赤くしたジルは、気まずそうに咳払いをして姿勢を正す。
「……ほう。この俺に厨房の指揮を執れと言うのだな。よかろう、貴様の案内料は、いずれ俺が騎士に返り咲いた時に、金貨で払ってやる」
私よりずっと年下に見えるくせに、ずいぶんと偉そうな男だ。まあ、あまみさえ手に入ればなんでもいいけど。
* * *
安宿へ向かう道すがら、水路の橋に差し掛かったところで、ジルは突然立ち止まってマントを脱いだ。
「……ねえ、急にどうしたの。あまみはこっちだよぉ」
「馬鹿者、料理人が厨房に立つ前に身を清めるのは鉄則だ! ましてや、貴様の鼻水まみれのマントを持ち込めるか!」
そう叫ぶと、ジルは石段を降りて冷たい水路の水で、マントからブーツの泥汚れまで、全身を必死にゴシゴシと洗い落とし始めた。
数分後、水をたっぷり吸ってさらに重くなったマントを、寒そうに震えながら羽織り直すその後ろ姿からは、ひどく情けない不協和音が鳴っていた。
日が落ちた海都の街はずれ。いろいろな道に迷った者たちが身を寄せる安宿「ドンズ亭」。
周囲の連中は面白半分にここを「ドン底亭」などと呼ぶけれど、店主のドンズはそれを聞くたびに、顔を真っ赤にして「うちはドンズ亭だ!」と怒鳴り散らしている。
勝手口から顔を出したドンズは、私が連れてきたずぶ濡れの「新入り」を見て、案の定、深く眉をひそめた。
「……おい、オルフェ。いつも言ってるが、うちは慈善事業じゃないし、ましてや行き倒れの収容所でもない。お前にやるパンの耳はあっても、そんなどこの馬の骨とも知れねえ一文無しを泊める余裕なんてないぞ」
「この人、騎士様なんだって。……あと、料理が上手らしい。ドンズの作るマズープよりはマシだと思うけどな」
ドンズは鼻で笑った。だが、ジルは水路で洗って少し青白い顔で、不敵にニヤリと笑った。
「……ふん。素材の悪さに甘えるのは二流だ。ドンズと言ったか。貴様の厨房を借りる。代金は、俺が作るスープを一杯、貴様の腹に収めることで手を打て」
ドン底亭の厨房で、ジルの音が変わった。
さっきまでの、虚勢を張った不協和音が消え、代わりに、研ぎ澄まされた刃物のようなリズムが刻まれ始める。
サクサクと手際よく皮を剝き、まな板の上の食材は鍋の中に。脂の焼ける音、煮汁の弾ける音がする。
「…………」
木皿から立ち上る温かな湯気が、雨で冷え切っていた私の頬を優しく撫でる。
私が無言でスープを口に運ぶと、カチャリと木のスプーンが鳴る音だけが、厨房に響いた。
ジルは腕を組んだまま、固唾を飲んで私の反応を窺っている。
「……あま」
一口啜った瞬間、私は思わずそう呟いていた。
鶏肉の皮目から引き出された脂のコクと、どこから調達したのか、微かに香る野良の香草で、古いジャガイモの青臭さと、脂の不快感を消し去っている。
塩も胡椒も、ほんの僅か。なのに、立ち上る香りは素材の本来の味を、これ以上ないほど引き立てている。
そして、火の扱いが驚くほど繊細だった。
いつもこの厨房で頑張ってるドンズの料理は、とにかく強火一辺倒。食材も悲鳴を上げているような、暴力的な音がする。
ジルの操る火の音は、まるで川の傍の揺れる草がぶつかる音のように静かで、心なしか食材も楽しそうだ。
私はスプーンをくわえたまま、信じられない思いで彼を見上げた。
「なんで? これ、ドンズのまっずいジャガイモだったのに」
「ふん。素材の底力を引き出し、それを救済するのが騎士の……いや、料理人の務めだ」
ジルは濡れたマントを揺らしながら、誇らしげに胸を張る。
その横で、ドンズも渋々ながら空になった自分の皿をやや乱暴に置いた。
「……あー腕は悪くねえ。だが、これだけで毎日の宿代になると思ったら大間違いだぞ? うちは今、ただでさえ面倒な客のせいで赤字スレスレなんだからな」
美味しいあまみの余韻に浸ろうとした、その時だった。
私の耳が、二階の客室から弾けるような「焦燥」の音を拾った。
ドタバタという荒々しい足音に続いて、宿の1階に「泥棒だ!」という鋭い叫び声が響き渡る。
宿泊客の行商人が、商売道具である銀の匙を盗まれたと騒いでいるのだ。
「ほら見ろ! まただ!」ドンズが頭を抱える。「最近、うちの宿じゃこういうコソ泥騒ぎばかりで客足が遠のいてるんだ。このままじゃ本当に宿が潰れちまう!」
私は、騒ぎの輪の隅で、行商人を慰めているふりをしている別の客を見た。
その男の胸の奥から、二種類の音が聞こえる。一つは姑息な嘘。もう一つは、下品な「笑い」の音。
「ジルジル。チャンスだよ」
私は彼のマントを引っぱった。
「あの慰めてるやつ、嘘ついてる。あれ解決したら、ドンズ、あんたの家賃をタダにしてくれるかも」
ジルは私の耳元で小声で話す
「……俺を誰だと思っている。名門騎士団の分隊長だぞ、コソ泥の詮索など……」
「そお。じゃあ、今夜からまたゴミ捨て場だね」
ジル嫌そうな顔してる。けど、嫌そうにしながらも一歩踏み出すのは、なんか、いい。
ジルは舌打ちをすると、洗って綺麗になったブーツを鳴らして、騒ぎの中心へ歩み出た。
「騒ぐな、平民ども。この俺が来たからには、事件はすでに解決したも同然だ」
