第15話:酸欠と、壊れかけた笛の音
ドンズ亭の外は、すでに黒い鎧の男たちで埋め尽くされていた。
隣の空き家から炎が燃え移りそうで、石畳が赤く染まっている。
ジルのマントはすでに何箇所も切り裂かれていた。
荒い呼吸と少しずつ重くなっていく足取りが、音で分かる。
多勢に無勢だ。いくら彼が熟練の料理人でも、真っ黒なフライパンと小さなペティナイフだけでこの数を無傷で捌き切れるはずがなかった。
「……死ねぇ!」
背後から迫った男の剣が、ジルの右腕を——ペティナイフを握る腕を浅く切り裂いた。
「……っ」
ジルが短く呻き、膝をつく。
カラン、と石畳に乾いた音が響き、ナイフが手から滑り落ちた。
その瞬間、私の頭の中で何かがプツンと弾けた。
彼の荒い息遣い。痛みに耐える歯擦音。それが私の心をめちゃくちゃに掻き乱した。
私はドンズ亭の入り口に立ち、両手でオカリナを握りしめた。
目を閉じ、肺が張り裂けるほど息を吸い込む。
ピィーーーーーーーーーッ!!!!
いつもの間抜けな音じゃない。
悲鳴のような高周波の音が、空気をガラスのように砕いて夜空に爆発した。
「ぎああっ!?」
「なんだ、この音は……耳がっ!」
男たちが次々と剣を取り落とし、耳を塞いで石畳を転げ回る。
ドンズ亭の窓ガラスが割れ、周囲の家のランタンが一斉にパリンと弾け飛んだ。
それでも、私は吹くのをやめなかった。
喉の奥が焼け焦げるように熱い。肺の空気が完全に空っぽになり、頭の中がぐらぐらと揺れ始める。
視界が真っ白に染まり、自分の意思ではもう息を止めることすらできない。
もっと。もっと強く。
この音で、彼を傷つける全てのものを壊さなきゃ。
その時。
ひどく乱暴な手が、私の口からオカリナを無理やり引き剥がした。
「……もう、いい」
耳を劈く音が、ふっと途切れた。
ジルの荒い息遣いだけが、不気味なくらい鮮明に鼓膜を打つ。
私が酸欠で足から崩れ落ちそうになった、その時——馬の嘶きが静寂を破った。
「そこまでだ!」
無数の重々しい蹄の音が石畳を鳴らし、ドンズ亭を取り囲む。
上の街の正規の騎士団だった。先頭に立つ初老の将校が剣を抜き放ち、うずくまる私兵たちを次々と制圧していく。港湾組合に預けた帳簿の調査が終わり、ようやく本物の騎士たちが動いたのだ。
ぐらつく視界の中で目を開けると、目の前にジルがいた。
彼の耳からも一筋の血が流れている。私が間近で全力でオカリナを吹いたせいだ。
「……ジ、ル……ごめ、血……」
酸欠でかすれる声で謝ろうとした。
「喋るな。……お前のその肺活量はどうなっているのだ。鼓膜が破れるかと思ったぞ」
ジルは私の頭を乱暴に撫で回し、フラフラの私をそのボロボロのマントごと支えた。
「……馬鹿者が。俺の盾になろうなどと、百年早い。厨房責任者が小娘の笛に守られて逃げるほど、落ちぶれてはいない」
強がってはいるが、彼の声も少し震えていた。
胸越しに力強い鼓動が伝わってきて、痛む私の耳をそっと塞いでくれた。
私はそのまま彼のマントの埃っぽい匂いの中で、スッと意識を手放す。