ジルのハッタリに、場が静まり返る。
「盗っ人は……行商人の旦那、あんたを慰めているそこの男だ!」
「な、なんだと!? ふざけるな、証拠はあるのか!」
「証拠? 貴様のその妙に膨らんだブーツだ。騎士団時代に捕らえた『小賢しい密輸犯』は皆、そうやってブーツの裏に細工をして隠す。さあ、脱いで調べさせてもらおうか」
図星を突かれた男から、一気に『焦り』の音が爆発した。
「……っ! なんなんだお前は!」
男は隠し持っていたナイフを抜き、ジルに向かって振りかざす。
「ぬっ!?」
腕組みをしてドヤ顔をキメていたジルは、完全に不意を突かれた。
慌てて後ずさるが、長い足がもつれ、バランスを取ろうと両腕をクルクルと空中で振り回す。
男はその無防備な胸元へ、思い切り肩から体当たりをした。
「うわあああ!」
ジルの情けない叫び声が響く。
男は派手に吹き飛んだジルを横目に、宿の扉を蹴り開け、外へと逃げ出した。
「イテテ……チッ! 足の速い小悪党め……!」
無様に尻餅をついたジルが、腰をさすりながら悪態をつく。
被害者の行商人が「ああっ、俺の銀の匙が!」と頭を抱え、ドンズも「これでまた客足が……」と項垂れている。
「……右の路地へ。足音が石畳みを蹴っている。東。」
私が呟くと、ジルがこちらに視線を向けてきた。
「おい、その耳……本当にそこまで聞こえているのか?」
「ほんとだよ。……ジルジル、どうするの。あのままだと、私たちの『あまみ』なくなっちゃう」
「……ふん。愚問だな」
ジルは立ち上がり、マントの水気を払う。
「ここから東だと……三十番倉庫しかない。さらにそこから先に行くのは小さな通路だけだ。俺は海鳴りの大坂を迂回して北から進む。……おい小娘、お前は奴をそのまま追え。」
あら?ちゃんとした騎士っぽい指示だこと。
私は言われた通りに宿を飛び出した。なんか、とっても楽しい気持ち。
すっかり暗くなった夜の路地裏。
海から吹き込む冷たい潮風が、濡れたボロ布の隙間を容赦なくすり抜けていく。
男は三十番倉庫の冷たいレンガ壁に背を預け、荒い息を吐きながらブーツの裏から取り出した銀の匙を月明かりに透かしていた。退路の小道のすぐ傍だ。
私が歩み出ると、男はすぐにナイフを向けてくる。
「女が……! 追ってきたのか。痛い目見ないうちに失せろ!」
私は何も言わずに、首から下げていたオカリナをゆっくりと口に当てた。
ホー
重い音。空気が震える。
耳が良すぎる私自身も、少しだけ頭の奥がズキリと痛むけれど、今はあまみのために我慢するしかない。
オカリナの不快な音が男の耳から脳へと絡みつき、彼は平衡感覚を失って派手に転倒した。冷たいレンガの地面に頭を打ち付ける、ゴツッという鈍い音が響く。
「な、なんだ……!? 足がもつれ……」
小道の暗がりから、無言でジルが姿を現した。
あれほど重いブーツを履いているのに、その足運びには一切の無駄がなく、泥を跳ね上げる音すら立てない。間違いなく、修羅場を潜り抜けてきた騎士の洗練された動きだった。
彼は男の退路を完全に塞ぐ死角に、いつの間にか先回りしていたのだ。
ジルは足元の水たまりごと男の背中を無造作に踏みつけた。ピチャリと跳ねた冷たい水が、男の頬を濡らす。
そのまま、ジルはその手から銀の匙を取り上げた。
「……大人しく縛られてしまえ」
「ねぇジルジル。ロープなんてないけど?」
と私が首を傾げると、ジルは困った顔をしながら自身のズボンのベルトに手をかけ、少し顔を赤くして「……背を向けろ」と唸った。
* * *
事件は解決した。
幸い、ドンズが呼んだ衛兵が後ろから追いかけて来たので、男はあっさりと捕らえられた。
泥棒を追い出したことで、ドンズは「お前らがいる間は治安が良くなりそうだ。 厨房も任せられそうだしな!」と、私たちの滞在を認めてくれた。
おまけに、行商人からお礼としてわずかな銅貨まで受け取ることができた。
ジルは半分を大切そうにポケットに仕舞い、私の方を振り返った。
「……おい、笛吹き小娘。これでしばらくは、干し肉の端切れではなく、まともな肉が買えるな。……『あまみ』とやらも、少しは豪華になるだろう。 あと半分はお前が取っておけ」
「……あまみ。うん、そうだね。ジルの作るスープは、あまみがするから。 お金? いらないよ……ジルが持ってて」
夜。宿の洗濯干し場。
世界は相変わらず不快な音で溢れているけれど。
このおかしな騎士様が作る、静かで優しい料理の音は、私の呪われた長い時間を、ほんの少しだけ温めてくれる あまみ がする。
「なあ笛吹きよ。明日も厨房の指揮を執らねばならん。先に休むぞ?」
「オルフェだよ」
「あ?」
「私の名前。オルフェ。明日からはちゃんとそう呼んでよね」
「……ふん。よかろう、オルフ。明日も俺のスープを食わせてやる。せいぜい感謝することだ」
「うん。……ジル、次はもっと美味しいあまみ、作ってね。 オルフェだよ」
明日もあのマズープよりはマシな、美味しい「あまみ」がもらえるなら。
不協和音と嘘にまみれたこの海都での、少しだけ騒がしい毎日も、悪くないかもしれない。
(了)




